What the ? :『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』雑感

 電子書籍元年?2年?の話題もだんだん凋んでる感じだけど、タブレットの性能云々からプラットフォームとコンテンツの関わり(プラットフォーム側と出版社の折衝など)へと一般的興味が移ったのは、ひとつの段階的兆候ではあるのかな、と思う。まぁ一消費者としては、紙でも電子でも書かれた内容は同じなんだから選択肢は増えたほうがいいなと単純に思っている。稀覯本蒐集にはまるで興味のない自分だけど、それでも紙の本が消えるとも思ってないわけで。
 ともあれ、現状、日本語コンテンツが少ないからブックリーダー買ってもメリットないかなとは考えていた。そんなとき、某所で洋書フェアが開かれてて、未読だった"Extremely Loud & Incredibly Close"のペーパーバックがかなり安く売られているのを見つけて、購入。これが電子書籍のマスマーケット化が進展しない状況に対する個人的なメリットかも、と考える。なにしろ日本は翻訳天国なので、いままで洋書にほとんど目が向かなかったのだけど、これだけ電子書籍が騒がれてると、英語の小説くらいは原文で読むようにしようかなという気になったもんで。電子書籍という形を有効に使えるようポジティブな方向へシフトチェンジ。ペーパーバックを買っておいて妙な言い草だけど(どうでもいいことだけど、英語でのphysical booksって呼び方はなんか面白い)。
 というわけで、個人的な行動も状況に左右される。とても個人的な行為である読書においてさえ、そうなのである。


 今年の夏に翻訳書が出版されて表紙が印象的な(買ったのはペンギン版だから表紙に手はないが)『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』(ジョナサン・サフラン・フォア)は、2001年のアメリ同時多発テロ(※後述)で最愛の父親を失った少年オスカーの物語である。しかし、描かれているのは普遍的な光景だ。舞台はテロから二年後のニューヨーク。オスカーは父の死を受け入れられず、内省的な毎日を送っている。ママはロンという男と仲良くして、パパのために泣いてもいない。僕はいつもパパのことを考えているのに。あの日、パパがどんなふうに死んだのかを。僕にはママにもお祖母ちゃんにも言えない秘密があったから。









 ……心を掴んで離さない小説だった、明らかに。小説を読んで泣いたのは本当に久しぶりだった。で、「泣ける小説」なんて言うと、最近ではかなり胡散臭く聞こえるわけだが、泣くという行為自体は単純でも、その構造はけっこう複雑で、感情に流されている裏にはそうではない自分も存在しているんじゃないかな。泣いている部分があり、そうでない部分がある。自分の中の泣かない部分は別の何かに心を掴まれていて、その何かという対象を明瞭に名指すことができないのは、ひどくもどかしい。そして、泣くときにはそうしたはっきりとはしない何かまでまとめて感情に流してしまうから、単純に見える。本当は、小説を読んでいるときに流れる涙も、人が死んで悲しいとか別れが悲しいとかいう理由からではないのかもしれない。そういう意味では、泣くという行為は、生きることにも似ている。生きることは複雑で、自分がどこに立っているのかいつでもはっきりと分からない。何かが起こってもそれが自分の人生にとってなにを意味しているのか、あるいは意味があるのかさえ、分からない。ただそれが起こったときに、そこにいる自分に気付くだけだ。あるいは、感情の渦に押し流されているのに、押し流された自分だけを自分だと感じているように。でも、本当にそこに自分はいるのだろうか?
 そんな明らかにできない対象をオスカーは問おうとして、問いにできない。「問えない」のではなく、問いにできない。オスカーは客観的な判断を自分に求める少しませた九歳の子供で、いつでも論理的な説明を求めている。もちろん、問う理由は答えを知るためだ。それまでずっとパパにそうしてきたように。パパがどのように死んだのか、本当に自分を愛していたのか、最後に何を言いたかったのか。
 でも、オスカーには自分の問いたい対象がぼんやりとしていて分からない。だから問いを問いにできない。ただ反射的に、それとも感情に流されるように口にするだけ。"What the?" なにそれ? 問いの対象が存在しない。それともたくさんありすぎる。
 対象をはっきりさせることはできるのだろうか?
 父親の死後、やがてオスカーは手紙を書き始める。これも宛先という対象の明確化。彼は手紙を送り、時に相手から返事が来る。最初は嬉しかったホーキングからの返答も、送られてくるのは決まり文句の返事だと分かる。何度も同じ文面の返事しか来ない。決まり文句の返答には、対象がない。自分も相手もそこにはいない。彼が空っぽの棺への服喪に意味を与えられないのと同じく。
 オスカーが生き生きとした行動を開始するのは、ある夜、父親が持っていた謎の鍵を発見してからだ。対象がはっきりすれば、意味のある問いができる。ニューヨーク中を歩き回って謎の手掛かりを探して回る。いろんな階層のニューヨーカーと会って話をする(彼らのエピソードも面白い!)。いろんな人が彼の話を聞き、彼は相手の話を聞く。……そして答えに辿りついたとき、彼はどう思うだろう?
 対象をはっきりさせることはできるのだろうか?




 安部公房が英訳された『砂の女』について、梗概冒頭に出てくる言葉が「仁木順平」という名前なのが興味深い、というようなことをどこかで言っていた覚えがある。『砂の女』の作中、最後の「失踪に関する届出の催促」と判決書にしか男の名前は出てこないからだ。これについて安部公房が、アメリカ人というのは名前がないと不安なんでしょうな、というような感想を(どんな表現だったかうろ覚えだけど)述べていた。
 それを思い出したのは、作中にMomとGrandmaの名前が出てこなかったからだ。ママはまだしも、グランマの名前が出てこないのは構成から考えて意図的だろうと思える。対象の明示が名前によって為されるのなら、ここで表わされている対象は、祖母(別のところではyour mother)という関係性だけである。彼女の生きる意味は、オスカーを愛することだけ。明瞭だ。彼女の夫が去ってからすでに四十年を経ている。彼女は多くを失い、いままた息子を失った。彼女にはオスカーしかいない。オスカーもそれを知っている。彼女はその人生をオスカーに捧げている。彼女が生きられなかった人生のために、である。
 彼女は彼女自身を語りながらも、彼女自身をほとんど描出しない。それは彼女自身をモデルとした彫像を夫の手で作られることへの渇望にも通じるのかもしれない。それでも彼女は彼女を求めているから。彼女の声が描出する彼女の目に関する自虐は、彼女を彼女に結びつける唯一の通路だったのかもしれない。けれど、これもおそらくは彼女の姉との比較が前提にある。やがて、彼女は人生を意味づけるためにたくさんのルールを作ってルール通りに生きようとする。対象の固定化だ。そうすることによって、彼女の周りにはたくさんのsomethingが生まれる。でも、彼女自身はやはりない。
 もっとはっきりと自己を失った登場人物として、祖父は造形されている。彼が最後に発した言葉は"I"だった。そして、それもなくしてしまった。彼には名前がある。けれど、その名前はないも同然。
 世の中では、対象は(それが「自分」であれ)常にぼんやりとしている。なにを問いたいのかすら、本当には分からない。見ることも聞くことも嗅ぐことも味わうことも触ることもできないダークマターのように。それでいて、人生はそんなぼんやりとした対象に左右されている。物語が必要なのもそのためなのだろうか。物語は自分の人生のために必要とされるのか。確かに、それはひとつの救済なのかもしれない。なぜなら、事実はいつでもぼんやりとして望むとおりの形をしていないから。
 でも、そう記された「あの手紙」が示唆しているのは祖父の意見ではないかな、と思う。

 ……空っぽの棺には、いったい何を詰めればよいのか。


 誰もが人生を求めている。たぶん自分の人生を。たった一度だけでも。たった数秒間でも。
 その気持ちに共感できるから、心を掴まれるし、涙も零れるのだろう。この小説は死ではなく、生について描いているのだから。










※以下は、ごくごく個人的な意見である。意見と言っても、世間への非難ではまったくないし、主張というにも熱意が足りない。だから理解を求めない、単なる言い訳のようなもの。どうして「同時多発テロ」と書いて「9.11」と書かなかったかについての。


 僕は、3.11という言葉があまり好きではない。とても無機質な記号的な響きがするし、それは多分に「さんてんいちいち」または「さんいちいち」という音に起因しているのかもしれない。同じような対象化であっても、アメリカ人が同時多発テロを呼ぶときは"September eleven"か"nine eleven"じゃないだろうか(だから同様に、「きゅういちいち」や「きゅうてんいちいち」にも何か居心地の悪さを覚える)。と言っても、僕はその居心地の悪さについて明瞭に描き出すことができない。「さんてんじゅういち」ならいいのかと言われると、それでも居心地は悪い。自分でもどうしてそうなのか説明し尽くせるとは思えない。ただどこか居心地が悪いので、あまり使いたくはないのだ。それは海外のニュースが報じる"Fukushima"に対する居心地の悪さにも似ている。まして日本で「フクシマ」とカタカナで書かれることに。ヒロシマというカタカナへの違和感と同じ。どうして東日本大震災ではいけないのだろうか。どうして福島第一原発事故ではいけないのだろうか、とどうしても考えてしまう。もしも分析のために対象化が必要なのであれば、それで十分ではないだろうか。無機的な響きで対象を固定化するとき、起こった出来事自体を何かの中に埋めているような気がしてしまう。
 この小説では、作中、テロ事件を9.11と呼ぶことはなかった(見落としてたらすみません)。もし作者に他の理由があってそうしたのだとしても(それでもたとえば原爆の描き方を見ても、作者はあえて記号化を避けていると感じる。ヒロシマではなく、広島を描写しようとしているのだから。更にその場面には執拗にキノコ雲について問うインタビュアーとそれを見なかったと否定する母親が出てくる。キノコ雲は原爆の記号化だ。それも、遠くから見た記号だ)、僕はその事実を好ましいと思った。

下書きを、並べてみる。

 ずいぶん長らくブログを放置している。twitterを始めてから手をつけなくなった現状を鑑みるに、所詮140文字で収まるようなことしか考えてなかったのかな、と厭な思いに駆られる。メディアによって使い分けを、と思っていたはずなのに、実行に移すのは難しいなぁ。
 で、ひさしぶりに管理画面に入ってみると、思いのほか「下書き」が残っているのに驚いた。いったい何を書こうとしたのか不明な記事も多々あるが(むしろなぜ保存しようとしたのか不明なんだけど)、そのなかから「私」だとか「主体」だとかに触れている記事を選んで表に出してみる。時期にズレがあり、違う内容を書こうとして挫折している断片だけど、繋ぎ合わせてみたら、案外、一貫したお話になったりしないものかなぁ。






2009.12.25
 作者とは誰か?
「見えている」風景は意味以前の状況であり、言ってみれば、統辞論的な世界である。視覚風景の中での行為には、ア・ポステリオリに「解釈」が加えられることになり、そこに意味論的な世界が生成する。大乗仏教の謂う「縁起」や「依他起生」は解釈・注釈としての生成概念だろう。現象学の謂うノエマノエシスも同様に、意味論としての現前である。
 では、このとき解釈を加える主体なるものが実際に存在するのだろうか?





2010.01.09
「Rは、それ自身の要素でないような、すべての集合の集合」としたとき、「では、RはR自身の要素なのか?」
 イエスと答えてもノーと答えても、命題に矛盾する。
 私の認識する世界が世界のすべてである、とする認識論は、ラッセルのパラドックスに似ている。「私は、私自身の要素でないような、すべての集合の集合」と言うとき、「私」は「私」自身の要素なのか?
 世界を生成しているのは「私」ではない。少なくとも、「私」が「私」と考えているような「私」ではない。





2010.05.07
 小説を書く魔術師という存在自体がイギリス近代のわけのわからなさを明かしている。ずいぶん俗化して胡散臭さ倍増なのですが? と思ってしまう。アレイスター・クロウリーのことである。
 けれども、よくよく思えば言葉と魔術が結びつくという観点は日本でも空海を嚆矢として実例があるのだし、真言は言ってみれば魔法語を詠唱しているのだし、結印だって詠唱破棄なのだけど――。
 しかし、ちょっと無理がある。『三教指帰』は小説みたいなものだろと言われても、あれは仏教布教のための教えの書であって広い意味で捉えても魔術書じゃない。
 王立協会やライプニッツの普遍言語が受肉化した文化なのだろうか。自分のことを語りたがる魔術師というのもどうなのだろう、と思わぬでもないが、その辺が文化の違いと言うべきか。それともそんなに変わらないのかな?
 それが小説にまで敷衍されるのは珍しい。





2009.12.28
 人麻呂の「われ」を詠みこんだ歌。詠む「われ」の位相はどこにあるのか。

   あらたえの ふぢえが浦に鱸釣る海人とか見らむ。旅行くわれを。(巻三、二五二)

 歌には詠み人の主語は入らない。詠んでいるのが当人だということは自明だからだ。その歌の中に当人を詠みこむとき、彼は情景の中に入り込んでいる。
 叙景詩が出来上がるのは奈良朝に入ってからだと折口は言う。(「歌の話」)






2011.06.11
 ……う〜ん。この記事、そのうち削除するんじゃないかな。

『流跡』と異界について:朝吹真理子『流跡』雑考

 話題の作家・朝吹真理子のデビュー作を読んだ。
 賞を受けるのが作家か作品かという問題は、古今東西を問わず解決しがたい難問だろうと思う。それは近代特有の「人間」病かもしれないし、実はもっと古い原初的な何かかもしれない。もちろん作家本人のプロフィールばかりに光が当たるのは、テクストそのものにとっても不幸なことだし、小説というメディアにとっても好ましいことではないのでは? と思わないでもないけれど、まぁ結局は、誰がどう足掻いたところで、当の読み手が向き合うのは当の作品となるしかないのだし、誰も本当には作家を通じて作品を読むわけじゃない。だから窮極的には作者名とはインデックス以上の役割を果たさないのだが、にもかかわらず、その根強さを考えてみると、人間主体を枕頭に据えた本読みの姿勢自体が、もしかしたら日本文芸における「或る特徴的な類型」が特化的に発展してきた結果ではないのかという疑念が、ふと浮かんだ。
 ――「東下り」である。
 遠く業平や光源氏、つまり我が邦の「物語」の始めとされるところから(もっと言えば、神話の時点でヤマトタケル神武天皇もそうだが)、「東下り」は穢土への旅路、と規定されてきた。宮廷を遂われた貴種は、ひとの醜さ、生活の困難さ、赤裸々な欲望の入り混じる穢土への道行きによって、苦難と情念に直面する。その苦難や情念のあるによって、生活空間の渦中に放り込まれた彼は、自らの運命を切り開き、アイデンティティを見出して戻ることができる。人間像を問う物語は、常に東へと向かうものなのだ。
 無論、こうした東下り物語における零落の象徴としての「東」は、地図上の東方であるとは限らない。「西」に変奏して語られることもあれば、「異界」として措定されることもあるだろう。七卿落ちにしろ、『千と千尋の神隠し』にしろ、「東下り」の変奏と言えなくはない。そして、その特化した形として私小説があるのだ、というのは言いすぎかもしれないが、自己の生活をテクストに落とし込む手法は「人生」という穢土を見つめ直す手段であり、実人生をテクストにおいて生き直す方法論でもあるのは確かで、作家の行きて戻る場所としての「東」を「小説」そのものに仮構したものでもある、というのは言い過ぎではないと思う。ただ問題は、そうした私小説作家の戻る現実の場所も、やはり「東」でなければならないことだ。書き続けるには穢土を往還して、逃れられないループに自らを追い込む必要がある。それがどれだけ無理あることかは伊藤整が口酸っぱく述べているところだが、私小説に限らず、こうした小説観はやはり根強いように思う。実人生の写し絵として小説はある、とする考え方である。もしかすると、それは小説観というよりも人生観と言ったほうがより正確なのかもしれない。「東下り」は、単に文芸に限定したエートスではないらしい。


 以上を踏まえた上でテクストと向かい合ったとき、『流跡』は、そんな「東下り」の伝統に抗する特異なテクストであるとも言えるし、もう一方の伝統に即した極めて日本的なテクストであるとも言える。念のために強調しておけば、このテクストは東下りでもなければ、私小説でもない。前半で丹念に描かれるテクストの構成は、東下りを戯画化しているのではないか、とさえ思えるほどだ。
 この小説が描き出すのは、いわば「西下り」としての異界である。


 ゆるゆるあらましを辿りながら感想を書いてゆこう。
 高野山(※後述)、厳島神社筑後水天宮と、西へ西へと流れてゆく前半部分は、直線的な場所移動ではなく同時に時間も越えながら描かれている。ここで空間と時間を跳躍するのはひとつの主体としてでなく、ゆらゆら揺らめく世界線だけが描出される。曖昧な主体ならざる存在は、まるでその線上にたまたま現れただけというように、決して明確な主語としては立ち現れない。当然、登場人物はアイデンティティを規定できる記憶すらあやふやで、それを取り返そうとしても自己なる何かが元来あったかどうかさえも分からない。ひとであるかどうかも定かでない。示されるのは、ただ川に残った流跡のような世界線でしかない。その世界線が、いわば「西下り」のテクストになる。
 重要な点を記し忘れた。東が穢土ならば、西は浄土なのだ。
 冒頭早々に時間を越えた世界線上で出くわすのは、たくさんの被慈利たちである。「遊行上人の配下に属する半俗半僧の念仏者を、俗には磬打と呼び表向きには沙弥または被慈利と申せし事実は」云々と、柳田國男の「毛坊主考」にも記載がある。彼らを目に留めたその山道に、「南無阿弥陀佛」の札がある。これは当然、阿弥陀聖に由来している。すでに冒頭で「約束の場所」である西方浄土が示されている(高野聖真言宗徒ではありません。念のため)。
 ところが、この浄土を短絡に極楽と決めつけてはならない。
 実人生の営まれる場所は、穢土という人間世界である。だから、西へ西へと象徴的に穢土から遠ざかるならば、人間世界の秩序もまた剥落してゆくことになる。人間世界の秩序とはいったい何か? 法や倫理や社会道徳以上に人間を人間として規定しているのは、まず「言葉」である。人間は自らを規定する世界を、自らの言葉によって分節して知覚している。それに比して、浄土とは言葉が存在しない世界である。幸福や不幸も人間の言葉であり、浄土はそうした分節の彼方にある。これが重要。そこには世界のあるがままの姿があり、人間には感じ取ることのできない「自然」という何かが存在する。ゆえに、その何かを捉えようとして零れ落ちてゆく言葉の連なりは、世界線として跡に残るだけなのだ。ここで浄土行は、人間にとって一つの零落となる。自分が生きているのか死んでいるのか、世界線上に置かれた曖昧な存在にはそれさえも分からないのは、当然である。


 前半部分は、この西下りの道行きが時空を彷徨いながら描かれる。そうして小説の構造が示された後に、ある男の物語が始まる。連続した世界線上に忽然と立ち現れたその男は、水たまりの中に見えない煙突を見ている。現実には存在しない煙突に魅せられている。
 このとき男が見ている煙突は、浄土の光景だ。男が浄土に足を踏み入れているのは、テクストの世界線がすでに浄土に到達しているからだろう。繰り返しになるが、西下りのテクストは、異界としての「西」を描き出すものだ。
 男は自分のアイデンティティを保とうと必死になっている。男はいまだ人間であるつもりだから、「昨日の自分があって今日の自分があるから明日の自分がある。昨日の自分の責を今日の自分も負わねばならない。あたりまえのことだ」などと考える。確かに、あたりまえのことだ。わざわざ考えることですらないのに、男はわざわざ考える。実人生について考え、記憶について考え、死について考える。しかし、そうした考えがどうしてもうまく自分というものにそぐわない。やがて、幻視する煙突は焼場の煙突だと思っていたのに、そうではなかったと知る。男は自分が見つめているものは死だと考えていたのだ。しかし、そうではないと判明し、「なんだかにせもののようにとらえどころなくうつってみえ、すべてが遠遠しいことにしか思えな」くなってしまう。
 さて、男は本当は何を見つめているのか? この男は生と死の狭間にあるのではない。だから男が見つめるのは死ではなく、無である。無の渦中にある以上、生も死も意味がない。そして男にも、最初からそうした自覚はあったのだ。
 この男には妻がいて、子供がいる。妻は子供の発話が遅れていると心配している。男はそんな妻に呆れながらも、子供と一緒に風呂に入って話しかける。この場面は印象的だ。子供は「アンパンマン」としか言わない。

 アンパンマンが好きかときくと、アンパンマンと答える。今度はパパが好きかときいてみた。それにも、アンパンマンと答える。もう一度きくと、生返事になる。抱きつくと子供も抱きかえしてくる。子供は可愛い。抱きしめていれば、そのうち会話も密にできるようになるのではないかと思う。しかしそのうちっていつなんだろうか。

 言葉を知らない子供が見ている光景を、男は察しているのかもしれない。言葉を知ってしまった人間には窺うことすらできない異界を垣間見ている曖昧な存在である男には、「そのうち」という時間の流れは意味を為さないのだ。
 それでも男は、子供に引き戻されるように無へと足を踏み入れることを留まる。しかし、次に世界線上に立ち現れる女は様子が違う。いまは廃墟となった精錬所の島にいる女の、生命への執着も薄い。欲望も情念もまるで他人のもののようだ。この女もやはり生きているのか死んでいるのか自分ではさっぱり分からないまま、汽船が着くのを待ち続ける。この女の存在は、男の存在よりもあからさまに希薄である。内面がないのだ。女はただ視点として、そこにあるものを淡々と見つめ続ける。廃墟に残った人工物のように。女はそんな人工物に対して、「感情移入を避けたものとなって存在し、それがただ光波になぜられて分解し、非分解のものはひたすらそこにとどまっている」。まるで女自身のことを言っているように聞こえる。異界を人間の内面を通して映し出すのが東下りであるならば、西にあっては世界が圧倒的なまでに外に存在する。或いは自己がないのだから、内と外の区別すら意味がないのである。


 果たして、「西」という異界はいったい何を示しているのだろう? 東にある異界はいまここにある現実と地続きである。しかし、西の異界はいまここにある現実のありのままの姿である。いまここでありながら決して語ることはできず、文字できつくかがろうとしてもほどけて溶ける。語り尽くせないテクストは、結局、白紙に戻ってしまう。白紙であることが、唯一正しいのである。
 「西」に下れば、東下りの物語のように戻ってくることはない。それは「いま/ここ」にあって、同時に存在しない。
 かくまで徹底して人間のいない小説というのは、とても面白いと思った。



※ 被慈利についての覚書。

 被慈利という名であるが、仏道の慈恵利益を被る者という意味で、附会ながら趣意のある宛字である。しこうして通例ヒジリの語に宛てているところの聖の字を、特に避けて用いなかった点は、さらにいっそう深い意味があることと思う。記録の証拠はないが、聖の字を避けしめたのは外部からの圧迫かと思う。同じヒジリ坊主の中にも遠慮なくこれを用いている者もある。紀州の高野で有名な高野聖などは、かの山にあっては夙に非事吏と書いていた。

 上は、「毛坊主考」(柳田國男)の一節である。この文章を鑑みると、『流跡』冒頭の被慈利は高野聖ではない他の土地の遊行者かもしれない。被慈利は日本各地にいて、念仏仏教が入る以前からヒジリを名乗って部落を形成していた。毛坊主とは有髪の半俗半僧のことで、起源の一つとしてのヒジリ部落を考察しているのが「毛坊主考」である。ちなみに、引用元は『柳田國男全集11』(ちくま文庫)だが、この巻には「妹の力」や「巫女考」も収録されていて、個人的にはお得感を覚えている。
 このヒジリの語源であるが、一般的な解釈では「日知」であり「日のあまねきが如く、ひろく天の下を知るの意味」であるらしいが、柳田は「自分の意見では、ヒジリは単純に日を知る人、すなわち漢語で書けば日者という語などがその初めの意味であろうと思う」と述べている。以下、「毛坊主考」からの引用。「日の善悪を卜する風はわが邦にも古くからあ」り、「巫術祈祷をもって日の性質を変更することなども、上代の社会には最も必要な生活手段であったかと思う」。これらの日知は、「天体の日を祭ったものではなくして、時間の日を祝する任務をもっていたために公の機関としての必要を認められたものだろう」。ただし、これは民間のヒジリとは別物である。
 ヒジリの語源は時と共に混乱して、日知の生業も衰退してなぜヒジリと呼ばれるのか分からなくなってしまったのだろう、と柳田は推測している。ヒジリが聖となったのは当時の知識階級である仏門の徒によるものであり、それがいつしか毛坊主如きが聖を名乗るのはおこがましいとなり、被慈利の宛字となったという。その真偽は自分などには分からない。
 この「ヒジリ」に関して連想したことをちょっと書いておく。安藤昌益の『統道真伝』にも、ヒジリに関する一節がある。

 聖の字に非知ヒジリの仮名を附く、聖人は己が罪を知る故、言行あやまり無きを云う是れ甚しき失りなり。転下てんかに己の非を知らざる者は聖人なり。第一は自然の転道生生の直耕道を盗む、是れ転下無二の非なり。之れより失り始まり、不耕貪食の者転下三分が二に及び、果して兵乱始まる。是れ大非の始まりは聖人に起る。此れ非を知らざるの甚しき者なり。(引用中、転は天の意。昌益は天地を「転定」と書く)

「毛坊主考」ほどの論証は行っていないが、現世秩序を謳う儒の「非知」を揶揄する論理展開が面白い。ここでひじり=「日知」は「非知」と解され、元来の意味は「罪(非)を知る者」とされている。昌益の儒に対する批判は、儒の定めた秩序それ自体の否定を目的とした徹底的なものである。
 さて、『流跡』冒頭に被慈利が登場し、そこから西へ流れてゆく展開を読んで、儒の構築した秩序礼範をことごとく転倒させてゆく昌益の論法をちょっと連想した。『統道真伝』では耕作こそが自然であり、人間の生活が「自然」を破壊していると見る(いうまでもなく、この自然は現代のエコロジーとは関係ない。「ひとる五行は常にひとり行う、一切の妙行妙用、人倫の常行、万物の調有り、一歳に極りて、人と転定てんちと自然に合一なり」)。例えば、「則ち何が故ぞ、転に対し屈身し、中土の田畑に手を下して直運耕を為さざるか。之れを止めて貪食、口言のみ教うる故に、衆人に諂い、利己の謀言にして妄偽の失談なり」。言葉に対する見方が興味深い。昌益のいう自然と『流跡』の背景はまったく別物だとは思うが、二つのテクストをこうして眺めてみると、少し面白い。
 これはよしなしごとである。

映画とYouTubeについて:ジャン=ピエール・ジュネ監督『ミックマック』雑感

 恵比寿ガーデンシネマで『ミックマック』を観る。もしかしてこれ映画館で見るの倒錯なのかとつい思ってしまった、ジュネ版スパイ大作戦。『アメリ』のときにも思ったけど、なんというか、ジュネってキッチュであることを恐れないなぁ。マルク・キャロがいないと印象がまるで違う映画になるってのもあるけど。というわけで、『デリカテッセン』や『ロストチルドレン』を期待してはいけない(なのに、毎回それを期待してしまう)。もちろん映像は凝っているし、話のテンポもいい。でも、いくらか薄味。ま、コーエン兄弟もよくこういうの作るもんな。で、以下あらすじ。
 父親を地雷で亡くした少年が三十年後、ビデオ店で働いている。店番をしながらビデオを見ていると外の通りで銃撃戦が始まり、野次馬根性を出して表に出たところ、ギャング同士の抗争(としか言えないキッチュさ)の流れ弾を額に食らって昏倒する。
 ここで主人公が見ているビデオ『三つ数えろ』(ホークス)のエンドタイトルから『ミックマック』のタイトルクレジットへ移る作りが面白い。主人公が銃撃を受けて倒れる場面とテレビ画面のエンドタイトルが繋がり、終わりから始まる物語の構造を強調している。まるで映画というメディアの死を宣告しているようだった。「ビデオ屋」店員の主人公はどうやらシネフィルらしいし、主人公の代りに雇われた女の子が見ているのはテレビアニメである。
 その後、職を失い、家も失った主人公は変人の集まる家に連れて行かれて、家族になる。この家の外観や屋内はすごくきれいで、こういうバロック風な映像を作るのがジュネはすごくうまい。画面の切り替えのテンポもよく、登場人物の紹介も鮮やか。そんな変人揃いの「家族」の廃品利用ビジネスの手伝いをするうちに、父を殺した地雷のメーカーと自分を撃った弾丸のメーカーが通りを挟んで自社ビルを構えていることを知る。そこで主人公は「家族」の協力を得て、両者の間で暗躍しながら潰しあいを画策する。
 まァ要するに『用心棒』なのだが、この手のドラマトゥルギーホメロスシェイクスピアによくある古典的なものだから、ストーリーに新鮮さがないという非難は当を得ないんだろうな、おそらく。向かい合わせに自社ビルを構えるライバル企業というのも、範囲を限定するためのギミックで、特にご都合主義とは思わなかった。ただ中盤で大爆発が起こるんだけど、あれは人が死ぬよ。
「家族」たちは映画的なフリークスで、作戦遂行中にそれぞれが特技を生かすことになる。
 その中に「レミントン」と呼ばれる小説家の男性がいる。家の中ではいつもタイプライターを打っていて、話すときには無駄にレトリックを駆使する。機関銃のように喋る、という奴。ちなみに、レミントン製タイプライターは、1874年に火器メーカーでもあったレミントン&サン社のミシン部門から発売された。

 文書を保存するメカニズムや音を蓄えるメカニズムは、アメリ南北戦争の副産物なのである。エディソンは戦争のときまだ若い電信員だったが、モールス信号の作動速度を人力以上に高めようとする試みのついでに、彼のフォノグラフを開発した。武器生産者であったレミントンはとにかく「内戦景気の去った後、商売が次第に減り、生産能力に空きがでた」ために、1874年9月、ショールズのモデルの大量生産を引き受けたのである。
 タイプライターはディスクールの機関銃となった。鍵を叩くことはいたずらにアンシュラーク(タッチ=射撃姿勢)と称されるのではない。それは、拳銃や機関銃における弾倉の回転や映画におけるフィルムのコマ送りのように、自動化された、不連続な動きで作動する。――『グラモフォン・フィルム・タイプライター』(下)キットラーちくま学芸文庫

 ここで彼らのフリークス性を考えるとき、そこには意志の欠損(感情の欠損ではない)が担保されており、特化した能力の使い道について彼らは自ら考慮しようとしないのが特徴的だ。(劇中人物の)レミントンはライバル企業の間に入って双方が恨みを抱き合うための下準備を拵えるけれど、そのためのセリフを考えるのは主人公である。彼はタイピストのように割り振られたセリフを話すだけだ(無駄なレトリックを加えて呆れられながら。しかし、このレトリックは「自動的に」口にされるだけで事態を混乱させることはない)。数学娘は、現象を目視するだけで距離や角度を見極められる。この能力も、軍事においては最重要なセクションに相当するはずだが、ここでも何を測量するかを判断するのは主人公だ。他にも、人間大砲のギネス記録に執心している男や怪力の持ち主がいる。廃品から何でも作り上げる発明家がいる。そんな彼らは自分の能力を商品化しようとはしない。おそらく考えたこともないのだ。こうして一方で商品化されない「武器」として積極的に強調されながら、主人公の復讐劇には「家族」として協力する彼らが、自らをどのように規定されたいのか、はっきりしない。いわば人間性と道具性の間での揺らぎのようなものがまるでなく、だったらどうしてこういう設定なのだろう、という疑問がたびたび浮かんでくる。武器製造会社との分かりやすい映画的対比だとすると、言葉遊びの面白さ以上にはならない。けれど、たとえば『マルドゥック・スクランブル』で語られるような「道具や武器としての自分」という在り方への内省がないのは、むしろ彼らが十全に人間だからなのかもしれない。往々にして、人間は自分が人間であるという前提への懐疑をオミットして生きているものだ。
 この「家族」のなかでは、軟体人間の女性が最もフリーキーだろうが、最も人間的個性を与えられている。恋愛要因という位置づけだからで、そもそもこの話に恋愛要素は必要か、という疑問も浮かぶけど。「武器」に性差は求められていないからだ(タイプライターもまたそうであることが、キットラーの前掲書で論及されている)。武器性からの脱却というドラマがあるのならテーマとも合致するが、彼女は初めから人間らしい人間として描かれている。

 それから、言葉の問題が随所に出てくる。謎の言語や謎の身振りでナンセンスなコミュニケーションがとられたりする。これも一種のフリークス性への言及だと思うけど、残念ながら面白みも新鮮味もあまり感じない。銃撃のような身振りを相手に投げかけ、相手が受け止めようとするとそうじゃない、という。意味を為さない言葉もまた人間性を剥奪する武器性への非難なのだろうか?

 というように、全体的になにか「ある」ように見えて、手の届かないもどかしさがある映画だった。もしかするとドラマトゥルギーが強すぎてストーリーに引っ張られるから、肝心のディテールが印象に残らないのかもしれない。見ているうちは愉しいし、見終わると一定のカタルシスはあるのだけど、なぜだか薄っぺらい感じがする。いや、面白いのは面白いよ。面白かったはず。クライマックスの構成もよくできていて、まるでこの映画自体がフィクションであり、セットの中の出来事であるという言及のようにも感じられる。
 だから『大いなる眠り "The Big Sleep"』(『三つ数えろ』の原題)なのだ、としたら、映画そのものが冒頭のビデオが終わるまでに、銃撃を受けた主人公が見た夢だった、という解釈もできるだろう。本当は『三つ数えろ』のエンドクレジットが出たところで主人公の人生は終わっていて(あるいは弾丸摘出手術を受けたことでコーマ状態=「大いなる眠り」にあると)、そこから始まる物語はすべて夢、もしくは虚構なのですよ、だからこの映画のストーリーは出来合いの古典に則ってるんです、と。けど、それは別段面白くもない読み方だよなぁ(『パンズ・ラビリンス』を観てしまったら、その手の映画にはもっと上を期待してしまう、という観客の身勝手な思惑も影響するのだけど)。
 そう読むくらいなら、「もはやホークス調の(或いはボガート的な)ハリウッド神話は死滅しきって、その後に生まれる映画は(特にハードボイルドをやるのなら)キッチュでジャンクたらざるを得ない、という犯行声明と受け取ったほうが趣がある? とはいえ、まァ、そんなこといまさら言われなくてもという向きもあるし(ゴダールがデビュー作でやってることだし)、今の子供は『ランボー』さえも知らないのでは? とも言いたくなるけど。
 で、そうしたポスト映画あるいはハイアート消滅後の時代の「茶化し」として、ラストにYouTubeを登場させたとすると、……いやいや現実に似たようなこと起こってますから。日本で。
 ――と、ここまでが枕。







 これまでの映画ならいろいろあって証拠物件を入手した主人公たちは、新聞社やテレビ局へ匿名で郵送したり会社の前に置いたりしたはずで、古典的(または古典風)な映画だったら輪転機の回る映像にかぶせて巨悪が暴かれる旨の見出し入り紙面が踊ることだろう。しかし、今回の主人公たちは証拠動画をYouTubeにアップロードする。それをユーザーがたまたま発見して口コミで広がり、敵役が逮捕という流れだ。これも尖閣ビデオの一件がなかったら、なんだか安易なラストだな、と思ったかもしれない。現実が映画の見方に影響を与えた好例とでも言っていいのかな。
 数日前の産経新聞の記事に、似た趣旨の記載があった。内部告発やリークは大手メディアに対して為されるのが通例だったのに、尖閣ビデオYouTubeにアップロードされた、と。今回の件が内部告発に当たるかどうかは別としても、もしもテレビ局に持ち込まれていたとしたら、マスコミ各社は「犯人探し」をどのように論じただろうか? それが違法行為だとしても、ニュースソースの秘匿というジャーナリズムの原則との間でどのように折り合いをつけただろうか? 尖閣ビデオを入手しても報道を控える、とまではさすがに思わない。ビデオを一般公開すべきという論調は強かったし、国民の関心も高かったのだから。
 では、どうして43歳の海上保安官はマスメディアでなくYouTubeに投稿したのだろうか? そのほうがお手軽だったから? 外部に持ち出すより自分ひとりで処理したほうが安全と考えたから? この辺りの事情をマスメディアがどう捉えているのかには関心がある。
 今回のケースでは、もちろん投稿者は名乗り出るべきなのだろうと思うし、現に名乗り出た。そして名乗り出たことによって、事件の主眼がはっきりと見えてきたと思う。今後は法廷で争われ、その眼目は「中国人船長釈放に端を発した政府の対応の正当性」に関わってくるだろう。投稿されたビデオが機密として扱い得るかどうかを巡って公判の維持が難しい可能性がある、という報道もすでにある。これが機密に当たるかどうかの問題こそ、直接に今回の政府の対応の是非に繋がるだろう。仮に機密に当たらないという司法判断が為されれば、政府は不当に「国民の知る権利」を抑圧したのだから、事は情報管理を巡っての所管大臣更迭どころではない。当然デリケートな外交問題でもあるし、APEC直前という時期の問題もあったかもしれないが、それが法に照らして適切な判断だったのかはこれから問われることになる。
 日中関係に配慮するのは検察や裁判所の役割ではないのだし、国益(云うまでもなく、国体や国民道徳の話ではない)に照らした判断となれば、それはまた別のところで行われるだろう。
 なによりも司法の独立を保つためにも、今度こそ、「粛々と法に則って」解決して欲しい。


 なお、『ミックマック』は恋愛映画の常道に則ってハッピーエンドを迎えるのだが、この続きがあるとしても主人公は名乗り出ることはないだろうし、名乗り出る必要もない(主人公たちはホームレスという社会的弱者だし、あまり推奨できない方法で証言を手に入れている)。そこに甘さを感じるのは、今の自分が尖閣ビデオの流出という事態を見ているからかもしれないけど。ともあれ、テロ組織に武器を売却していると自白する武器製造会社社長の友人、という設定のサルコジ大統領までは被害が及びそうにない(まァフランスは市民運動が活発なようだから、引きずり降ろされるかもしれない)。
 それよりも、ここの辺りでテーマがあやふやになるのが難点で、この映画は武器製造自体を非難しているのか、テロ組織にも武器を売却することを非難しているのか、分からなくなるのだ。というのも、投稿動画を見た人は武器製造そのものではなく、テロ組織への売却にショックを受けるだろう。けれど、その動画を撮影している主人公たちは、国益云々ではなく無差別に人を殺傷する武器そのものを非難しているはずなのだ。世論がどう転ぼうが構わない、復讐の達成だけに眼目があるコメディだよと言われればそれまでだが、だからこそ、この映画ではYouTubeというネットメディアは単なる「茶化し」の道具として組み入れただけかな、と思えてしまう。
 フィクションにおける「茶化し」ではないメディアとして、すでに投稿動画サイトは機能している。そこで働く欲望は劇映画に期待する欲望とはまた少し違うのだろうか。ヒッチコックが言うような窃視症的な映像「だけ」を楽しむなら、ジュネの映画は最高に楽しいとも言えるのだけど。
 現実には薄っぺらではない確かな手触りがあるのだ、とはさすがに主張しない。





追記[11.13]
 WikiLeaksを題材にした映画もすでに勘案されてるのかな、とふと思った。となるとジュリアン・アサンジ役はエドワード・ノートンか? 監督はフィンチャーかレッドフォードか、いや、マイケル・ムーアによるドキュメンタリーって線もあるのか。
 いまのところ賛否両論のWikiLeaksだけど、ハリウッドで映画化されたら一気に世論が傾くだろうか、どうだろうか? そりゃ物語化された現実が現実を物語化するのはお決まりのパターンだし、現実と虚構の境目が見えないのも今に始まったことではないけど、個人的には、WikiLeaksの示すインターネットを使った告発システムって時代の回答のように感じるから(解答とは言わないけど)、そもそも本当に「物語化」する意味があるのだろうか、とも考える。
 フィクション内でも携帯電話が普及したように、そう遠くない未来には映画内の告発者は当たり前のようにWikiLeaksにアクセスするようになってるかもしれない。すると今度は、WikiLeaksが悪者として描かれてるかもしれない。だったら、WikiLeaksこそ「道具性」として捉えるべきじゃないのかな。
 アサンジの行為も理念も素晴らしいとは思うが、彼自身を虚構化/カリスマ化するのはさすがに危険じゃないか、と思ったりする。それではWikiLeaksの持つ社会的重要性まで覆いかねないし、彼らが主張し得る公共性の理念に対してもあらぬ誤謬を与えかねない。個人をカリスマ化するのは宣伝効果としては有効かもしれないが、「情報を制する者は世界を制する」世の中で、巨大な権力を握る可能性のあるメディアを個人に集約できるはずもない。ハリ・セルダンでもあるまいし。
 きっと権力は「誰か」が両手で抱えるには重すぎるものになってしまったんだろう。政府を監視するメディアの役割はこの重すぎる権力の分散でもある。内部告発を受け止めるメディアの存在は社会にとって不可欠だ。とにかく今はそれを必要としている人や社会があるんだから、その存在を否定はできない。仮にWikiLeaksが重すぎる権力を握ったときには、それを監視する別の機構が働くだろう(それが今だとも全く思わない)。
 仮定に仮定を重ねた埒もない意見だが、だから映画化のタイミングもまた今じゃないんだろうな、という結論である。映画みたいな現実を安易に物語化したって、一時の快楽しか生まない。一時の快楽が悪いなんてぜんぜん思わないけど、時にはそれと引き換えに多くを失うことだってある。

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シンプルイズベスト

 ようやく『月に囚われた男』をDVDで観た。ネタばれにご用心ください。















 いろんな意味でシンプルさが効果的に機能している秀作。無駄をそぎ落としたストイックな設定とストーリーと登場人物と語り口。B級感溢れる映像も滑稽味があっていい。
 監督デビュー作には低予算をアイデアで補った小品ながら秀作佳作ってあると思うけど、そういうの大好き。『レザボア・ドックス』やら『フォロウイング』やら『π』やら『マルコビッチの穴』やら。
 以下、シンプルさに関する覚書――。
 1、先行するSF映画へのオマージュについて、特に『2001年宇宙の旅』は意識せずにはいられない(ケヴィン・スペイシーがそのように演じてるし、なによりあのエフェクトでは仕方ない)。その結果、予想が裏切られることでガーティのキャラクターもいっそう引き立つ。性格付けを二次創作によって省略したってこと。これほど「正しい」オマージュの使い方は珍しいのでは?
 2、ガーティのデフォルメされた似顔絵が感情表現を十分に成立させてしまう。あの顔イラストは二十年前でも受け入れられただろうか? メールの絵文字顔文字にもすっかり慣れたことで、感情を表す記号が観客の意識に届いてしまってる(それとも漫画の段階でその域に達していたのか?)。ひょっとして僕らは「文字」を増やしてるってこと!? すると、英語圏の人たちは初めて表意文字を手に入れたことになるぞ。
 ……って、さすがに大袈裟すぎる(-.-;)

備忘録。

 おや、『わたしを離さないで』が映画化されてる(ん? 情報遅い?)。偶然ネットで見付けた予告編を見て、ちょっとウルウルきてしまった。予告編の作りは、原作イメージ同様に静かで穏やかでドライな感じ。期待が高まるじゃないですか。キャシー・H役はキャリー・マリガン。これは大抜擢かな? それともいま旬な女優さん? オスカーノミネートの『17歳の肖像』は見そびれてしまったけど。
 さてさて、日本公開はいつだ? 楽しみ楽しみ。

 ついでに何の前知識もなく(そりゃ予告は前知識なく見るもんだ)『ブラックスワン』の予告編を覗いたら、ちょっと怖くて笑ってしまった。こっちも楽しみ、アロノフスキー。ミッキー・ロークのレスラーの次が、ナタリー・ポートマンのプリマとは。

夏の読書感想文③:トマス・ピンチョン『メイスン&ディクスン』雑感

 彼等をして、故国を離れ、荒波に乗出し、この世の果てまでも行くぞと決意せしめたものは、――此処にいらっしゃる天文関係者の方々には失礼ながら、――天の出来事それ自体ではなく、寧ろ、もっとずっと卑小な、人間の様々な欲求の集まりだったのであり、金星が暗くなるという現象は飽く迄その主たる対象でしかなく、――太陽視差を定めたいという王立協会の意向にしてもそうした欲求の一つだった訳であるが、――ならば観測士本人達の欲望はどうであったか、若しかすると実はそれほど学問的ではなかったかも知れぬ欲望は?

 ついに邦訳された『メイスン&ディクスン』(柴田元幸訳)。訳者あとがきでは「ちょっとした事件である」と触れてあるけど、個人的には今年一番のニュースです。嬉しい限り。本当に。思えば、池澤夏樹氏個人編集世界文学全集(河出書房新社)のピンチョン篇が『重力の虹』でなくて『ヴァインランド』だと知ったときには(ええ、買いましたさ)、『重力の虹』は絶版のままなんだな、とひそかにへこんでいた情報弱者たる私ですが、今年は『競売ナンバー49の叫び』が筑摩書房から文庫で発売されるわ(ええ、買いましたさ)、新潮社では全小説が改めて訳出されるというわで、電子書籍バイスの黒船来航なんかよりよっぽど衝撃的な出来事でした。
 前置きはさておき。
 邦訳の順序としては『ヴァインランド』の次のピンチョンの小説が『メイスン&ディクスン』だから「全小説」の嚆矢にこれを持ってきたのかな、と特に考えるでもなく当然のように思っていたのだが、ちょっとページをめくってみると誰だって、あれれーおかしいぞー、という怪訝な思いに駆られるだろう。……だって、読み易いから。
 もちろん小説の良し悪しとリーダビリティの高低はあんまり関係ないとは(一読者の私見としては)そう思うのだけど、ピンチョンの小説が読み易いとどうして読み易いのかと考えてしまうところに、もうなにか目に見えない陰謀に嵌まっている気さえしてくる。そこで、記事冒頭に引用したうんぬんかんぬん。――ハッ!?
 ――王立協会の所為か、と。


 まずは、あらすじをざっと。大英帝国王立天文台に務める天文学者チャールズ・メイスンとその助手となった測量技師ジェレマイア・ディクスンは、王立協会から金星日面通過の観測を命じられる。アフリカはケープタウンへ赴き、あるいは大西洋上の孤島セントヘレナ島へ赴き、さて大仕事を終えて本国に帰国すると、折しも天文台長が他界したこともあって立場が悪くなっている。やがて、二度目の金星日面通過までの間にアメリカ大陸に渡り、英仏の植民地戦争の後始末としてペンシルヴェニアとメリーランドの間の境界線を引いてこい、と飛ばされる。そんなメイスンとディクスンを新大陸で待ち受けていたのは――。


 とりあえず、ひとこと。胡散臭い。ふたこと。相変わらず、胡散臭い。
 18世紀アメリカが舞台であることを思えば、胡散臭い人物としてリストに上るのはベンジャミン・フランクリン、19世紀末ならニコラ・テスラ、江戸時代なら平賀源内。電気で有名な人物はなぜか必ず変人扱いされるという先入観があるものだから、サングラス掛けた粋な紳士としてフランクリンが現れると、来たなようやく、とニヤニヤするわけだが……。
 ……見立てが甘かった。この小説のフランクリンは意外に常識人で、周囲の噂話などからは政治家然としたところも散見できて、変人風ではあるんだけど、他の登場人物の胡散臭さには到底敵わない。というより暗躍している印象で、それほど直接的に絡んでこないので、次第にその存在を忘れてしまう。英国議会で何かやっているらしいが、正直どうでもよくなってくる。
 史実の則ったお話なのに胡散臭い組織に事欠かないというのがまず驚きで、王立協会、東印度会社、フリーメースン、イエズス会、アングリカンにクェーカーにインディアンに果ては中国の風水師まで巻き込んでのお祭り騒ぎ。ピンチョンの小説は祝祭的な雰囲気が強くて誰かがどこかで酔っぱらって歌っているシーンはよくあるけど、今回は、殊に新大陸に渡ってからは、測帯(ヴィスト)を引くのに木を伐り倒さなくてはならないし、食事は必要だし、道案内のガイドも要るしで、とにかく大人数の移動となって「村ごと引き連れている」ようなもの、しかも星の位置から緯度を計算するから働くのは夜であり、連中はテントの中でも酒場でも始終騒いでいるのである。メイスンとディクスンの側から見ると望まぬ旅である以上「中断された祝祭」かもしれないけど、アメリカで拾った胡散臭い人たちにすれば(そして読者にしてみても)「終わることのない祝祭」といった感がある。
 祝祭的というアナーキーな状況は、王立協会的な秩序と真っ向から対立する。
 この小説の読み易さと王立協会の関係を考えるとき、「線を引く。分類する。観測する。測量する。記述する」こうして与えられる記号的な配置(記号と物の二元論)をそもそも王立協会は望んでいるのであって、ペンシルヴェニアとメリーランドの間に引かれる「真っすぐな」境界線もそのためのものだ(金星の日面通過の観測も同様)。測帯と太陽視差観測との相違は、後者が天体を客体的に観測し計算結果を記述し報告するのに比べて、前者では自分の足元にある大地に、実際に「線」を引かれなければならないということ。ところが、そこは未開の新大陸であって、すでにブリテン島の一部を囲い込み(エンクロージャー)している英国とは事情が異なり、分譲地として配列し直される以前にすでに人が住んでいる。住んでいるのはインディアンだったり、囲い込まれた英国から流されたり逃げだしたりしたスコットランド人やアイルランド人やウェールズ人たち。メイフラワー号で新教徒の楽園をと目指した志など当の昔、独立戦争直前、18世紀中葉のアメリカは有象無象の胡散臭い連中の巣窟となっている。しかも、誰ひとりとして、自分たちの住んでいる大陸を植民地だなんて思っていない。いわば、そこにいるのはすでにして「アメリカ人」なのだ。だから、彼らにしてみれば、勝手に境界線を引かれる筋合いはない。土地を巡る訴訟は日常茶飯事。天文学的問題は政治問題と直結する。それに"Go west"の欺瞞、西に向かって線を引くとはいえ、王立協会の思い描く抽象的な「西」は大地の上に未だ存在せず、西とは異界以上のものではない。
 こんな新大陸に(しかも西へ行くほど荒野となる)境界線を引くなんて荒唐無稽な計画を、天文学者と土地測量士の余所者ふたりで統御できるはずもなく、今回ばかりは主人公たちの責任ではなしに、ストーリーがあっちへふらふらこっちへふらふら落ち着かなくなってゆく。主人公ふたりの名誉のために言えば、彼らは頑張って真っすぐな線を引こうとしてるし、現に引いている。パラノイア性に関して言えば、確かにメイスンには少し擡げてきてるけど、それでもピンチョン描くところの他の主人公たちに比べるとかなりまとも。なんと言っても、彼らはれっきとした科学者であり、技術者である。観測、測定、記述なんてお手の物。王立協会的というか啓蒙主義的というか、そうした合理主義的思考にどっぷり浸かっている彼らをして、新大陸そのものに内在するアナーキー性が度しがたいというだけで。この「ヨーヨー」はおかしな主人公たちの所為じゃなく、新大陸に境界線を引くという一大プロジェクトの齎すそもそもの「笑える悪夢」が結実した「現実」。
 こう考えると、この小説を読み易いと感じるからには、王立協会的な思考が現代の我々の基礎に植えつけられていて、フィクションを前にしてさえ、逃れ難く結びついているのだろう。この物語はメイスンとディクスンに寄り添いながら進んでゆくのだし(前半、太陽視差を計測するメイスンが「狂人」マスクラインと二人きりでセントヘレナ島に残された可哀想さ加減は、あまりに可哀想ですごく笑える)、彼らは「物語の背景」から様々な妨害を受けつつも、それでも「真っすぐな」線を引こうと尽力しているのだから。

 さて、組織ばかりではない。次々現れる登場人物のすべてが胡散臭い。フランクリンを置き去りにするくらい胡散臭い人物には困らない。そう言えば、「置き去り」もまま見られる。例えば、アメリカに渡ってから何度も話に出てくる〈基督の寡婦〉という謎の一派がある。イエズス会の一組織というが、異端だろ? で、ここから風水師とイエズス会の異端者の間でパラノイア戦争が巻き起こるはずじゃないのか、ムダに鰐とか出てきて、なんて思っていると、突然、梯子を外される。まったく、メイスンとディクスンが命がけで物語を本筋に(測帯上に)戻したんじゃないか、と思えるくらい。なるほど、力及ばず漏れてきたのが張大尉か。そして、ふたりが弱ったところでついにスティグが本領を発揮し始める――!
 新潮社ホームページ内「ピンチョン全小説」サイトに、佐藤良明氏、柴田元幸氏、池澤夏樹氏の座談会がアップされている(「新潮」五月号だったか、ピンチョン特集号に掲載されたもの)。その中で池澤氏がピンチョンの小説は「キャッシュメモリ」の蓄積が凄いというような意味のことを仰っているけど、『メイスン&ディクスン』ではキャッシュの削除もまた激しい。永久時計のエピソードはそれっきりなのに、ヴォーカンソンの鴨は引っ張るのか? という展開は驚きだったけど。
 でも、この時計の話、実は本筋に関わってるんじゃないのかな……?
 なにしろ、「十一日問題」が浮上するのは、常に正確に時を刻む永久時計が盗まれた後だからだ。もっと言えば、本格的に測帯の仕事を始める前に時計を失ってしまう。ここは分岐点だ。物語が錯綜し始めるのもこの辺りからで、原理がいっさい不明の永久運動しているとしか思えないこの「時計」が、実はかろうじて新大陸における王立協会的な物語を支えていたのかもしれない。尤も、その時計自体は王立協会を通じて渡されたものではないけど。
 面白いことには、時計を所持するディクスンが、原理不明なこの時計を手元に置いておくのを非常に恐れていること。知悉している科学の常識が通じない「時計」は、ディクスンにとって悪夢以外の何者でもない。憂鬱症のメイスンと違って、いたって陽気で呑気で若干空気の読めないディクスンを、そこまで恐れさせる「時計」とはいったいなんなのだろう? 徐々にディクスンが陥ってゆく過度な分類への拒否反応。時の流れを刻むことと大地に境界線を引くことは、同じ「測量」に基づいている。

 ディクスンが答える。「五度。一日の回転の中の、時間にして二十分ぶん。それだけあれば何だって出来ます、――食うべきでない魚を食う、恋に落ちる、歴史を変える命令書に署名する、昼寝する……? 地球上にこれだけ人がいて、二十分間の値打ちを知らぬ者は居りません、一分一分が真珠です、その真珠が、一つ又一つ、忘却の淵へと滑り落ちてゆく」
「或いは、あと四分の一度足せば、二十一分」中国人が目を悪戯っぽく光らせる、「云ってみれば、オハイオを越える。耶蘇会が中国の輪を三六〇度に約めた時に取除いたのが正に五分と四分の一度でした。貴方がたの暦から除かれた十一日と、若干似てませんか? 同じ疑問が浮びます、――切取られた方位は何処へ行ったのか? どうやって取戻せるのか? ひょっとして貴方がたの五度の測帯は、一種の……貯蔵庫だったとか?」

 やがて測帯が引かれると、ヴォーカンソン作製の機械鴨は機能を増して、ラインに憑かれたようにその上を離れない。人工的な何か。分類し、測量し、線を引くこと。では、歴史とは何か? 史実を基に創られた小説のなかで、歴史を巡る論争では一人の若い作中人物によって、こう語られる。

 真実を主張する者は、真実に見捨てられるのです。歴史は常に、卑しい利害によって利用され、歪曲されます。権力者達の手の届く所に置かれるには、歴史は余りに無垢です、――彼等が歴史に触れた途端、その信憑性は一瞬にして、恰も最初からなかったかのように消え去ります。歴史は寧ろ、寓話作者や贋作者や民謡作者やあらゆる類の変人奇人、変装の名人によって、愛情と敬意を以て遇されるべきであり、そうした者達によって、政府の欲求から、そして好奇心から遠ざかっておれるよう敏捷な衣装、化粧、物腰、言葉を与えられるべきなのです。イソップが寓話を語るしかなかったように、

 で、問題の「十一日問題」。そして、「貴方がたの五度の測帯」は一種の貯蔵庫なのか……?
 事の発端は、イギリスがグレゴリオ暦を採用したとき(同じ騒ぎは日本でも明治時代に起こる)。「グレゴリオ暦(現行の太陽暦)は一五八二年にグレゴリウス十三世が導入したが、当初はカトリック教の国でのみ採用され、英国が採用したのは一七五二年。この改正に対する民衆の反感はきわめて強かった(訳注)」。渡米以前のメイスンに対して、旧暦九月二日の次の日が新暦九月十四日になることで十一日が盗まれた、とメイスンの父を始めとする故郷の連中が恨み言を述べるくだりがある。もちろん天文学者メイスンはそんな愚痴は何の意味もないと知っている。単に暦が替わるだけだと割り切るだけの知識がある。が、この言い争いも、渡米以前のこと。
 暦も時計と同じく時の分類であり、土地の分割である。これもひとつの「囲い込み」。
 境界線を引き始めたメイスンは、囲い込まれなかった「時間」である「十一日間」に囚われ始める。だけでなく、この「時間」はそのうち測量隊全体を巻き込んでゆく。あたかも永久時計をなくしたディクスンに宛てた、ディクスンの先生エマスンの送った手紙の一文を立証するかのように。曰く、「時間とは目に見えぬ空間である」。
 メイスンは失われた十一日間に取り残された秘密の体験をディクスンに語る。イギリスにとっては存在しない日である、一七五二年九月三日に転がり込んだ体験である。ここでメイスンは、測帯を引く作業が「十一日周期」に進んでいることを想起している。
 境界線の両側には時間も大地もはっきりと見えるが、境界線を引いている当人には時間や空間はどう見えるのだろうか。「失われた十一日」は彼岸と此岸の境界さえも曖昧にする。それは死に似ているが死とは非なるもの。境界を引くという作業は「〈普通の時間〉と我々が考えている直線の道と一点で接しながらも、その道から排除されたまま、無限に自らを反復しているのだ」と、メイスンは考える。
 このテーマは形を変えて反復される。
 ダービーとコープという下請け人がいる。測量隊のメンバー「鎖使い」で、踏査してきた距離を正確に保つのが仕事。彼らは常に二人一組で行動し、酒場ではメイスンとディクスンの名を騙ったりしている。二組のコンビはこの挿話の間、鏡像関係にある。

 二人はチェーン数を正確に保つために小さな木杭を十本交換する……(中略)……杭の紛失には二人ともひどく神経質になっており、万全を期すべく、十チェーンではなく十一チェーンの後に杭を交換するようになった。即ちコープ氏の方が一本は手元に留めたまま、九本のみをダービー氏に渡すのである。ところが、大抵どちらかが取決めを忘れてしまい、いつの間にかかつての十チェーン法に戻ってしまう……。
「じゃあもう、何マイルもずれておるかも知れんじゃないか、」ディクスンの眼がまん丸になっている。
「ところがですね、数の神様の為す神秘の御陰で、」ダービーが云う、「私等の誤りは、今まで常に、完璧に打消し合ってきたのです。」
「そうでもなけりゃ、サスケハンナからポトーマックまで測ったら、航程線からまるっきりずれちまいますよね、――」
「何リーグも、多過ぎるか少な過ぎるか、幽霊リーグが出来ちゃうよな、空間にぽっかり穴が開いたみたいにさ。」


 こうして引かれた線はペンシルヴェニアとメリーランドの土地分割線だが、メイスンとディクスンふたりの預かり知らぬ未来においては「メイスン=ディクスン・ライン」として、南北アメリカの国境線として機能する。奴隷制の在り方の境界区分としても作用し、作中で幾度も現れる奴隷制の現実にメイスンもディクスンも嫌悪感を覚えるが、新大陸の「線」は彼らの感情など関係なしに奴隷制に関わる重要な要素として作用するのである。
 奴隷制もやはり線引きであって、列強植民地における主人と奴隷を区別する線はあくまでも恣意的に合理化された秩序でしかない。その線分をふたりは到るところで目撃する。自分たちが新大陸に引いている「線」が、後に奴隷制の境界として機能するなどとはもちろん知る由はないのだが、彼らが奴隷制の上に顕在化した合理主義の線を越えなければならないと考える根底には、ラインが「現実」に及ぼす権力に対する嫌悪感がある。そして、そのラインが当たり前になっていることに対しても。幾度も繰り返される奴隷制への言及にも、ふたりのそうした権力に加担してしまっていることへの自覚と、歯痒さが描かれる。
 あくまでも恣意的に世界に引かれ、そして引かれてゆく境界線に懐疑を抱き始めるメイスンとディクスンは、彼ら自身は王立協会的な地盤の上にあり続けざるを得ない「現実」と、「線」の持つ意味との間でジレンマに陥る。18世紀大英帝国に生まれ育ち、科学者技術者としての教育を受けてきた彼らは、合理主義的な「線引き」の思考から逃れることはできない。訪れた未知の大陸(terra incognita)に翻弄されることで、このジレンマはいっそう強くなってゆく。2章終盤で描かれるあり得たかもしれない物語は、それでもあり得ないだろうという感慨を読み手に与える。
 やがて新大陸を後にしたメイスンはロンドンにも故郷にも留まることなく天体を観測し続け、測量仕事を各地で続けるディクスンは地中世界へと潜ってゆく。まるで囲い込まれた大地の絶対性を否認するかのように。
 あれほど嫌だった新大陸での仕事の後に英国に戻ってみると、ふたたびアメリカへ渡ることを夢見始める。荒野としてのアメリカ、線を引かれるべきアメリカ、その実、線が引かれる前のアメリカ。しかし、一度線が引かれてしまえば、「囲い込み」は否応なく進行する。彼らは、彼らの知る「アメリカ」、失われた十一日間や幽霊リーグの中にあるアメリカを夢見続けるのだろう。かつて存在したかもしれない、しかし二度と戻ってはこない新大陸。それらを描き出すにも、結局は境界線が必要となってくる。3章を覆うトーンが新大陸でのお祭り騒ぎに比べて落ち着いた色彩なのが印象的だ。
 物語の終わりに至って、メイスンがパラノイアを患っているのも無辺なるかな。なまじ境界線が存在するから、あちらとこちらを意味あるものとして繋げてしまう。メイスンとディクスンの冒険がこういうラストシーンに収斂してゆくのを目の当たりにすると、或いは、この小説はピンチョンにとって(作者の血縁におけるルーツという意味を度外視したとしても)始まりの地点に位置するのかもしれないと思えてくる。線は引かれた。現代アメリカ、または現在の世界から、この線自体を消すことはできない。ラインズゴーオン。それでも――
 ――「一時だ、とピアスは云って、井戸に落ちる」までは、
 ライフゴーズオン。