『(七瀬ふたたび)((n+1)たび)  (n=1,2,3……)』

 リメイク映画というジャンルは、映画が産業化した早い時期からあったものだろうし、そもそも映画がストーリーを語り始める契機には、演劇の与えた影響が大きかっただろう。独自の表現方法を獲得するまで、映画は演劇に依存していたと言ってもいい。


 演劇に関しては、『日本書紀』に、海幸彦が騙した弟・山幸彦に「自らは俳優(わざおぎ)して暮らす」と許しを請う場面がある。「わざおぎ」は現在でいう俳優と同義ではないが、「神を招ぐ態」の意とされ、面白おかしい真似をして神を楽しませる舞人のことであり、これが演劇の原型である。典型的な例は天の岩屋戸の一幕で、文字通りに隠れてしまった天照を招くために神々が「わざおぎ」(態[わざ]によって招[お]ぐ)する。
 ミメーシスの概念がギリシャ悲劇と違って否定的な意味をもっていることを除けば、日本の文明史においても、初期段階から(現在の形と同じではないにしろ)演劇は存在した。
 ミメーシス概念の相違は、言葉の在り方の違いによるものだろう。古代ギリシャでは、神々(アポロンやムーサ)から与えられる霊感が詩や悲劇の源とされた。詩人は神々に代わって詩を詠じる代理人であり、こうした文化基盤があったからこそ、世界宗教における預言者という考え方も派生するのだろう。言葉は世界の始まりを意味をし、天地創造に先だってある。真似び即制作という託宣型の演劇文化は、聖書の製作にも影響を与えていると思われる。
 対して、古代日本における歌や舞は神々への呼びかけであり、「招ぐ態」である。そのために、言葉はまず作り出すものとしてあった。ここで新しい言葉を作らなければなかったのは、彼らの語彙が極端に少なかったからである。辺境の島国の都人たちは、大陸の王朝、帝国の文化を学び、真似て、独自の文化を作ってゆく。そして、言葉の蓄積が十分だと判断されて以降、ようやく状況が変化する。過去の歌の真似びは文化の基盤として成立し、真似びは制作として捉えられてゆく。たとえば古今・新古今は、後の時代それぞれの知にとっての完成形と看做され、それを基に作り変えられてゆく。この辺りは、ヨーロッパにおけるルネサンスとマニエリズムの関係が想起される。
 ミメーシスが文化的に承認されてゆく経緯には、十分な知の蓄積(及びネットワーク化)が必要なのである。


 その一方で、キリスト教文化圏やムスリム文化圏では、複製文化が著しく衰退した。偶像崇拝が禁止されたからだ。偶像とは、神の似姿である。絶対唯一の神の姿は本来人間に捉えられるものではなく、仮象として描き出した偶像は神の姿を不当に歪め、矮小化していると考えられた。神を真似た偶像は、神ではない。こうしてミメーシスに代わって、「真理」への欲求が台頭する。
 こうした偶像に対する忌避感とは無縁な日本では、ミメーシス(真似び)概念は肯定的に捉えられてくる。
 たとえば蜀山人唐詩選を真似て通詩選を作った。それを蔑む者は通ではないというネタ的な「精神の優位性」まで現れてくるが、これをルサンチマンとは言えない。論語の「徳不孤 必有隣」を茶化して「馬鹿不孤、必有隣」(だったかな?)と詠う蜀山人の態度に切迫したものは感じない。パロディの根底にあるのは、起源の複製であり、反復である。作り変えることで、起源の権威を失墜させる。偶像崇拝禁止の動機もここにある。神を茶化すことは許されないのだ。その意味で、複製文化に関しては、ヨーロッパより日本のほうが優れていた。
 とはいえ、通詩選は唐詩選を知らなければ、いったい何が面白いのかわからない。本人を知らなければモノマネに面白みがない、というのと同じだ。この時点ではまだオリジナルあっての複製だった。
 リメイク映画という文化に行き着くまでには、もっと複製概念を発展させなければならない。

 リメイクには二種類ある。オリジナルが必要なリメイクと、オリジナルを必要としないリメイクである。

 後者のリメイクが成立するには、「忘却」が条件づけられなければならない。もちろん、オリジナルは存在する。けれど、起源のない複製として、常に起源を忘れ去ることが要望されている。起源を忘れることで、永遠に複製され続ける。

 ここで考えるのは永劫回帰と忘却の関係である。『ツァラトゥストラ』冒頭の「三態の変化」は、ラクダ、ライオン、幼児の順に描かれる。ニーチェによれば幼児が最も超人に近いアレゴリーであり、その象徴するところは「忘却」である。ラクダもライオンも記憶に縛られるがゆえに、ルサンチマンからの完全な脱却ができない。起源が隠れたことで当然と思われている道徳から脱却する手段は、忘却しかない(と、ニーチェは主張する)。
 演劇における反復性には、忘却が存在しない。忘却がないからこそ、その日その時の舞台は一回性としての価値を持つ。そのためには「繰り返し演じられる」という前提を必要とする。ここから演劇の身体性における一回性という条件が発生するのだ。ストーリーの大筋に変化がないから、この反復は決して複製化されない。ここでは、オリジナルという幻想が担保されている。
 映画には一回性の幻想がない。演劇が持っているような生身の一回性という身体が存在しないからだ。同じタイトルの映画で、10時の回と1時の回で違うものが上映されたら問題になるだろう。DVD、BDと技術促進し続ける記憶メディアを考慮すれば、それはいっそう顕著な傾向として見られる。

 その上、リメイク作品にオリジナルが存在するというのは幻想にすぎない、とリメイク映画が暴きだす。

 リメイクに起源を忘却するという使命があるのは、不特定多数の観客の中には、オリジナルを知っている人もいれば、知らない人もいるからだ。だから、作り手は「知っていようがいまいが関係ない」と語ることを意図せざるを得ない。
 たとえば、タランティーノの『イングロリアス・バスターズ』には、元ネタがあるそうだ。しかし、本作において、オリジナルを知っていることにどれだけの意味があるだろうか。それは「知っていれば楽しめる」でも「知らなければ楽しめる」でもない、「知っていようが知るまいが全く関係ない」映画として、意図的に創られている。
 タランティーノ映画には「誰が知ってんだよ」という種類のパロディがたくさんあるというが、そうした瑣末なネタを詰め込む行為自体が「元ネタなんて知らなくても構わねえよ」というスタンスの表明になっている。
 実際、元ネタが全部わかったら映画を何倍も楽しめるのか、と言えば必ずしもそうじゃない。作り手は、それが映画にとって本質的に「どうでもいいこと」と分かっているから詰め込むのだろう。意味を発生させたいとしたら、誰もが知っているネタでなければならないはずだからだ。だとしたらこの場合、観客は起源を知らず、作り手は起源をあえて忘却している、と言えないだろうか。

 あえて起源を忘却して幼児のように映画を撮る、という制作行為によって、リメイク映画はミメーシスを前提にしているにも関わらず、ミメーシスから逸脱してしまう。
 演劇の反復性と映画のリメイク性の決定的に異なる点は、この忘却が許されるかどうかではないだろうか。忘却によって逸脱は肯定され、語り直しが「語り」になる。それはいま語られたばかりの新規の物語になる。

 もう一本補助線を――。
 モノマネ芸というものがある。モノマネ芸人の面白さは、本人にどれだけ似ているかという判断から、芸人自身の面白さ(芸人は単に真似をするだけでなく、それをギャグやコントに昇華する)という地点へと移行している。モノマネする芸人はオリジナルをデフォルメして演じることで、オリジナル以上のオリジナルを描き出す。すると、起源であるはずの俳優・タレントのキャラクター性は、モノマネ芸人の描き出すキャラクター性に上書きされて、本人の持っていたイメージは相対的に薄くなる。ちょっと前までは「芸能人はモノマネされて一人前」などというコメントをよくテレビで見かけたが、最近では複製されることで容易に起源は忘却されてしまうのだ。一度モノマネ芸が世間に受け入れられてしまえば、以後はそれが似ているのか似ていないのかは問題ではなくなる。モノマネが本物になるのではない。本物はモノマネが受け入れられる過程で「忘却」されるのだ。


 映画における反復性は、技術的に言えば、映画という保存装置があらかじめ内包している。同一の内容を複数回鑑賞するのなら、一本のフィルムで事足りる。身体性を持たない複製技術は、新しい複製文化を切り開いている。

 技術的に複製性・反復性を抱いている映画におけるリメイク(別種の複製と反復)は同一次元の平行移動に飽き足らず、位相の転移にまで発展しなければならない。リメイクにはオリジナルを制作する以上の(或いは全く別物の)才能が必要とされている。
 むしろ映画はベンヤミン固執した「解釈」「注釈」によって何度でも複製(リメイク)可能なのである。

 そうなると、そこでは完成という理念が忘れられる。いまや映画作品とは本質的に未完成であり、起源たり得ないメディアなのかもしれない。
 もちろん、映画に限った話ではない。

七瀬ふたたび (新潮文庫)

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