『ファニーゲーム』の二人組はどこからきたのか?:ミヒャエル・ハネケ監督『ファニーゲーム』雑考

 ときどき無性に『ファニーゲーム』(ミヒャエル・ハネケ)のオープニングが観たくなる。郊外の道をボートを牽引しながら走るSUVを、緩やかなピッチのオペラ音楽を背景に捉え続ける。車内へカメラが移ると、別荘地へ向かう三人家族の姿。父親と母親が曲当てゲームをしている。後部座席の子供は少し身を乗り出し気味に両親を見比べる。と、唐突に赤い字のタイトルバックがカットイン、BGMがNaked Cityの"Bonehead"に切り替わる。山塚アイの叫びが何気ない幸福な一幕を緊張させる。家族が湖畔の別荘地に到着して隣人の家の前に停車すると、ピタッと音楽はやむ。
 本編導入部が観たかったのだからここまでで満足してDVDを取り出せばよいものを、冒頭の緊張感に引きずられて最後まで観てしまった。ゲームとは呼べないゲームに強制的に参加させられる家族と同様、観る側も映画というゲームに巻き込まれる。「観る」という行為の受動性を突きつけられる。観客が何を期待しても、起こったことしか起こらない。結末は変わらない。それでも、作中人物はこちらへ目配せをしたり語りかけたりする。ラストシーンではじっと観客を不敵に見つめる。
 救いのない映画というだけなら、他に幾らでもあるはずだ。暴力描写も、直接的な表現は少ない。そもそも映画という世界では、多かれ少なかれ、当たり前のように理不尽な暴力が振るわれる。悪役が振るうのであれ、ヒーローが振るうのであれ。だからこそ、『ファニーゲーム』は理不尽な暴力を覆すヒーローの虚構性を指摘する、といった具合にしばしば語られる。助けは来ないし、主人公たちは自らを守るために立ち上がることもできない。
 けれども、この映画が賛否両論に分かれる一番の原因は、救いのない残酷さや一方的に振るわれる暴力への抵抗不可能な状況への不快感よりも、(その救いのなさを裏付けることにもなる)「二人組」の持つ全能性をどう捉えるかに拠るではないか。
 たとえ暴力に抗おうと立ち上がったとしても……。
 ここで、それまでリアリズムだと思って観てきた映画が、完全に「反転」する。これは現実に起こり得る恐怖なんだ、という捉え方を無化してしまう。あまつさえ、登場人物自らが現実と虚構の曖昧さについて語りだす。初めて観たときは、ポカンとしてしまった。そんなのアリなの?と、たぶんみんなが思ったはず。
 このシーンがある所為で、暴力を振るう二人組の異質さに説明できないもどかしさが出てきてしまう。もちろん、こうも言えるだろう、「説明なんていらない。暴力はいつだって匿名で、没個性的で、前触れもなく起こり、理不尽に振るわれ、逃れることができない。現実に降りかかる暴力に、個人はフィクションのように抗うことなどできないのだ」これが、正しい感想なのだと思う。
 だから、この記事の内容は無用な付け足しかもしれない。牽強付会な妄想は虚構性を糾弾する映画を再フィクション化するだけだと言われても仕方がない。
 でも、これはミヒャエル・ハネケの映画なのだ。たとえ不快感であれ、観客を映画というゲームに巻き込んで離さない仕掛けは、受動的快楽に意識を委ねる映画とどう違うのだろうか? ヒーローがスカッと悪役を倒してハッピーエンドというハリウッド映画は、観客の感情を気持ちよい方向へ操作する。だったら、それが気持ち悪い方向への操作であっても、映画に強制的に参加させるという点では同根ではないだろうか? 思考をひたすら停止させられ、解釈の余地をなくし、主体的な参加意志を剥奪する。もちろん、それは優れた映画の条件でもあるだろう。そういう映画は僕も好きだ。ただ、それってあまりハネケらしくないなぁ、と思うのである。
 だから、どうしてもあの「巻き戻し」に戻ってしまうのだ。あのシーンがあるから、『ファニーゲーム』はハネケの映画になっている。
 それがあるために、やはり問いたくなってくる。
 この二人は何者なのか? 目的はなんなのか? どこからやってきたのか?




ファニーゲーム』を構成しているのは、没個性である。「二人組」の名前はパウルとペーターで、体型はノッポとデブだ。饒舌で自信たっぷりな青年と、神経質で自信なげな青年。対照的なストックキャラクターを並べただけ。何者かという問いをあらかじめ思考の外に置くように指示されているかのようだ。二人は自分たちをトムとジェリーだと冗談に名乗ったりする。とにかく、彼らが語ることは嘘ばかりである。だからその背景はいっこうに明らかにならない。
 神経質なデブのほうのペーターが卵を貰いにきて、家族の母親アナと揉め始める。これが悲劇の発端だ。ペーターは如何にも鈍重かつ無神経に振舞い、アナを怒らせる。やがて相棒パウルと一緒に戻ってくると、親切であげた卵を二度も落として割ったくせに、また卵をと要求してくる。騒ぎのなか、父親ゲオルクが息子と一緒に家に戻るが、彼らはゲオルクとも揉めた末にゴルフクラブで彼の足を折り、そのまま三人家族を別荘に監禁して居座り始める。饒舌なパウルは彼らにゲームを提案する。「お前たちが十二時間後に死んでいるかどうか賭けをしよう。生きているほうに賭けろよ。俺たちは死んでいるほうに賭けるから」始めから家族三人を皆殺しにするつもりだ。なんのために? 理由は語られない。パウルは観客に向かって「どっちが勝つと思う?」と参加を促す。
 ここで卵を渡していたら何も起きなかったのかというと、そんなことはない。中盤でペーターが卵の所為にしているが、これは嘘。気弱な彼が自分をそう納得させようとしているようにも取れるが、その実あまり気にしていないようにも見える。とにかく最初から殺すつもりで入り込んだのだから、卵の件は殺意とはなにも関係ない。別荘地の金持ちを襲って金を奪う、というのも殺人とは結びつかないし、金を盗っているかどうかさえ怪しい。言うまでもなく彼らは初対面で、恨みもなにもない。
 だから、理由はないのだ。


 この映画は、ハリウッドリメイクされている。『ファニーゲームU.S.A.』は、台詞を英語に変え、同じ演出、同じ音楽、同じ編集、構図さえ全く同じ、ハネケ自身によるセルフリメイクだ。スザンヌ・ロタールが演じたアナはナオミ・ワッツに、ウルリッヒ・ミューエが演じたゲオルクはティム・ロスが演じている。個人的には、このハリウッド版はコントのような印象を受ける。ナオミ・ワッツが美人過ぎるからか、単に「二度目」だからか。まぁそれはともかく、このリメイク版、細かいところにちょっとした改変がある。
 息子を殺された後のリビングでの時間(あの静かな時間は重要だと思うのに)とか、携帯電話に関してとか、また電話を掛ける相手とか。面白いと思ったのは、オリジナルでは「二人組」が家族に対して「親しさ」を要求しているのに、ハリウッド版では「礼儀正しさ」を要求する。ドイツ語と英語の文法の違いか、ヨーロッパとアメリカの風土の違いか。また、名前の改変もところどころにある。主要人物はオリジナルの英語読みだけど、隣人の名前が変えてあったりする。息子の友達のシシーがジェニーになっている、というふうに。アメリカ風に変えたのだろうか。で、家族が飼っている犬の名前もロルフィからラッキーに変わっている。この犬は、開始早々「二人組」に殺される。
 ありふれた名前をあえて選んでいるだけだと思うのだけど……
 ……「犬」の名前がラッキーというのはちょっと引っ掛かるところ。
 この引っ掛かりを手繰り寄せて、強引に先へ進めてみる。



ゴドーを待ちながら』に出てくる、犬のような扱いを受けている登場人物の名前がラッキーである。



 ベケットの戯曲『ゴドーを待ちながら』にも、メタシアター的な仕掛けがあちこちにある。
 その話の筋は簡単だ。ヴラジーミル(ディディ)とエストラゴン(ゴゴ)の二人は、ゴドーを待っている。このゴドーが何者なのかは分からない。なぜ待っているのかも分からない。観客に分からないだけでなく、ディディとゴゴにも分からない。彼らは自分たちがどれだけの期間、ゴドーを待っているのかも分からない。今日が何曜日なのかもはっきりしない。本当に待ち合わせの日が今日なのかどうかも分からない。とにかく待ち合わせ場所だけは分かっている。だから、時間が過ぎるまでこの場所を離れることができない。
 二人が待っていると、首に綱を掛けたラッキーという男がやってきて、その綱の端を持つポッツォが現れる。ラッキーはどう見ても人間なのだが、ポッツォに完全に隷従している。大荷物を持ち、ポッツォが椅子だと言えば椅子を、バスケットと言えばバスケットを持ってくる。何も命じられないと、その場に立って荷物を持ち続ける。綱は首に巻かれたままだ。ディディが非人道的だと責めても、ポッツォは聞かない。しかしゴドーを待つ以外にやることのない二人は、ポッツォと話すうちに仲良くなって、ポッツォがラッキーに踊ったり考えたりさせるのを楽しむ。彼らが去り、また二人だけになると、今度は男の子がやってきて「今晩は来られないけど、明日は必ず行くから」というゴドーの伝言を告げる。
 次の日(かどうかも分からない。第二幕)、ディディとゴゴはゴドーを待っている。すると、ポッツォとラッキーがやってくる。なぜか盲目になっているポッツォは、立ち止まったラッキーにぶつかり、しがみつく。ラッキーはポッツォもろとも重みで倒れる。

エストラゴン ゴドーかい?
ヴラジーミル こいつはうまいところへやって来た。やっと援軍だ。
ポッツォ (恐怖にふるえた声で)助けてくれ!
エストラゴン ゴドーかい?
ヴラジーミル すっかりへこたれかけていたところだが、これで、今晩のお楽しみは間違いない。
ポッツォ こっちだ!
エストラゴン 助けを呼んでる。
ヴラジーミル もう、わたしたちだけじゃない、夜を待つのも、ゴドーを待つのも、それから――とにかく、待つのにだ。さっきからずっと、わたしたちは、自分たちだけで全力をつくして戦ってきた。だが、それは終わった。もうこれで、あしたになったも同然だ。

 ディディの言う「全力をつくして戦ってきた」は、ゴゴと二人で時間を潰そうと頑張ってきたことだ。彼はポッツォとラッキーが昨日のように自分たちを楽しませてくれることを期待している。一方、ゴゴは、昨日会ったポッツォとラッキーを覚えていない。
 目の見えないポッツォはラッキーと一緒に倒れたまま立ち上がることができず、恐慌を来している。相手が誰なのかも分からないまま、ディディとゴゴへ助けてくれと懇願する。ポッツォもまた、ディディとゴゴを覚えていない。

ヴラジーミル ポッツォはわたしたちの思いのままってわけか?
エストラゴン ああ。
ヴラジーミル したがって、われわれの骨折りに対して条件を付けるべきだと?
エストラゴン そのとおり。
ヴラジーミル 確かにそいつは名案らしい。しかし、心配なことがひとつある。
エストラゴン なんだい?
ヴラジーミル ラッキーが突然動きだすってことだ。そうしたら、こっちはお手上げだ。

 ラッキーとの関係だが、第一幕(ディディの主観では昨日)で泣いているラッキーの顔をハンカチで拭ってあげようとしたゴゴは、向う脛を蹴り飛ばされている。ラッキーは知らない相手には凶暴(ポッツォ言)だから、二人はラッキーに近づきたくなかった。紆余曲折の末にポッツォを抱え起こすと、案の定、召使いを連れてきてくれと頼まれる。ラッキーは離れたところに倒れている。ディディとポッツォはゴゴに行かせようとするが、彼は怖がって渋る。

ヴラジーミル はっきりいって、どうしたらいいんです?
ポッツォ ああ、まず綱を引く、もちろん、首を締めあげないように注意してだが。普通、それでなにか反応がある。それでだめなら、下っ腹でも、顔でも、適宜にかつじゅうぶんに、蹴とばせばよろしい。
ヴラジーミル (エストラゴンに)わかったろう。なにもこわがることはないさ。むしろ、かたき討ちのいい機会だよ。
エストラゴン でも、もし逆襲されたら。
ポッツォ 逆襲などせんよ。
ヴラジーミル 応援に行ってやるよ。
エストラゴン じゃあ、見ていてくれよ、ずっと。
ヴラジーミル まず、生きてるかどうか見たほうがいい。死んでたら、なぐったってむだだから。
エストラゴン 息はしてる。
ヴラジーミル じゃあ、やれ。

 ディディはラッキーが踊ったり考えたりするのを楽しみにしていたのに、ラッキーはそんなことできないらしい。ポッツォたちは去り、男の子がやってくる。昨日の男の子だとディディは思うが、男の子はディディを知らない。ゴドーは来ない、明日は来る、と同じ伝言。
 落胆した二人は自殺を試みるが、失敗する。

エストラゴン おれは、このままじゃとてもやっていけない。
ヴラジーミル 口ではみんなそう言うさ。
エストラゴン 別れることにしたら? そのほうがいいかもしれない。
ヴラジーミル それより、あした首をつろう。(間)ゴドーがくれば別だが。
エストラゴン もし来たら?
ヴラジーミル わたしたちは救われる。


 さて、『ゴドーを待ちながら』の二人組は、自分たちの町ではない場所でゴドーを待っている。通りすがりでしかないポッツォたちが、本来その街の住人である。彼らは自分たちがどのくらいの間、そこでゴドーを待っているのか覚えていない。永遠に同じ時間が繰り返されるように、同じ場所に閉じ込められているのである。しかも、一幕と二幕では状況が大きく変化している。悪化していると言っていい。ポッツォやラッキーは老いているようにも取れる。前よりも後のほうがコミュニケーションが取りにくくなっているのは明らかだ。どうやら外の世界は、彼らとは違う時間の流れ方をしているらしい。場所を示す木は、一幕では枯れているのに二幕では葉が付いている。
 そして『ファニーゲーム』の二人組もまた、なおもゴドーを待ち続けてはいるが、会うことをほとんど諦めているディディとゴゴのように見えるのである。彼らには別荘地の住人に対して何かを求める理由はない。ゴドーが来れば救われると思っているディディとゴゴと同じだ。ディディとゴゴは積極的にポッツォやラッキーに何かを求めているわけではない。待っている間の自分たちを楽しませてくれればそれでいいのだ。
ゴドーを待ちながら』の変奏として『ファニーゲーム』を考えてみた場合、映画のなかで繰り広げられる暴力は、彼らにとって文字通りの意味での「ゲーム」でしかないことがはっきりする。ディディが言うように「わたしたちは、自分たちだけで全力をつくして戦ってきた。だが、それは終わった。もうこれで、あしたになったも同然だ」。彼らは湖畔の別荘地を離れることができない。なぜなら、ここが待ち合わせの場所だからだ。いつ来るか分からない相手を待ち続けることだけが、彼らの目的なのだ。それはいつしか「あした」になるのを待つのと同じになる。なぜなら、待ち人は現れないからだ。
 それは、ひとりでは耐えられない。
 ディディとゴゴは互いを失うことをなによりも恐れている。別れたほうがいい、と何度も口にしながら、離れることができない。死について考えるときも同様だ。片方を失ったら、片方だけが残される。残ったほうは、ひとりきりでゴドーを待たなければならない。倫理観が欠如したように見えるパウルが、ペーターが殺されたときに動揺してリモコンを探し回る理由も、そこにあるのではないか。相棒が死んだという悲しみよりも、自分がひとりだけ残されることへの恐怖が先行するというほうが、内面を持たない登場人物にはありそうに思える。また、賭けのリスクについてパウルは語るが、これも嘘だ。巻き戻すことができるのなら、彼らにはリスクなんてない。ディディとゴゴが必ず首吊りに失敗するように、パウルとペーターも死ぬことがないのである。
 しかし、これは全能だろうか?
 彼らは映画の中盤で別荘を離れるのだが、ここも不可解なシーンだ。息子だけを殺害して両親を放置し、別荘から立ち去る。その場で皆殺しにできる状況であるにもかかわらず、彼らがそうしようとしないのは、ゲームの目的が時間潰しだからだ。彼らは頻りに時間を気にしている。これは時間が過ぎないことへの苛立ちではないだろうか。たとえ別荘を離れたとしても、結局、戻らざるを得ないことが分かっている。つまり、パウルとペーターは逃げられないのだ。
 ここで、自由を奪われた監禁状態という主題が二重化していることに気が付く。一家が二人組から逃げられないのは、二人組が映画(ゴドー)から逃げられないからだ。本来なら、一家は夏の休暇を過ごしに別荘へやってきた「通りすがり」である。二人組はそんな彼らを自分たちと同じ状況に引きずり込んでゆく。更には観客も巻き込もうと、目配せしたり話しかけたりする。観客もまた「通りすがり」である。「通りすがり」でないのは二人組だけ。だから、彼らはどこかから来たのではない。彼らだけが、初めからそこにいるのだ。
 パウルもペーターもしばしば未来について語るが、それもすべて作り話だ。繰り返される「いま・ここ」以外、彼らにはないのだから。


 リメイク版がコントのように感じられる原因も、ここにあるのかもしれない。この映画は他のどんな映画よりも「結末の変わらない映画」である。描かれる出来事は、複製と反復のメディアである映画にふさわしい。この映画を繰り返し観るときには、同じ行為を繰り返している二人組を観ることになる。それは字義どおりに正しいことだ。彼らは永遠に同じことを繰り返す。ディディとゴゴが反復の記憶を失ってゆくように、パウルとペーターも反復している事実に気付かないだろう。その反復は、観客だけが違う時間の場所から観ることができる。
 だから、その「繰り返し」を違う役者、違う場所で演じられると、強固な反復性から逸脱したことへの違和感を覚えることになる。まったく同じ作りでリメイクせざるを得ないのは、この映画が繰り返される時間と場所に拘束されているからだが、見る側はそれをまったく同じだと認識することはできないだろう。オリジナルが完全に固定されるのは、オリジナル自体が反復し続ける場合で、これほどリメイクに不向きな映画もあまりないように思う。
 とはいえ、『ゴドー』を下敷きにと主張した手前、このリメイクの意味も納得しなければならない。ベケットは他の彼の戯曲同様、『ゴドーを待ちながら』もフランス語で書き、英語版を書いた(アメリカ初演の初日で幕間のあとまで残っていたのは、役者の家族を別にすれば、テネシー・ウィリアムズウィリアム・サローヤンだけだったという)。そして、『ゴドー』を上演する際には元の台詞を変更しないことが条件だとはよく知られている。


 さてさて、『ゴドーを待ちながら』の一般的な解釈では、ゴドー(Godot)は神(God)を指しているとよく言われる。もちろん、はっきりした答えなんてない。ベケットもハネケも解釈の固定を嫌うので、答えを名指すことはない。もしかすると、ゴドーとは観客のことかもしれない。ディディとゴゴはゴドーの顔を知らないのだから。重要なのは、彼らが待っていることだ。
『ゴドー』の冒頭で、ディディが救世主と磔刑について語っている。キリストと一緒に処刑された二人の泥棒の話。二人の泥棒のうち、ひとりだけ救われて、もう一人は地獄行きになった、と語る。

ヴラジーミル どうしたことか、福音を伝えた四人のうち、そういうふうに事実を述べているのはたったひとりなんだ。しかし、四人ともその場に居合わせていた――いや、とにかく近くにはね。それでいて、泥棒の一人が救われたと言っているのは、そのうちたった一人だ。(間)おい、ゴゴ、たまには相槌くらい打つもんだ。
エストラゴン 聞いてるよ。
ヴラジーミル 四人のうち一人。あとの三人のうち二人はなんにも言ってない。もう一人は、泥棒が二人とも悪態をついたって言うんだ。
エストラゴン 誰に?
ヴラジーミル え?
エストラゴン おれにはちっともわからん……(間)誰に悪態をついたんだ?
ヴラジーミル 救世主にさ。
エストラゴン なぜよ?
ヴラジーミル なぜって、泥棒二人を救ってやろうとしなかったからさ。
エストラゴン 地獄からか?
ヴラジーミル いいや、そうじゃない。死からだよ。
エストラゴン で、どうした?
ヴラジーミル で、二人とも地獄行きさ。

 ここではディディが永遠に救われることのない二人の泥棒に、自分たちをなぞらえている。ゴドーを待っている舞台はゴルゴダの丘のようでもあり、地獄のようでもある。
ファニーゲーム』には、パウルがアナに「お祈り」を強要するシーンがある。祈りの言葉を知らないというアナに、パウルは大袈裟にびっくりする。簡単な祈りを心を籠めてやらせると、パウルはそれを逆さに言えと命じる。これはアナへの愚弄にはならない。なぜなら、アナはそもそも祈りの言葉を知らないからだ。ここでパウルが揶揄しているのは、他の誰かだ。他の誰かへの不満の表明でもある。聖書を読んだことがないというゴゴが自分をキリストに見せようとするシーンがあるが、パウルとペーターも神を信じているのかいないのかよく分からない。
 しかし、ラスト付近で、ペーターが唐突にケルヴィンという男の話を持ち出す。物質界と反物質界がどうとかこうとか。ふたつの世界は行き来ができず、入ってしまうとブラックホールみたいになにも出てこれない、云々。これも字義通りに受け取れば、映画と現実を混同することへの批評だが、彼らが待っている相手は永遠に現れないという諦念を表明しているようにも感じられる。待ち人が来なければ救われないのに、ディディとゴゴのような落胆を見せないのは、彼らがすでに目的を見失っているからだろうか。
 それでも、二人組は湖畔の別荘地を離れられないだろう。彼らは誰を待っているのか、なぜ待っているのか、何度も何度も同じ一日を繰り返し過ごすうちに思い出すこともできなくなって、ただただ暴力に身を委ねている。
 必ずしも神学的解釈は必要ない。
 この映画に刻まれているのは、誰にとっても自由のない拘束と緊張の世界なのではないか。