あまりにもノーマルな性:ブリュノ・デュモン監督『欲望の旅』雑感

 デモ活動の際に全裸パフォーマンスを行ってニュースになる例が、時々ある。スペインの某動物愛護団体が有名だが、どのくらいの実効性があるのだろう? 動物愛護のお題目で裸になるのは動物と比べて人間だけを特別視する社会への異議だろうが、大抵のデモでは、裸は人間性における自由の表明とされる。デモとは抑圧に対する異議申し立てだから、男女問わず路頭で裸になるという行為には、正当な理由があるというわけだ。ただ、裸になることがどうして自由の表明になるのかという理屈については、なんとなく分かるような気もするが、根本的なところで分からない。
 日本でもかつてのアングラでは全裸パフォーマンスはよく行われていた、というようなイメージがあるが、1957年から70年までの日本における「反芸術パフォーマンス」を調査した大作『肉体のアナーキズム』(黒ダライ児)によると、留保が付けられる。

 ……急いでつけ加えないといけないが、反芸術パフォーマンスをになった〈ゼロ次元〉、〈クロハタ〉、〈告陰〉、小山哲男らの行為には、裸体や性的な仕草が含まれることはあっても、また〈ゼロ次元〉が、警察の介入を受ける心配のない地下室や人気のない公園などで行なった全裸の儀式が写真や映像に残されているものの、公共空間はもちろん舞台上でも全裸のパフォーマンスはそれほど多くなかった。また、マスコミ受け狙いのためにヌードないしはセミ・ヌードの女性が起用されることはあっても、裸体が安易に連想させるセックスに関わる表現も意外に少ない。むしろ重要なのは、着衣と裸体のギャップがもたらす、近代的なものと前近代なもの、公的なものと私的なもの、まじめさとおふざけの落差を演出することである。(P463)

 著者はこれらのパフォーマンスと「肉体美の礼賛や性の解放、反文明・自然回帰というロマンティックな『芸術』」とを区別し、裸体表現の少ない六〇年代反芸術パフォーマンスを、「近代的な教育や訓練によって矯正され、隠蔽され、忘却された(されつつあった)肉体の表現力に注目することだった」と述べる。
 公共空間における肉体表現がセクシュアルな方向へ向かわなかった一因には、セックスとジェンダーへの批評的視線が日本の社会から抜けていたという点も重要だったのかもしれない。
 前掲書では女性パフォーマーに一章を割いているが、その冒頭はこうである。

 美術家によるパフォーマンスを欧米で起こったアヴァンギャルドの実践という文脈でとらえると、それは第一に、保存・販売可能な「作品」を拒否する反商業主義であり、第二に、白人・男性・上流階級・異性愛というような主流や権力への抵抗であり、さらに根本的には、第三に、「芸術」と「生活」を区分し前者を聖域化することを疑う、社会に対する異議申し立てとしてのデモンストレーションである。このようにパフォーマンスをとらえると、それがフェミニズム的視点から有効で重要な手段になることが理解される。パフォーマンスの起源のひとつとされるジャクソン・ポロックの「アクション」におけるマッチョな男性性に対して、キャロリー・シュニーマン、ハンナ・ウィルケ、アナ・メンディエッタらの女性作家たちは、パフォーマンスによって男性中心主義的価値観に挑戦し、性差を巡る問題を提起していったのである。
 このようなパフォーマンスに潜在する批評性にもかかわらず、日本の前衛美術における身体表現の歴史を見ていくと、そこには大きな欠落があるといわざるをえない――その最たるものはジェンダーを巡る社会的抑圧に対する抵抗としての実践であり、特に女性作家による実践である。
(略)
 ……上述のような欧米で見られた女性作家(日本人ほか非白人女性も含む)による男性中心主義・家父長制への挑戦、社会的に形成された女性特有の肉体性を批判的に再構築する試みは、ほとんど展開しなかったのである。(P402)

「色々やったわけですけども、何かやっていることが相手に伝わらないで、そのまま空に消えてしまうような感じで、何かいつも壁に向かって話しているかんじなわけです」という当時の小野洋子のインタビュー記事も載っている。では、それから半世紀近く経た今現在には一般的に受け入れられるものになったのかといえば、それも疑問だ。

 日本の六〇年代においては美術系の男性パフォーマーにも、現実社会における肉体の機能や象徴性、特にジェンダーと同性愛を含むセクシャリティ、それを巡る抑圧や暴力を問いかけた者はほとんどいなかったし、その傾向は現在もあまり変わっていないと言える。なぜか? これに答えることは今日の私たちに与えられた課題である。(P408)


 映画に登場する裸体は、セクシュアルな欲望喚起装置として立ち現れる。
 しかし、ブリュノ・デュモンの『欲望の旅』(2003年)には、そうした性的な視線を遮るようなジェンダーのベールが掛けられている点で特異だ。主人公の男女はセックスとジェンダーを往来する、という物語構造を取る。だからこの邦題は、実のところ、あまり正しくはない。
 原題の"Twentynine Palms"は、カリフォルニア州にある幹線道路である。この道路脇に建つモーテルと車で入ってゆくジョシュアツリー国立公園が、主な舞台になる。後述するように、29パームスは物語の構成上とても象徴的に働く。
 話の筋は単純だ。
 ノーマルな男女のカップル、デイヴィッドとカティアが自動車で荒野の狭い道を辿る。ジョシュアツリーが時々目につく以外は岩と砂しかない場所。俯瞰ショットでは、だだっ広い荒野に一本の細い道が通っているだけ。そんな人っ気のないところで車を停めてはセックスする。デイヴィッドはロケハンにきたというから映画監督だろうか? 
 カティアは時折上手く説明できない発作のような苛立ちに囚われて、デイヴィッドを責める。デイヴィッドはそれを言語コミュニケーションの不全の所為だと考えている。カティアはフランス語しか話せない。デイヴィッドは普段は英語を話し、フランス語を少し話せる。ふたりは会話にフランス語を使う。
 デイヴィッドは自らのジェンダーに無自覚である。だから、カティアの苛立ちが理解できない。


 たとえば、29パームスに面したハンバーガーショップのテラス席で、デイヴィッドはウェイトレスが「大きい」と言って嗤う。背の高い女性は女性らしくないと彼は思っているのだ。カティアは釈然としなさそうだが、結局は一緒に笑う。
 同じシーンで、デイヴィッドは海兵隊風の男性客を見て、俺の髪も刈り上げたらどうかなと訊く。それに対して、カティアは即座に拒絶する。海兵隊みたいなマッチョは嫌いか、と尋ねるデイヴィッドに、好きだけど好きじゃない、と曖昧に答える。デイヴィッドはカティアの答えに納得がいかず、お前の言っていることはよく分からない、と腹を立てる。言語による合理的なコミュニケーションを求めているのだが、カティアは自分の思っていることをうまく説明できない。だから優しく微笑んで「愛している」というだけだ。彼女は自分がどうしてデイヴィッドに髪を刈り上げて欲しくないのか説明せず、彼女の女性性を押し出すことで(ジェンダーに回帰することで)会話をうやむやにする。

 たとえば、ふたりは荒野(ジョシュアツリー国立公園)の岩山へ素っ裸で上って、白昼の日射しに熱せられた岩棚の上に横たわる。遮るもののない岩山は日射しが強くて、暑い。デイヴィッドはすぐに上体を起こして「戻ろう」と誘う。カティアは岩山を降りることを拒否する。ここでの裸でいることの自由とは、性としての人間でいられるということ、あるいは性を離れた人間でいられるということだ(このシーンではセックスせずにただ寝そべっているだけという点は興味深い)。けれど、岩山を降りてしまうとそうではない。性はジェンダーに切り替わり、カティアにとってのセックスはデイヴィッドの男性性からの抑圧から逃れることができない。しかし、カティアは拒否を貫きはしない。
 言語による意志疎通がうまくいかないからか、ふたりはセックスばかりしている。デイヴィッドは強引に好きな場所でセックスを試み、カティアはそれを受け入れる。そのときには厭なことだとは感じていないようにも見える。けれど、後になってカティアは突然機嫌が悪くなる。デイヴィッドにはカティアが不機嫌になる理由が分からない。彼には自分がカティアを抑圧しているという意識は全くないからだ。しかし、カティアの不機嫌も長くは続かない。彼女も女らしく振る舞うことで不機嫌を脇へ退けてしまうのだ。

 また、カティアは道を渡ることに過度に怯えているようにも見える。ふたりが道を渡ろうとしたとき、地元の男たちが車で通りすぎざま、「ここは俺たちの町だ!」と乱暴な言葉を浴びせてくる。この道は、29パームスである。

 たとえば、ジョシュアツリー国立公園では、彼らは車を降りると荒野の奥へ分け入っては裸になって抱き合う。道の傍らで服を脱がそうとするデイヴィッドをカティアはここじゃ厭だと奥へ誘う。道の近くではジェンダーに縛られたままだからだろう。デイヴィッドの男性性による抑圧をカティアは意識してかせずにか厭がっている。道から離れることで、ジェンダーからセックスへと身体を切り替えることができるかのように。

 この映画では、29パームス(あるいはジョシュアツリー国立公園内の車道も)が、ジェンダーのコードの象徴になっているのだ。


 だから、邦題の『欲望の旅』はあまり正しくない。この映画に「旅」はないからだ。自動車で移動するシーンが多いにも関わらず、彼らは結局同じ道に戻り、同じモーテルへ帰ってくる。そしてモーテルのプールへ行くと、デイヴィッドは必ずセックスしたがる。部屋でのオーラルセックスシーンでの彼はあからさまに乱暴だ。道にいる間(モーテルは29パームス沿いにある)は、始終ジェンダーに縛られて息苦しい。旅路の果てに自由を求めるのがロードムービーであるならば、この映画は明確にアンチ・ロードムービーである。


 前半は、カティアが不機嫌になって諍いが起こりすぐ和解してセックスをして、の繰り返しだ。カティア自身どこまで自覚的なのか分からない、彼女自身のジェンダーへの控えめなプロテストがひたすら繰り返される。こうしてカティアだけに訪れていた「ジェンダーへの異議申し立てとコードへの回帰」という反復が、やがて訪れるラストへの伏線になる。
 結局、デイヴィッドは道路へと回帰する。それ以外の在り方を彼は探し出すことができない。カティアもまた、彼女のジェンダーからの逸脱を避けてきたことを思えば、やはりそれ以外の自分に目をつむってきたのだろう。デイヴィッドとの関係に亀裂が入ることに比べれば、些細な問題に過ぎないと自分に言い聞かせて。

 俯瞰で撮られたラストシーンは、どこが道なのか定かでない広大な平野である。ポツンと映る警察官が、道路の封鎖を命じているのも象徴的だ。彼は電話の相手に向かって「どうしてそんな簡単なことができない!」と怒鳴り散らす。道路封鎖の理由を伝えているのに相手が承諾しないことに苛立っている。
 この警官と電話相手との間にあるコミュニケーション不全は、言語的な問題ではない。ここでは、ジェンダーコードのメタファーである道路を封鎖してしまうことの社会的困難さ、不安定ながらも決壊せずに秩序を保っている世界のベールを剥ぎ取ってしまうことへの忌避感情が、電話の向こうから観客に向けて発せられている。それは「すでに」道から遠く離れた現場を見ている警官にはバカげた理屈でしかない。なぜなら、これは道のために起こった事件だからだ。
 マイノリティではない男女関係は、自分たちがノーマルであるという歪な自覚のために、常に揺らぎを含んでいる(そしてその揺らぎを見ないようにコードにしがみつく)。彼らは自分たちのノーマルさを裏付けているものが、社会的政治的な性に過ぎないことには無自覚だ。
 たとえ裸でいたとしても、「ノーマルな性」から自由になることは難しい。





※追記
 それにしても『フランドル』でもそうだったが、ブリュノ・デュモンが描くセックスはホント淡白だ。どの男も早漏かと思えるほどすぐに終えてしまう描き方は、ちょっと独特な感じがする。尤も、セックスシーンを引き延ばしても仕方ないから、映画の構成としては有効なのかもしれない。
 その代わり(かどうかは定かでないが)、果てるときの男の表情は過度な苦痛に歪むような顔になる。セックスの快楽とジェンダーの苦痛との板挟みでいるように、と見ようとすれば見えなくもない。
 しかし、デュモンの映画はなかなか日本で公開されないな。来年のフランス映画祭には新作が来るのかな?

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