あるいは、ヘルムート・バーガーの liberté と libertà:アルベルト・セラ監督『リベルテ』雑感

 アルベルト・セラの映画『リベルテ』の主演は、ヴィスコンティ映画でおなじみのヘルムート・バーガーだ。ユーロスペースで今回初めて観た。少し感想を。

 物語は、逃亡中のフランス貴族たちへ、ルイ15世暗殺未遂の実行犯ダミアンが四つ裂きの刑に処された様子が語られる場面から始まる。聞くだに無残な処刑の描写だ(後記)。貴族たちはもう革命は起きまいと恐れ、プロシアへ亡命すべく彼の地の公爵を頼ろうとする。この公爵役がヘルムート・バーガーである。そのプロシアからの客も仲間に加え、暗い森での儀式として修道女らを交えた一夜の乱交を行う。その様子が延々と描かれてゆく。

 この貴族たちは、ルイ15世暗殺を企てた黒幕という設定だ。革命思想を持ったリベルタンのようだが、彼らの思想性などいまやどうでもよくなった。なぜならば、彼らはすでにダミアンを操って神授王権たる王を殺そうとしたのだから。その罪により、彼らは宮廷やフランス社会だけでなく、神に見捨てられた。タイトルのリベルテ=「自由」とは、この神の支配からの脱却を意味している。そもそもリベルタンであるから王の暗殺を企てたのだろうが、すでに神に追放された以上、その思想云々に関わらず、どうあっても自由にすがる他ない立場なのである。

 だから、森で繰り広げられる痴態は、彼らの生を、命を、存在を懸けて行われる神への冒瀆でなければならない。

 しばしば出てくる鞭打ちが象徴的で、彼らが終盤で語るように、鞭打ちにしろ磔にしろキリストへの冒瀆として行われる。キリストの受難として語られる物語を、SM式の悦楽として読み換えることによって、キリスト教の権威に唾を吐きかける。神のいない世界で生きるために、彼らは徹底的に神を否定しようとする。

 それが自由なのだ。

 

 アルベルト・セラは、前作『ルイ14世の死』でジャン=ピエール・レオを、本作ではヘルムート・バーガーを起用している。レオならヌーヴェル・ヴァーグ、バーガーならヴィスコンティを連想するのは、少なくとも観客の立場では避けられないだろう。

 そこでヴィスコンティに目を向けてみると、『リベルテ』に通じるテーマを扱った大作映画はただちに連想される。『ルートヴィヒ』だ。

 ヘルムート・バーガーは、この映画で主人公ルートヴィヒ2世を演じた。作中、転換点となる重要なシーンで、神と自由について語られる(1:21:41〜)。

 普墺戦争が始まり、弟オットーも戦場に出た。戦況は悪くなる一方で、弟の精神状態も悪化したと知りながら、国王ルートヴィヒは戦争から目を逸らす。ある夜、ルートヴィヒは湖で、全裸で水浴びをする従僕フォルクを見つけた。たくましい男の肉体に魅了されたルートヴィヒは、彼と姦通を犯してしまう。その罪を神に懺悔していたところに、敗戦の報せが届く。報告にきたのは、旧知のデュルクハイム大尉だった。大尉は戦場の悲惨さとオットーの苦しみを王に告げるが、ルートヴィヒの苦悩は、そのときすでに別のところにあった。

ルートヴィヒ「世界は耐え難いほど卑しい。人々は物質的安定のみを求め、そのために命さえ投げ出す。私は自由でいたい。不可能のなかに幸福を。弟とは反対に信念と行動を一致させたい。だから戦争に背を向けたのだ。卑怯からではない。欺瞞は嫌いだ。真実に生きたい」

デュルクハイム大尉「失礼ながら、真実に生きたいと仰せられたが、自由人という意味では? 本能と欲求のまま、偽善も欺瞞もなく。だが、真実とは、そのような自由とは無関係です。「特権的な」自由は真の自由とは別です。真の自由は万人のもので、だれもが手にする権利があるのです。我々の世界は純粋ではなく、善も悪もありません」

 この会話は、主題が二重化している。大尉は戦争について語っているが、ルートヴィヒは夜の湖畔での姦通の罪に苛まれ続けている。だれに知られたわけでもないが、敬虔なカトリックであるルートヴィヒには、それは神を裏切る重大な罪だった。だから、ルートヴィヒは必死になって自己弁護を図るのだ。

「だから戦争に背を向けた」というセリフも、実は複雑に入り組んでいる。そもそも戦争に背を向けた己を肯定したくて同性愛に走ったが、その神への反逆を肯定するために、戦争に背を向けた己をことさら強調するのである。

 大尉はさらに続ける。

デュルクハイム大尉「危険な戦場にとり残されましたが、お見捨てになった陛下に対しては憐れみを感じました。陛下はそれを勇気ある選択だと思われ、義務を無視し、幸福を見出したと錯覚された。人生を愛する者は慎重に生きねばなりません。国王とて同じです。国王の大権にしても、社会の枠内に制限されています。枠の外にはありえません。平凡な人間は陛下の言う自由にはついていけません。陛下が軽蔑されるように物質的な安定だけを求めているわけではないのです。王について行けるのは、道徳的束縛がなく、快楽を自由と解釈する人だけです」

  言いながら大尉は立ち上がり、ルートヴィヒから離れて歩き出す。カメラは大尉を追う。大尉ひとりがフレーム内で語り続けて、「国王の大権にしても」のところで、ルートヴィヒが大尉の奥に置いてある大小二枚の鏡に映り込む。「社会の枠内に制限されています」と続く間にルートヴィヒは酒を飲み、ソファに寝転がって鏡のフレームから見切れるが、大尉のセリフは「枠の外にはありえません」と続く。

 ルートヴィヒは、許されざる罪も自分ならば犯してもよいと思い込もうとしたが、大尉に(大尉自身はそうと知らず)反駁された。この「快楽を自由と解釈する人」についても、大尉はすぐに「それは間違いだ」と明言する。

デュルクハイム大尉「卑しい下僕や詐欺師、人を食い物にする者、そんな連中は遠ざけるべきです。騙されてはなりません。別の存在理由を見付けねばなりません。平凡さを受け入れる素朴な人間の存在理由を。高い理想を追う人には勇気の要ることですが、それが孤独から逃れる唯一の道です」

  王であろうとも自由に生きることはできないと突きつけられ、自由こそ価値あるものと信じてきたルートヴィヒは、自分が犯した罪の重さを知ることになる。だが、それはもう取り返しがつかず、ルートヴィヒは自分が救われることはないと絶望する。

 神の国を追放されたなら、すがるものは「自由」しかなかった。それがフォルクと姦通したときに感じた自由と違っても。漠然と思い描いた価値あるものとしての自由でなくても。

 ちなみに、大尉が「快楽を自由と解釈する人」として念頭に置いたのはワーグナーだが、そのワーグナーでさえ後に家庭を持ち、世俗の幸福を見出した。ワーグナー家のクリスマスが描かれる。幸福と信仰は不可分なのだ。そして、それがルートヴィヒが永遠に喪った世俗と神への帰依だった。ルートヴィヒがワーグナーと決別した理由は明らかだ。

 重要なのは、ルートヴィヒが無神論者ではないことだ。神を信じるから苦しみがある。この自由という概念は、神への信仰がなければそもそも生まれてこなかっただろう。

 自由とは、大尉が言うようなものでもないのだ。それはけっして獣に堕すことではなかった。

「夜は理性の王国だ」と、ルートヴィヒは語る。

 同じように『リベルテ』の夜も、理性に支配されている。本能的な快楽の貪りは、そこでは行われない。貴族たちは想像力を働かせてサド的狂乱を演出しようとするが、彼ら自身の想像を逸脱することはなかった。

 それが『リベルテ』が退屈である理由だ。

 貴族たちは神を喪った代わりに必死になって自由にすがろうとする。自由にすがるための儀式だから、ひとつひとつに理屈がつく。無軌道な獣性に身を任せはしない。だからエロチックでなく、単にグロテスクであり、眠気を誘うほど退屈なのだ。そこには狂気がない。

『ルートヴィヒ』は、ルートヴィヒが理性的な死を遂げても、それを狂気と解釈する登場人物たちの視点が彼を狂王として物語る。彼らは自由がなにか知らないから。

リベルテ』には、こうした解釈の視点がない。「別解釈の」ではなく、映画内に映画を解釈する視点そのものがない。剝き出しの記録映像として提示され、観客はそれを覗き見るだけだ。そのように作られている。

 

 

追記

 ルイ15世暗殺未遂並びにダミアンの処刑は史実。ダミアンの処刑はその残酷さで有名になった。フーコーは『監獄の誕生』でその処刑を冒頭に掲げている。

 たとえば、「アムステルダム新報」という新聞記事の引用として。

つね日ごろ、ひどい瀆神者であったにもかかわらず、こんどは、いかなる冒瀆的な言辞も男の口から洩れなかったことは確かである。ただ、極度の苦しさのあまり、その男は恐ろしい叫び声をあげていた。しばしば「神様、どうか御慈悲を、イエス様、お助けください」とくり返した。高齢にもかかわらず死刑囚を慰めるために片時をもむだにしなかった主任司祭ド・サン=ポールの心づくしは、見物人のすべてにふかい感銘を与えた。

 公開処刑は、世俗の人々により深い信仰を呼び起こす儀式にもなったのだろう。革命は起きないだろうと貴族たちが言う理由も分かる。