八犬伝覚書 八犬伝の引用元 その2

南総里見八犬伝』は引用の織物である。作中、どこから引用したか明記してある場合が多いが、前回に引き続き、典拠記載のない引用箇所を書き出してみた。

 

 

 

第五十六回

◎ 囚われの犬田小文吾が対牛楼で望郷の念を抱く。

「犬田が為にはここも亦(また)、望郷の臺にして、北地より来る鴻雁(かりがね)はなけれど、いざこととはんと詠れたる、都鳥は今もありけり」

→→→「名にしおはばいざこと問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと」(『伊勢物語』第九段「東下り」)

【注記】「ここも亦、望郷の臺」「北地より来る鴻雁」とあるのは、その直前に小文吾が壁に掛かった「蜀中九日」という詩(王勃)を見たことから。八犬伝作中ではタイトルだけが明記され、七言絶句「蜀中九日」そのものは省略されている。首府を逐われた王勃が、重陽節句悲愁を謳った詩。『唐詩選』にも収録。

九月九日望郷臺  

他席他郷客送杯  

人情已厭南中苦   

鴻雁那従北地来   

 

 九月九日望郷台

 他席他郷客を送る杯

 人情已(すで)に南中の苦を厭う

 鴻雁なんぞ北地より来たる 

 

第七十二回

◎ 幼い姫が大鷲にさらわれた現場での、お供たちの描写と心情。

「(傅役やお供たちは)蒼天を、うち瞻仰(あほぎみ)て音にぞ泣く、三保の浦曲(うらわ)にとり遺されし、天津少女(あまつおとめ)に異ならず」

→→→三保の松原羽衣伝説。天津少女は天女のこと。「久方の天つ乙女が夏衣雲居にさらす布引の滝」(藤原有家古今和歌集』)

 

第七十四回

◎ 越後。鮫守磯九郎がひとり夜道をゆく、長い帰路の途中。

「夜艾(よる)の野田のことにしあれば、宇津の山邊にあらねども、人には遭ぬなりけり」

→→→「駿河なる宇津の山べのうつつにも夢にも人にあはぬなりけり」(『伊勢物語』第九段「東下り」/在原業平新古今和歌集』)

 

第七十六回

◎ 越後。夜、犬川荘助が山道で荒れた庚申堂を発見する。

「四壁は風雨に洗れて、不破の関屋の廂ならねど、漏る月影の隈もなければ、猶彼此(あちこち)と看て知りぬ」

→→→「人住まぬ不破の関屋の板びさし荒れにしのちはただ秋の風」(藤原良経『新古今和歌集』)

 

第七十六回

◎ 越後。犬川荘助が庚申堂で吊られた女を発見する。

(荘助のセリフ)「やをれ汝は何物ぞ。人にはあらで變化ならば、かの元人の小説に、見(あらは)れしと聞こえたる、亦(また)紅孩児の類にて」

→→→紅孩児は『西遊記』の登場人物。牛魔王羅刹女の子供。自分で自分を木に吊るして助けを求め、三蔵法師一行を罠に嵌めようとする。

 

第八十八回

湯島天神の境内。薬売りの口上。

「(この歯磨薬は)寒水石を打砕き、水に浸し細末にして、加るに、丁字、龍脳、肉桂、乳香、没薬を以す。寒水石は石膏なり。石膏は味辛く微(すこし)寒(ひえ)て毒なし。心下の逆氣、驚喘、口乾き舌焦れて、息すること能ざるに即効あり……(以下続く)」

→→→「石膏。味辛微寒。治中風寒熱。心下逆氣驚喘。口乾舌焦不能。腹中堅痛。除邪鬼。産乳金創」(『神農本草』巻中「石膏」)。

【注記】『八犬伝』後刷本の巻尾には、大坂屋半蔵で発売する薬「順補丸」の広告が掲載された。その謳い文句の症状にも一応当て嵌まる。

 

第八十九回

湯島天神境内。放下屋物四郎は襲撃を受ける。

「(物四郎は)寄るを蹴倒し、打倒す、拳の冴は稲妻の、甍を走るに異ならず。蜘手加久繩捕索の、甲斐こそなけれ……」(原文の「蜘」は虫偏に喜)

→→→「くもで・かくなわ・十文字・とんぼうがえり・水車、八方すかさずきったりけり」(『平家物語』巻第四「橋合戦」)

 

第九十九回

◎ 疫病に襲われた村。神社で夜を明かす素藤は大楠の木精(すだま)と疫鬼(えやみ)の会話を聞く。

「(木精が疫鬼へ)『この樹の虚には神水あり、黄金に浸す事、一昼夜にして、この水を、病人に飲しなば、病著(いたつき)立地(たちどころ)に瘥(おこた)り果ん。もしこの理を知る名医に遭はば、その折和老誰何(いかに)するや。』といふを外面(とのかた)の物(=疫鬼)推禁(おしとど)めて、『否然る事はいはずもあれ……』」

→→→「(山中。夜。半六が目を覚ますと)誰とはしらず楠の下にうち相語(かたらふ)声すれど、野干玉(ぬばたま)の闇なれば咫尺の間も絶えて見えず……その相語を聞くに一人がいふよう、如何にわが神力を見たりや、縦令(たとひ)領主この國中の人を尽して来たるとも何程の事を為出すべきと誇りかに聞ゆれば、一人答へて否否さは云ひぞ、もし知れる者ありて、蟇目して足下を蟄(すごも)らせ、その根に鹿尾菜(ひじき)の烹汁(にじる)を沃(そそ)ぎかけ、然して後斧を入れなば、今の廣言も甲斐なからんと云ふに……」(曲亭馬琴三七全伝南柯夢』巻ノ一「深山路の楠」)

【注記】優れた引用の使い方である。

 『南柯夢』は『八犬伝』よりも前に書かれた馬琴の代表作のひとつ。大和の領主筒井順昭から、新築する邸の天井に一枚板を使うゆえ、人跡未踏の深山に聳える楠を伐れと命じられ、地元の樵が動員された。だが、楠は神木だった。祟りが起き、伐採作業は大事故に見舞われた。その事故の際に気を失った半六だけが山に取り残され、夜中に木精(すだま)の会話を聞くことになる。楠を伐るための秘密を知った半六は、伐採に成功して大出世を遂げる。

 『南柯夢』は大当たりして続編も作られた。当時の『八犬伝』読者には知られた物語だっただろう。

 蟇田素藤が疫鬼の弱点を聞き知って出世する『八犬伝』の展開は、『南柯夢』の半六が楠の弱点を知る流れと同型である。『南柯夢』を知る読者は、「ははあ、これは馬琴先生のセルフオマージュだな」とニヤリとしただろう。『南柯夢』からの引用と気づき、納得した気分になったのだ。

 だが、そう誘導することで、重要な要素を読者の意識の外に置くことに成功する。同じ構造だと気付いたために、見落としてしまう。それは、その木精が木精であるという根拠が一切語られていないことだ。

 素藤が楠の木精だと思ったなにかが、疫鬼から「玉面嬢」と呼ばれていることだ。

 ここで馬琴が行った企みは、引用を利用した「伏線」なのである。

 

南総里見八犬伝 4 南総騒乱

南総里見八犬伝 4 南総騒乱

  • 作者:松尾 清貴
  • 発売日: 2020/10/09
  • メディア: 単行本