八犬伝覚書 八犬伝の引用元 その3

南総里見八犬伝』は引用の織物である。本文中に出典の明記がない引用箇所の、参照元を探る試みの続き。

 

第百三回

◎ 富山の描写。

「嶮邊(そばのべ)逈(はる)かに直(み)下せば、白雲聳え起りて、谷神(こくしん)窅然(ようねん)と玄牝の門を開けり」

→→→「谷神不死 是謂玄牝 玄牝之門 是謂天地根 綿綿若存 用之不勤」

(谷神は死せず、これを玄牝という。玄牝の門、これを天地の根という。綿々と在るごとく、これを用いて勤(つ)きず。)

(『老子道徳経』第六)

 

第百六回

◎ 富山で里見義実を救った犬江親兵衛に大刀が贈られる。

(義実、親兵衛に向かって)「我が家に、大月形、小月形と名付けたる、重代の刀あり。大月形は、家督と共に、昔年義成に譲り与へたり」

→→→「天文三年八月三日、わが父にてをはせし人、主君の仰うけ給はり、鎌倉の管領家へ、婚縁の事あって、引き出物として里見の重宝、大月形の大刀を衛(も)り与(あずか)り、」(曲亭馬琴常夏草紙』)

 

第百十七回

◎ 政木が狐龍について語る。

(政木、孝嗣に向かって)「三稔(みとせ)の後、上総国夷隅郡、雑色村に石降りて、石の形は、蟠る、龍に似たるを見給はば、我が成る果(はて)と知り給へ」

→→→「天目山人全文猛於新豊後湖観音寺西岸、獲一五色石大如斗。文猛以為神異、抱献之梁武。梁武喜、命置大極殿側。将年餘。石忽光照廊、有聲如雷。「此上界化生龍之石也、非人間物」

(天目山の住人、文猛は湖の西岸で大きな五色の石を拾った。文猛は神異を感じ、梁の武王に抱え献った。武王は喜び、大極殿の側に置くように命じた。やがてこの石は光って廊下を照らしたり、雷のような声を上げたりした。「これは天上の化生だ、龍の石である。人間の物ではない」)

(『太平広記』巻四百十八/『梁四公記』)

 

第百三十八回

◎ 京都物語。紀二六は犬江親兵衛に命じられ餅売りに扮し、客引きのため太平記を読んで評判をとる。

(紀二六の独白)「犬江主の誂え給ひし、餅は必ず所以(ゆえ)あるべし。と心つきてもその所以を、早(とみ)に悟るに才足らぬ、かの堕涙碑(だるいのひ)にあらねども、考へ考へ幾町か、ゆくとも覚ず五條なる、客店近くなりしとき、やうやく思ひ得てければ、」

→→→「祜樂山水、毎風景、必造峴山、屋酒言詠、終日不倦。嘗慨然歎息、顧謂從事中郎鄒湛等曰、「自有宇宙、便有此山。由來賢達勝士、登此遠望、如我與卿者多矣。皆湮滅無聞、使人悲傷。如百歳後有知、魂魄猶應登此也」

 湛曰、「公徳冠四海、道嗣前哲、令聞令望、必與此山倶傳。至若湛輩、乃當如公言耳」

 襄陽百姓於峴山祜平生游憩之所建碑立廟、歳時饗祭焉。望其碑者莫不流涕、杜預因名爲堕涙碑。

(羊祜は山水を楽しんだ、風景ごとに。必ず峴山へ出かけては、酒を設けて吟詠し、終日飽きなかった。あるときひどく憂いて嘆息し、従事中郎の鄒湛らを振り返って言った。「宇宙が生まれたときから、この山は存る。以来、私や君たちのように登って遠望した優れた人士が大勢いたのだ。それがみなこの世から消え、音沙汰もない。悲しいことだ。もし百年後にも心が残るなら、魂魄となってなおここへ登るだろう」

 鄒湛が言う。「殿は四海に冠する徳を、先哲を嗣ぐ道を備えておられます。御名望はこの山とともに永遠に伝わるでしょう。私などは殿のお言葉通りになりましょう」

 襄陽の人々は、峴山の、羊祜が平生遊山していた場所に碑と廟を建て、歳時ごとに祀った。その碑を見て涙流さぬ人はなく、杜預が因んで「堕涙碑」と名付けた。)

(『晋書』巻三十四「羊祜伝」)

 

第百三十九回

◎ 京都物語。細河政元の近習、紀内鬼平五景紀が犬江親兵衛との対戦を請う。

(政元に)「(投石の技を誇り)実に是百撥百中、百歩を隔てて柳葉を、穿ちしといふ養由基が、弓箭にも優(ま)す本事(てなみ)なれば、人みな並(なべ)て賞感のあまり、則(すなわち)綽名(あだな)して、今三町と呼びなしたり。昔源為朝の勇臣と聞えたる、三町礫の紀平次大夫の、本事に伯仲すればなり」

→→→「楚有養由基者、善射。去柳葉者、百歩而射之百撥百中。左右皆曰、善」

(楚に養由基なる者あり、射を善くし、柳葉を去ること百歩にしてこれを射、百発百中す。左右みな善しと曰ふ)

(『戦国策』巻之一「西周」)

→→→「(為朝、精鋭のみ連れて上洛する)乳母子の箭前払の須藤九郎家季、その兄透閒数の悪七別当、手取の与次、同じき与三郎、三町礫の紀平次大夫、大矢の新三郎、越矢の源太、松浦の二郎左中次、吉田の兵衛、打手の紀八、高閒の三郎、同じき四郎を始めとして、廿八騎をぞ具したりける」

(『保元物語』巻之一)

 

第百四十回

◎ 京都物語。種子島中太正告は親兵衛との鉄砲の試合を、的撃ちではなく、それぞれの笠の上に的を付け、馬上での撃ち合いにしたいと願い、主君細河政元に却下される。

(親兵衛はその話を聞いて)「かの種子島が、小人なる、今さらに歯に掛るに足らねど、昔唐山宋の康王は、射(ゆみい)るごとに人をもて、必ず的にせしといふ、残忍にや做(なら)ひけん、或は又今戦世(みだれよ)の諸侯の、専専(おさおさ)驍勇を好む家には、運試しといふ事あり、究竟なる若人を、円坐に並せたる、その中央に、機関(からくり)ある、鉄砲に火を刺て、一人急に牽き輪(めぐら)すに、その銃丸(たま)発して、撃たるる者あり、撃たれて死するを薄命として、父母親族も哀しまず」

→→→「酒宴を設るとき、大円形に群坐して、人々の間を疎にして居、其中央に綱を下げて鳥銃(てっぽう)をくくり付け、玉薬を込め、綱によりをかけ、よりつまるを見て、火をさしながら綱の手を離せば、綱のより戻りてくるくると回る内に銃玉発す。円坐せしもの、元の如くありて避ず。或は其玉に当る者あるも患へず。人も亦哀れまずと云う」(『甲子夜話』巻十八?)

【注記】この回が収録された巻二十六、第九輯下帙之下甲號は天保九年(1834)刊行。『甲子夜話』巻十八の原本はすでに書かれているが、『甲子夜話』の刊行年を調べてみないと、馬琴が読んだという確証を得られない。

 

第百四十一回

◎ 竹林巽の住む村の東外れにある薬師院の利益について。

「老若男女、何まれかまれ、通(なべ)て皆只病痾(やまい)と唱えて、深信祈請して利生を仰げば、感応あらずといふことなし。然ば古歌にも、

 南無薬師あはれみ給へ世のなかにありわづらふも病ひならずや

と詠みてまゐらせて、貧しかりける女房の、宜しき所縁(よすが)を得たりといふ、心操(こころばえ)に同じかるべし」

→→→「昔、伊勢と聞こえし歌詠みの女、世の中過ぎわびて、都にも住み浮かれなんどして、世に経べきたづきもなく侍りけるが、太秦に参りて、心を澄ましつつ、勤めなんどして、

 南無薬師あはれみ給へ世のなかにありわづらふも同じ病ひぞ

と詠みて侍りければ、仏殿動き侍りけり」(『撰集抄』巻八第二十二話)

【注記】「薬師如来様のお慈悲を請い願います。この世にある貧しさもまた同じく病でございましょう」薬師如来には病平癒の祈願をすることから。八犬伝のほうも「この世の貧しさも病ではございませんか」で意味は同じ。

 

南総里見八犬伝 5 八犬具足

南総里見八犬伝 5 八犬具足

  • 作者:松尾 清貴
  • 発売日: 2021/03/12
  • メディア: 単行本