作者が登場するとき、テクストではなにが起きているのか?:クレメンス・J・ゼッツ『インディゴ』雑考

 クレメンス・J・ゼッツ『インディゴ』(犬飼彩乃訳)は、奇妙な小説だ。どこがどう奇妙かは読み手によって異なるだろうが、まず言えるのは現実の扱い方のユニークさだ。

 主題のひとつである「インディゴチルドレン」とは、現実世界においては、ニューエイジ運動真っ只中の1970年代、80年代アメリカで、スピリチュアルな子供たちの分類として提唱された。

 子供のオーラの色が見えると自称するナンシー・アン・タッペの直観的な色分けのひとつに、インディゴがあった。インディゴのオーラを持つ子供たち、インディゴチルドレンは特殊で、使命をもってこの世に生まれたと、ニューエイジ思想らしい根拠のない決めつけが行われた。

 しかし、ブラヴァツキーやシュタイナーとも親和性の高いニューエイジ思想は、教育へ応用される事例も多く、ナンシー・アン・タッペが再注目されたのは、1999年に出版された、リー・キャロルとジャン・トーパーの共著、“The Indigo Children:The New Kids Have Arrived”によるものだった。この本は(センセーショナルな書名ではあるが)スピリチュアルな思想よりも、インディゴと分類される子供たちとの付き合い方、育て方に重点が置かれている。インディゴチルドレンと呼ばれた子供たちには、ADD(注意欠陥障害)やADHD注意欠陥多動性障害)と診断されるケースが多く見られ、そうした子供たちは一般に広く存在する。子育て、幼児教育、健康面の注意事項などが例を挙げてまとめられ、我が子の発育、教育への悩みを抱えた家庭でよく読まれたのだろう。

 なおナンシー・アン・タッペは共感覚の持ち主だったようだが、『インディゴ』の訳者あとがきによると、作者のゼッツも共感覚だと自称しているそうである。

 さて、小説『インディゴ』では、第一部第3章「メスマー研究」で、インディゴ症候群という呼称の由来が説明される。原則として、小説『インディゴ』で使われるインディゴ、またはインディゴチルドレンという用語は、ニューエイジでのインディゴチルドレンとは別物だと再三にわたって作中で言及されている。

 二〇〇二年に女性が一人、有名なトークショーのゲストとして登場して、自分は霊視のできる霊媒師で、人間のオーラを感じることができると主張しました。(中略)数年前からあちこちで小さな青い存在、藍色(インディゴ)のオーラをもった子供たちが目立つようになった、というのです。(P62〜P63)

 でありながら、ここで登場する霊媒師は、明らかにナンシー・アン・タッペをモデルにしている。子供のオーラの色がインディゴだから、やがて症状(ある一定の距離、持続時間、近接した人たちに吐き気や頭痛などの障害を引き起こすという症状)が世間に知れ渡ると、「インディゴ症候群」と呼ばれるようになった。この呼び名に対し、ニューエイジ運動のグループから、彼らの用語であるインディゴチルドレンを流用するなとクレームが入る(と作中で語られる)。

 このねじれ具合はなんなのか。『インディゴ』という虚構世界には、現実世界でナンシー・アン・タッペが主張したインディゴチルドレンの定義もまた歴史の一部として存在しているその上で、この作者は、タッペと同じエピソードを時代を変えて反復している。普通の作家なら、こんなことを平然とした顔でやらない。設定をあやふやにしないため、現実か虚構かどちらかを改変するだろう。それをなんでもなく併記するのだから、なかなかイカレている。

 

 一例としてインディゴ呼称の問題を挙げたが、このように現実・虚構を問わず様々な人物、出来事が登場しながら、それらが重複しても矛盾しても構わないという姿勢が、初っ端で示されたようでもある。こういう小説だと踏まえた上で、ここでは終盤の謎(おそらく最大の謎)に挑戦したいと思うのである。

 

 

 

 

 

以下、ネタバレします。お気をつけください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 『インディゴ』は謎だらけだ。

 一般に、張り巡らした伏線が回収されるなりして解決されるから謎と呼ばれるわけだが、このテクストでは謎が謎を呼んで錯綜して錯綜したままになる。細かいところでは、ある場面でロベルトお気に入りのオンドリを取りにくるコンラートという男が出てくる。唐突に登場し、彼が何者なのか説明はない。重要でないからだろうが、だったら名前はなくていい。この一場面だけで妙にコンラートは印象づけられ、結局だれだったんだ? という謎だけが残る。そこで読む側が勝手に頭を巡らせ、コンラートの英語名はコンラッドだから、『闇の奥』(作中に引用がある)のジョセフ・コンラッドに掛けたとしたら云々……などと考えても、解決の糸口は見えない(このシーン自体はけっこう重要)。

 また、ヴィリーの彼女のマグダは……これはわざわざ書かなくてもいいか。

 さらにこれは個人的に感じる謎なんだが、作中人物のゼッツが、安部公房の『カンガルー・ノート』がお気に入りだと語る。なぜ『カンガルー・ノート』? 安部公房の好きな小説が『カンガルー・ノート』ってあり得るのか? こんなところから疑いだすとパラノイアと思われるが、僕はこれまで『カンガルー・ノート』が好きだという人に会ったことがない。それは駄作とか失敗作とかいう意味ではない。いわば、盲点になっている。安部公房は晩年のエッセイでよく『飛ぶ男』の話をし、「スプーン曲げをする少年」の物語というポップな題材が注目され、そちらの印象がとても強い。

 そもそも『インディゴ』に出てくる書名には、超能力が登場する小説が少なくない。こう言うとやや誇張が過ぎるが、『カンガルー・ノート』は少し浮いた感じがし、個人的には『飛ぶ男』のほうがしっくりくる。さては本当は『飛ぶ男』としたかったのに隠したんじゃないのか。書名を挙げないことで『飛ぶ男』を際立たせたんじゃないか。

 ……と、あまり根詰めて読むと、こんなふうにこっちの頭がやられるのでご用心。

 閑話休題

 こんな小説『インディゴ』における大きな謎が、ゼッツ視点パートの終盤で畳み掛けるように訪れる。一応解決を果たしたのかと思わせてからの、怒涛の展開。第四部で終わっていれば、心穏やかにいい小説だったなと思えたかもしれないのに。ひっくり返しすぎてちゃぶ台になにも乗っていない状態になって、違う意味で穏やかに終わってゆく。素晴らしい!

 

 ストーリーをおさらい。

 物語の主軸は二つあり、ひとつが作者と同名のクレメンス・J・ゼッツ視点で語られる。ゼッツはかつてヘリアナウ学園に数学教師として赴任したが、問題を起こして退職した。彼はインディゴ症候群を患う生徒ばかりを集めたその学校で不可解な謎に直面し、その解明に挑む。

 もうひとつの物語は、ゼッツがかつて数学教師として赴任したヘリアナウ学園の元生徒、ロベルト・テッツェルが視点人物。インディゴ症候群を患っていたが、「バーンアウト」してそれなりに日常生活を送っている。ロベルトはある日、何者かが顔の皮を剝がれて殺害された事件を知り、その容疑者として逮捕されたのがかつての学園の教師ゼッツで、いまは無罪放免されたことを知る。ロベルトはゼッツは無罪ではないと睨み、事件の謎を追う。

 この二つの物語が交互に語られてゆく。それぞれがそれぞれのテクストを侵食するように絡み合うが、二つの物語には15年の隔たりがある。

 

 全五部構成の『インディゴ』だが、だいたい真ん中あたり、第四部第1章(P315〜)から「緑のファイル」が挿入され始める。

 「緑のファイル」は、断片的な情報(記事の切り抜きやコピー)の集積である「赤いチェックのファイル」より、やや長めの、ゼッツ自身の日記のような形式をとっている。書体からして、ゼッツ視点の主パートとは区別されている。

 そして、ゼッツ視点のパートは、いつしかこの「緑のファイル」にとって変わられる。

 正確に書くなら、「緑のファイル」は、第四部の1、3、5、7、9、11、13章(第四部のゼッツ視点で語られるパートすべて)を占める。第五部第1章は「赤いチェックのファイル」である。つまり、ゼッツ視点パートは第三部(〜P311)で中断して第五部2章(P516〜P 530)まで出てこない(第三部は短く、全編ゼッツ視点)。

 これは歪な構造だろう。一見すると、『インディゴ』は二つのパート、ゼッツ視点(2007年頃)とロベルト視点(2021年)が交互に語られているように見えるが、実は、それは第二部までで、それ以降は、ロベルト視点のパートのほうが圧倒的に量が多く、ゼッツ視点のパートはファイルにとって変わられる。

 どうしてこんな歪な構造をとっているのか?

 まず考えるべきは、「緑のファイル」で語っている一人称のゼッツが、第一部から第三部までの視点人物を務めたゼッツと、本当に同一人物なのかどうかという問題。たとえば、第四部でゼッツ(「緑のファイル」のゼッツ)はブリュッセルへ行くが、ゼッツが本当にブリュッセルへ行ったのかどうか、他人の証言は曖昧である(第四部第10章、第五部第2章)。その謎は明らかにされないまま宙吊りにされたようにも見える。明確な解決は示されない。だが、いくつかの断片から、おぼろげながら浮かび上がる奇妙な構造はある。

 まず、第五部第1章のタイトルが、「メモ書き 赤いチェックのファイル」であることだ。第四部でゼッツ視点を担った「緑のファイル」でこそないが、「メモ書き」という注釈の通り、これもゼッツ視点で書かれた断片が配置される。

 ここで改めて「赤いチェックのファイル」の特徴を見ると、基本的には断片的な情報であるのが分かる。切り抜いた新聞記事や雑誌記事などだ。ゼッツによって言及される「赤いチェックのファイル」の初出はこう書かれている。

 児童心理学者との面会のあと、もらった本をすこし読んだ。彼女の主著の新版だ。旧版は大学図書館で借りていた。興味をひかれた数ページはコピーして、赤いチェックのファイルに入れてあった。(P71) 

 「赤いチェックのファイル」には、他人の書いたテクストが多くある。これは「緑のファイル」がゼッツの一人称で書かれているのと対照的である。「赤いチェックのファイル」は他者の声の集積だから、ある種の客観性が相対的に担保されていたはずだが(もちろんゼッツが選別する時点で完全な客観性は獲得できない)、第五部第1章ではゼッツの語りとして語られる(読みにくいブロック体でメモを取る描写がある)。

 一方で、「緑のファイル」はどうだろうか。「緑のファイル」が出てくるのは、第四部第3章「電球頭の男」で、前述の通り、そう書かれた文章自体が「緑のファイル」である。

 オリヴァー・バウムヘルとゼッツの会話。

「今が反論をするべき瞬間ですか」僕は尋ねた。

「いいえ。でも読むものをさしあげましょう」

 彼はファイルキャビネットから緑のファイルを取り出した。それを開いて、中身を僕にみせた。新聞の切り抜きだ。手書きの紙片もはさまれている。『マグダ・Tのリロケーション』と表紙には書かれていた。(P361)

  このファイルの中身が、第四部第5章の「マグダ・Tのリロケーション」になる――はずなのだが、肝心の第5章は、ゼッツの一人称で始まる。そのなかで、「僕」(ゼッツのこと)はバウムヘルにもらったファイルから書類を取り出して読み始める。そこで読者は、その書類が「マグダ・Tのリロケーション」だと思い込まされるのだが、もしもそうであるなら、この章全体が、第三部までと同じようにゼッツ視点で書かれていないとおかしい。この章は「緑のファイル」なのだ。ならば、マグダのファイルを読んでいるゼッツの行動も、読んだ感想もすべて、すでに書かれたファイル(バウムヘルからもらったファイル)でなければおかしい。そう考えると、バウムヘルから渡された「緑のファイル」はゼッツ視点で書かれてはいるが、それを書いたのがゼッツだという保証はどこにもない。

 第五部第1章に戻ろう。ゼッツはロープウェイのゴンドラに、鼻メガネをかけた男といっしょに乗っている。

 ロープウェイの場面は「緑のファイル」ではなく、「赤いチェックのファイル」だ。ここではゼッツ自身の語りのように書かれている。ひとつ言えるのは、「赤いチェックのファイル」は、ゼッツ自身が集めた情報だ。相対的にではあるが、そのファイルに入ったメモ書きも、ゼッツ自身が所有したゼッツのメモとして信頼してよさそうに思える。むしろ、ゼッツの語りとして信頼できるのはこの箇所のみではないか、とさえ考えられる。

 どうしてそう考えるのか。

 それは、鼻メガネの男がゼッツに渡そうとする原稿に関わってくる。 

 

 このロープウェイのくだりの直前に別の断片がある。もちろん、これも「赤いチェックのファイル」のひとつだ。

[パソコンからのプリント、四つ折り]

 代書人バートルビー――これは一人だけではなく、この種の人はたくさんいるのであって、本当にたくさんのバートルビーがいるものだ。世にも奇妙な仕事や生活の分野に。たとえば (P512)

 このメモ書きでは、バートルビーのような人物として、カンボジアの収容所の看守が例に挙げられている。拷問することを拒否し続け、数週間後に露見すると、男は投獄された。それでも同じことを言い続けるから、かつての同僚が同情して電気ショックで殺してやった。そんなエピソードだ。

 「代書人バートルビー」は、『白鯨』で有名なメルヴィルが書いた短編小説だ。これ自体が、多様な解釈を可能にするテクストでもある。

 弁護士事務所の筆耕に雇われたバートルビーは、勤務態度も真面目で仕事もよくこなした。あるとき弁護士は、急ぎの仕事が入ったから書類の照合を手伝ってくれとバートルビーに頼む。すると、「せずにすめばありがたいのですが」と拒んで自分の筆写を続けた。弁護士は我が耳を疑った。また別の日、写本を読み合わせて点検するためにバートルビーを呼ぶと、「せずにすめばありがたいのですが」と拒む。郵便局へ行ってくれと言っても、同じように断る。やりたくないのかと訊けば、「せずにすめばありがたいのですが」と言う。そのうちバートルビーは筆写もやめた。事務所を出ようともせず、置き物のように住み着いた。出て行ってくれと言っても、「せずにすめばありがたいのですが」と拒む。解雇しようとしても、「せずにすめばありがたいのですが」と拒む。弁護士は困り果てて事務所を移転したが、バートルビーはなおも元の事務所に居座って、やがて新しい入居者やビルのオーナーが弁護士へクレームを入れにくる。弁護士が仕方なく説得に行くと、バートルビーは「なにもしないほうがありがたいのですが」と言うだけだ。あまりに立ち退かないため、刑務所に入れられることになった。バートルビーは刑務所でもなにもしなかった。食事もしなかった。そのうち、塀の根元で丸くなって動かずにいた。

 多義的な解釈が可能なこの短編を最後の最後になって持ってくるのは、かなり異様だろう。最終盤で「バートルビー」を引き合いに出されることほど不穏なことはない。

 この後にロープウェイのシーンがくる。ゼッツは、同じゴンドラに乗った鼻メガネの男から原稿を渡される。

  突然登場した鼻メガネの男だが、続く第五部第2章の葬儀の場面にも登場する。ゼッツが見かけるだけだが、その後のシュテニッツァーさんの話しぶりから、鼻メガネの男は彼女の知り合いらしいことは分かる。

 シュテニッツァーさんは、インディゴ症候群を患った子の母親で、ゼッツの取材源だった。亡くなったのは彼女の息子だった。

 ここで久しぶりに(205ページぶり。ちなみに日本語訳版の本文は全537ページ)、ゼッツ視点の語りに戻っている。この章はファイルではない。

 旧知であるシュテニッツァーさんとの会話は、しかし、終始噛み合わない。ゼッツは身に覚えのない事柄で責められ、謎だったフェレンツという男とシュテニッツァーさんが連絡を取り合っていたことも明かされる。

 それから、ゼッツはシュテニッツァーさんからロープウェイに乗ろうと誘われる。

「あとでロープウェイに乗ろうと話しているんですよ。友人たちと。よかったらあなたもいらっしゃいませんか、ゼッツさん」

「よろこんで」

「だって、もう二度もギリンゲンのわたしどもの所にいらしているのに、まだ一度も近くからロープウェイをご覧になったことがないんですもの」

 そして一瞬、奇妙な、興奮したといってもいいような微笑みが、彼女の顔をかすめていった。(P529〜P530)

  シュテニッツァーさんの発言を信じるなら、ゼッツはそれまでロープウェイに近付いてもいないようだ。ギリンゲンのロープウェイが有名だとは、作中、何度か語られた。シュテニッツァーさんの微笑でこの章は終わり、次の第五部第3章はロベルト視点となる。ゼッツはもう登場しない。

 おそらく、ゼッツはこの後でロープウェイに乗るのだろう。そして鼻メガネの男から原稿を渡される。その男を、ゼッツは葬儀の場で目撃している。彼がシュテニッツァーさんが友人と呼んだ相手なのだろう。こうして読者はP512〜P520を永遠にループする。

  

 ロープウェイのゴンドラで、ゼッツは鼻メガネをかけた男からある提案を受ける。

「ずっとほしがっていらっしゃったものが手に入りますよ」

 彼はリュックサックから何かを出して、僕に手渡した。とても薄いものと、いくらか分厚い紙の包みだった。

「フォンターネというわけにはいきませんが、この道をいく方がよいと気づくことになりますよ、今いらっしゃる道にとぐ……とどまるよりはね。その道はどこにもつながりませんから。ザイツさん」

「正確にはどの道のことをおっしゃっているんですか?」

 僕たちがぶら下がっている、ずっしりした鋼鉄ロープがギイギイときしんだ。

「ほら、この原稿をご覧なさい。包括的なものですよ、おおむね。でもよくできています。本当にうまいシミュレーションです。タイトルはどう思いますか」

「おかしな感じです」

「ええ、そうですか? うまくいっていますよ、今どき。家族や世代間闘争、そういうものが考えられます。もちろんそれは見かけ倒しで、本当は対になっていない部品を貼り合わせているのです。ごちゃ混ぜですが、すでに受け入れられています。あなたのものですよ。もし欲しければですが」

「僕は……僕は似たようなテーマで数学の卒業論文を書いたんです……」(P 514)

 その卒業論文については、ゼッツが以前語っている。

 二〇〇五年の晩秋に僕は、数学の授業におけるいわゆる父子問題に関して学位論文を提出し、数学と国語の教職課程を修了した。

 ある父親には二人の子供がいる。少なくともそのうち一人は息子とする。そのとき二番目の子供も息子である確率は? その驚くべき答えは三分の一だ。二分の一ではない。それでは父親には二人子供がおり、そのうち少なくとも一人が息子だと仮定したら――そして父親が隣の部屋に怒鳴りこむと、それに応えて息子がドア口まできて、たしかに僕はあなたの息子だ、それでも僕はまったくのまともだ――と言う場合、第二子も男子である確率は?

 僕は自分の論文で、少々この問題の歴史に、つまり数学教授法でたいへん人気となっている現象に立ち入り、主に確率論(有名なモンティ・ホール・パラドックスの類題)と太陽系幾何学の領域からいくつか例を選んで言及した。(P171)

 ゼッツは取引を持ちかけられたようだが、その内容ははっきりしない。とにかく、ここでは原稿を渡されただけだ。

 このとき鼻メガネの男から渡された「いくらか分厚い」原稿が『息子らと惑星たち』である可能性はあるだろう。ゼッツ視点パートは2007年が舞台で、ゼッツのデビュー年でもある。「家族や世代間闘争、それは見掛け倒しで、本当は対になっていない部品を貼り合わせ」という返答とも平仄が合うようでもある。

 だが、違う可能性を考えたい。

 渡されたのは、この小説『インディゴ』の原稿、ゼッツ視点パートとロベルト視点パートの原稿ではないだろうか。「家族や世代間闘争」といった言い回しは、擬似父子に見立てた、ゼッツとロベルトの邂逅を指しているのではないのか。バラバラに語られてきたゼッツとロベルトは、ロベルト視点のパートで出会う(鼻メガネの男は分厚い原稿を指して「よくできている」と言っている)。個人的には『ユリシーズ』のレオポルド・ブルームとスティーヴン・ディーダラスが合流する場面を連想した。それに、「インディゴ」という語が、ニューエイジ思想の特定の子供たちを呼ぶことは最初に触れた。

 ここでもう一度「バートルビー」に立ち返りたい。

 鼻メガネの男がゼッツに持ちかけた取引とは、その原稿の代書だったのではないか。ゼッツに小説『インディゴ』というテクストを代書しろと持ちかけた。それが「この道をいく方がよい」という言葉の意味ではないか。「あなたのものですよ。もし欲しければ」

 それでは、「その道はどこにもつながりません」とはどういう意味なのか。

 直前に「バートルビー」を配置することによって、ゼッツが鼻メガネの男から原稿を受け取らない、取引に応じないという可能性が示唆されている。ゼッツが原稿を受け取るか受け取らないかは確率的でしかない。「せずにすむならありがたいのです」と断ったゼッツもそこにはいただろう。すると、どうなるのだろうか。この『インディゴ』というテクスト自体が存在しなくなり、テクストを読む僕ら読者もいなくなるだろう。それはつまり、「その道はどこにもつながりません」だ。

 だが、そうはならないのだ。

 なぜなら、僕たちが『インディゴ』を読むときとは、「このゼッツ」が確率的に代書を受け入れた場合のみであり、『インディゴ』が実在するこの世界では、それ以外の可能性が掻き消えている。だから、テクストから出られない無数のバートルビー、無数のゼッツの存在はなかったことになっているのだ。本当は、このテクストが成立しなかった可能性が、常に確率的に存在している。しかし、僕らはそれを感じ取ることができない。なぜなら、現にテクストはここにあるからだ。

 この断片は「赤いチェックのファイル」の中に、封筒に入れて仕舞われていた(この断片自体が、鼻メガネの男がリュックから取り出したもうひとつの「とても薄いもの」ではないだろうか)

 その封筒の表には「明確化」と書かれていた。(P512)

 すなわち、モンティ・ホールの扉を開けたという意味だろう。確率的にしか存在しない作者を明確にするには、どこでもいいから扉を開けてみる以外にない。結果、このゼッツが原稿を受け取って代書を引き受け、『インディゴ』というテクストは明確化された。原稿が写されなければ、このゼッツもまた存在しなかっただろう。存在しないゼッツは、確率的に成立したテクストの裏側に無数に存在しているのだから。

 最後に、鼻メガネをかけた男とは何者なのだろう。推論を行えるだけの材料は与えられていないが、状況から直観的に決めつけてみれば、彼が作者のゼッツではないか。ゼッツが卒業論文の題材に選んだ父子問題における子供の確率を、作者ゼッツは作中人物ゼッツに当てはめて観察したとしたら? そのゼッツが原稿の代書を引き受けて『インディゴ』を完成させることで、その虚構世界にゼッツとして存在できるかどうかは、確率的にしか分からない。作者が作中人物であり得る手段は代書ならざるを得ず、さらには確率的でもあり、そして、たいていの場合は失敗するということだろうか。

 奇しくもゼッツがフェランツについて語った言葉を思い出す。

「もちろんすぐに、また次が出てきます。名前はいつも同じですが、名を冠するものは別ですから」(P496)

 小説はどこからくるのかという問題系でもあるが、それはまた別のお話。