【リライト】曲亭馬琴『近世説美少年録』発端部1

近世説美少年録

 

 

1 阿蘇攻め

 足利義稙が二度目の室町将軍に就くと、周防、長門豊前筑前、安芸、石見、山城の七ヶ国の守護、大内左京権大夫多々良義興がその功労から管領代に就任した。管領職は細川、畠山、斯波の三家のみ任じられる役職だったため、極めて異例な人事だった。

 その翌年。

 永正六年(一五〇九)春二月。

 九州肥後国にて菊池肥後太郎武俊が南朝残党を結集し、阿蘇山古城に立てこもった旨、鎮西守護の大友親春、太宰少貳が幕府へ報告した。

 将軍義稙は、管領細川高国管領代大内義興、畠山尾張入道卜山、近江判官六角高頼ら諸老を集め、協議に入った。

 口火を切ったのは、先ごろ出家した畠山入道卜山だった。

南北朝動乱の折、菊池寂阿は南朝に与して後醍醐天皇のため討死した。その後を継いだ菊池武光、武政もまた南朝方として九州数ヶ国の支配にまで及んだが、南北朝おん和睦の頃には菊池の武威も衰えた。当時、将軍足利義満公おんみずから数万の精兵を率いて菊池武政征伐に九州へ向かわれ、武政はしばしの間防戦したが降伏、義満公の寛大なるお心配りによって肥後半国を賜ったのだ。それなのにしつこく野心を抱いた。さらには同類の武士どもまで将軍家に従わぬことが多くなった。されど、その武政も身まかり、やがて嫡男武朝が討死した後は一族離散し、菊池家もいまや断絶している。思うに、こたびの謀叛を起こした菊池武俊とやらは武政の孫であり、武朝の子であろう。いまさら菊池が廃城に籠もろうと恐るるに足らぬが、肥後の武士をかき集めて多勢となっては大事に至らないとも限るまい。小火のうちに討手をつかわし、速やかに誅伐すべきだ」

 語りながら畠山卜山は、いまや飛ぶ鳥を落とす勢いの大内義興の表情を窺った。もはや卜山は幕府中枢での出世を望みはしなかった。長年にわたって義稙を支え、今度の将軍再任に人生を賭けて尽くしたのに、大内義興にすべてかっさらわれたのだから。

 媚びるような畠山の視線を受けつつ、大内義興は口を開いた。

「畠山入道はよいことを言われた。これは去年の冬のことだが、御所へ侵入した盗賊を、我が君おんみずからお斬り伏せになった事件があった。その際、我が君も九ヶ所の手傷を負われた。幸いにして平癒なさったが、いま思えば、かの賊も菊池武俊の刺客であったのやもしれぬ。こうなっては征伐は早々に行わねばならぬのはむろんのこと。まずは、大将にふさわしき者を選ばねばなりますまいな」

 諸老みなが義興に注視していた。異論などなかった。彼らには、将軍義稙がどう決するか最初から分かっていた。

管領代は中国七州の大大名である。武勇に優れ、武略も備わっている。奸賊追討の総大将として、彼を置いてだれが相応しかろう。管領代よ。政務で忙しかろうが、早々に周防へ帰り大軍を揃えよ。阿蘇の孤城を攻め落として武俊の首を獲って参れ。ひとえに頼むぞ」

 こうして将軍直々の命を受け、大内義興は三千余騎の手勢を連れて京の都を出発した。

 

 同月下旬。

 大内義興は、周防国吉敷郡山口城に帰着した。さっそく九州諸国に対し、征伐軍への参集を命じた。大友備前守親春、太宰新少貳教頼に加え、原田、山鹿、宇佐、千手、宗像、酒殿、立石ら、九州北部の小大名がその催促に応じた。

 幕府軍は五万余騎にまで膨れ上がり、一挙に肥後国へと押し寄せたのだ。

 --阿蘇山

 噴火の煙がもうもうと立ち上る火山が間近に迫り、義興は情勢を探るべく忍びを放った。

 戻った忍びが告げるには、「古城にたてこもった賊徒は一千余りございます。菊池武俊に幕軍を恐れる気配はなく、一矢で敵を射抜かんとばかりに防戦の用意に努めておりました」

「なんと異様な」義興は嘲笑った。「この大軍を前に賊徒どもは捨て鉢になったか」

 菊池武俊がどれほどの武勇を誇ろうと、一千余りの小勢にすぎなかった。その上、烏合の衆ときては、幕府の精兵数万相手に勝ち目のあろうはずもなかった。賊軍が勢いづく前に、数に任せて山の三方から攻め上ればたやすく踏み潰せるだろう。

 義興は将らに言った。「長旅の疲れを癒せ。今夜はここで人馬を休ませる」

 阿蘇沼のほとりにある霊蛇を祀った神社が、幕軍の本陣だった。将たちが散開していくなか、ひとりの武士が居残って、

「殿。この地での陣営、どうかお考え直しくだされ」辺りをはばかるような囁き声で義興を諌める。「この神社は菊池武光によって建立され、厳島の神が合わせて祀られております。筑紫でその霊験を知らぬ者はございません」

 この男は、安芸国高田郡多治比村の住人、大江備中介弘元であった。源頼朝の代、鎌倉幕府の政所別当だった前陸奥大江広元の末裔ではあるが、彼自身はわずか一千貫の郷士にすぎなかった。

 弘元は、厳島神社に祀られた弁才天を深く信仰していた。同じ弁才天を祀る阿蘇沼の霊蛇神社を戦禍に晒すわけにはいかないと、阿蘇沼神社の始まりを義興へ説き始めた。

 

 昔、菊池武光阿蘇山に城を築こうとしたときでした。硫黄燃え出る阿蘇山では絶えず煙が吹き上がり、建築中の城郭は必ず焼け崩れました。武光は、築城に成功した者には好きに褒美を与えると、村々まで広く知恵を募りました。

 肥後国山鹿郡木山村に、浮木という名の老女がいました。生まれ故郷は安芸広島で、宮島の弁才天を熱心に信仰していました。夫と独り子に先立たれた後、女はわずかな縁を頼ってこの肥後を訪れたのです。そして、人の着物の洗濯などして生計を立てていました。

 ある日、浮木は洗濯に出た木山川の河原で、大きな卵を見付けました。これは珍しい、そう思って持ち帰り、綿を敷いた苧桶に収めていますと、卵は自然と割れ、なかから赤子が生まれました。浮木は驚きましたが、その赤子を憐れんで、ともかくも大事に育てました。驚くことに、赤子はわずか半年で七、八歳の童子よりも大きうなりました。噂が広まり大勢が見にきましたが、浮木はかような野次馬を気にもせず、ただただ子供を愛情深く育てました。その子には、玉五郎と名付けました。

 やがて玉五郎が言いました。「伝え聞くところでは、阿蘇山に城を建てれば菊池殿から褒美がもらえるそうですね。育ててもらった恩に報いたい。たくさん褒美をもらいましょう。豊かな老後をお過ごしください。殿様に城の縄張りを願い出てください。早く早く」

 菊池武光は訪れた老女を疑いましたが、玉五郎の怪談については聞き覚えがありました。そこで、「試しにやってみよ。成功すればむろん褒美をやろう」そう許可を出しました。

 帰宅した浮木が首尾を報告しますと、玉五郎はすぐさま言いました。「灰を袋に入れてください。それを持って阿蘇山へ行きます。急いで」

 玉五郎が浮木の腕を引いて行きますと、遠いはずの阿蘇山までなんと一日で着きました。玉五郎は浮木を背負い、楽々と高嶺までよじ登ります。それから噴煙を仰ぎ見て呪文を唱えますと、あやしむべし、それまで一日たりとて絶えることのなかった阿蘇山の噴火がたちまちにして消え失せ、煙さえ立たなくなったのです。

 玉五郎は浮木を振り返り、言いました。

「あなたは慈善の人だ。しかし前世からの報いで夫を失い、子を先立たせ、孤独な老女になられた。その因縁はようやく終わり、今後は安らかに過ごせるでしょう。それだけではありません。死後、あなたは神仏となって長く祀られることになります。ご存知なかったでしょうが、あなたは、寿永の頃この九州で名を馳せた尾形三郎惟義の末裔なのです。尾形は大蛇の子孫だったそうです。あなたが私を育んだのも、また弁才天を信仰したのも、実を言えば、同じ因縁からだったのです。さあ、親子の契りもこれまでです。今日をもって長いお別れとなります。どうか、私の本当の姿を見ても恐れないでください。私が通った後にその灰を降り敷いてゆけば、おのずと縄張りができます。城だけでなく、山と楢木野の間に広い沼を作って神様に捧げましょう。私はそのほとりに住みつきます」

 そう言って身を翻すと、玉五郎は八尋余りの白蛇に変化しました。巨大なその蛇体を伸び縮みさせながら山を這っていきます。浮木は息を静めると、玉五郎に言われたとおり蛇の通った後に灰を撒いてゆきました。蛇のぬめりでへばりついた灰は、地面に凝固したかのようで、まるで消えませんでした。

 城郭の縄張りが完成しますと、白蛇は浮木へ別れを告げる面持ちを見せ、雲を起こして麓へと飛び去りました。そのまま野の古井戸に飛び込み、周囲何十町が窪んでたちまち沼になったのです。深さを測ることは到底できませんでした。里人は、琵琶に似た形から琵琶の沼とも、また、阿蘇沼とも呼びました。

 菊池武光は浮木から縄張りの顛末を聞きますと、霊蛇の不思議に深く感じ入りました。やがて、縄張りどおりに城を築きました。神の祟りも噴火もありませんでした。武光は浮木に二十町の田畑と沙金千両を贈ろうとしましたが、浮木は金だけを受け取り、田畑は断りました。金は村長に預けて貧民に施させました。また道を作ったり橋を作ったりしました。三年ほどで金が尽き始めますと、浮木は眠るようにして亡くなりました。村長は里人と相談し、その亡骸を阿蘇沼のほとりに葬りました。遺された金で祠を建て、ここを浮木の弁天と称えたのです。

 菊池武光は、肥前、肥後、日向、大隅、薩摩の果てまで討ち従え、九州に武威を誇りました。霊蛇の擁護によるものだと武光は語りました。武光は阿蘇沼のほとりに神社を建立し、厳島弁才天を合祀して浮木の弁天を末社としました。子の武政の代まで続いた弁天社の祭礼は、阿蘇神社にも劣らぬほど壮観でしたが、武政の子や孫の頃には信仰は薄くなり、神社も修復されませんでした。菊池家が零落した頃から再び阿蘇山は噴火を始め、また旧のように煙が立ち昇るようになったのです。

 かような前例がありますのに、それでも霊蛇の神社を本陣になさいますか。雑兵の乱妨取りをお止めにもなりませんか。ご祈願なされとは申しません。せめて本陣を移してくだされ。神の憎しみを買えば、必ずや後悔なさることでしょう。

 

 大内義興はため息を吐いた。

「教養ある家柄に生まれ、文武の達者と言われる大江殿が、なんとも似合わぬことを言う。菊池が大蛇を崇めるのは愚民を惑わす奸計であろう。そもそも毒蛇は蟲の類。それを霊あるといい、神と祀るのは邪教だ。淫祠、邪教は民を害する。ゆえに、本来ならば壊さねばなるまい。それを壊さず本陣として用いるのだから、悪しき神にとっては幸運であったろう。備中介、今後かような妄言を言いふらして人を迷わすことは固く禁ずるぞ」

 そう鋭くたしなめられると、弘元には諌めようがなかった。すごすごと退くしかなかったが、弘元の心は鬱いだ。管領代が相手では逆らず、悔しい。しかしそれより、弘元もまたこの本陣に宿泊せねばならなかったのだ。

 

 その夜、日が暮れてから雨が降った。大雨になった。丑三つ頃、激しい風音が一帯に轟いた。阿蘇沼に集った水鳥の群れ飛ぶ音が騒がしかった。陣中に立てた無数の篝火が忽然と消えた。

 大きな物音がし、兵たちは一斉に目を覚ました。

「夜討ちだ!」

「者共、出よ! 防げ!」

 矢継ぎ早に叫び声が飛び交う。騎馬武者は鞭を振り上げ、馬へ向かった。士卒は矢を掻き集め、槍、薙刀を逆さに脇挟み、将に遅れじと陣門から外へ走り出た。

 が、敵はいなかった。

 そのとき彼らは、阿蘇沼の水が逆立っているのを目撃した。呆然と見ていると、その沼水が岸に向かって溢れかえり、高波となって彼らに襲いかかってきた。

 轟!

 と、巨大な音に耳を圧せられ、水音もろとも波に呑まれた。あっという間に大勢が溺死した。かろうじて水面に顔を出した者も弓矢を流し、槍を失った。後方にいた者たちは必死に丘へ逃げようとしたが、暗闇のせいで方角さえ分からなかった。

 総大将大内義興はじめ、大友、太宰その他の諸将は水厄からなんとか免れ、一里ばかり後方の小高い場所へと避難できた。夜が白んだとき、ようやく惨状が明らかになった。阿蘇沼がどこにあったのか、丘から眺望しても判然としなかった。吉田、楢木野から阿蘇山麓まで、一面、大きな湖になっていたのだ。

 陣幕はどこにもない。兵糧はことごとく出水に奪われた。このままでは飢え死にするだろう。義興は急遽近郷諸村に命じ、食糧を送らせた。阿蘇宮大宮司へも兵糧の催促を行った。

 水没した陣屋を見ながら、義興は身の震えが止まらなかった。

 ……いまこのとき菊池に攻め込まれたら我らはどうなる。なぜ沼の水が溢れたのだ? 洪水は霊蛇の祟りだというのか? ああ、山崩れが起きるかもしれない。城攻めを前にして大軍勢を失った。このままでは、義興は世間の物笑いとなるだろう。

 義興の気は逸ったが、その後二日間、なにもできなかった。三日目の夜になって、ようやく水が引いて元の陸地に戻った。義興はただちに先陣、後陣を再編成した。水害による大損失を敵に知られる前に、菊池の籠る阿蘇山古城を落とす他なかった。

 麓道から阿蘇山深くへ一気に攻め上った。どっと鬨を作った若武者たちは我先にと駆け出した。大手門と搦手門から同時に塀を越えた。城門を破った先陣が攻め入った。

 城内は、無人だ。

「……どうしたことか」

 兵たちは唖然として立ち尽くした。そのとき、地面が裂けるような振動に襲われた。なんだ、なんだ、と疑う暇もなく、いきなり足元から炎が噴き上がり、兵たちは焼かれた。

 空っぽの城を大叫喚が満たす。その悲鳴を覆うようになお轟々と猛火が立ち上る。ここは火山だ、硫黄の気が充満している。気体に燃え移り、大炎は際限なく燃え広がる。類焼する櫓の炎に囲まれて大内勢は城から逃げられなかった。攻め込んだ士卒四、五百人はどこへ逃げることもできず、ことごとく灰燼と化していった。

 大内義興は、阿蘇山城から七、八町離れた山路にいた。士卒を励まして進軍するその馬上で、前方の地獄絵図を目撃したのだ。轟音が耳をつんざき、赤々と広がる猛火に彼の世界は包まれた。

 なにが起きた? だが、義興に考える余裕すら与えられなかった。総崩れとなった前陣が雪崩を打って引き返してきたからだ。隊列が押し戻されると、退却を命じるだけで精一杯だった。麓まで退いてようやく、義興は息を吐いた。

 山火事はまだ収まらなかった。峰は鳴動を続けていた。古城は残らず燃え果てた。石垣すら焼け砕けた。立ち上る煙はいつまでも消えそうになかった。

 山麓阿蘇谷に陣営すると、雑兵が自棄になったようにあちこちで声を上げた。

「武俊が空城に地雷火を残したのだ。矛さえ交えず我らを殺したこの計略、死せる孔明生ける仲達を走らす、の例えどおりではないか!」

 

 義興は鬱いでいた。取り返しのつかない失態を犯した。菊池残党の征討など赤子の手をひねるようなものだったはずだ。なんの手柄もなくおめおめと退却した上、討伐すべき敵をさえ見失った。

 義興は手近な兵を連れ、阿蘇宮司屋敷へ向かった。大宮司はうやうやしく出迎え、茶や菓子でもてなし旅の疲れを慰めた。

 心安くなった義興は、つい弱気を口にした。

「水と火の予期せぬ大禍に遭うて多くの士卒を喪うた。空城の猛火は武俊の地雷火による策略であろうが、沼の出水はいまもって理解できぬ」

 大宮司は首を傾げ、「当家は遠祖より当社に仕え、長く旧記を相伝しておりますが、沼水が湧いて人馬を損なったという記録はございません。また、古城が燃えたのは地雷火によるものでなく、自然の硫黄火の焼き抜けではありますまいか。阿蘇山の噴火は、古くから同一の場所で起こってきたのではございません。近頃は法性崎と北と中の岬稜から間断なく煙が昇っていました。不入の神山の煙が一旦絶えたとき、菊池武光殿が城郭を築かれましたが、いままた硫黄火が燃え出しその城を焼いたのも神の御業でございましょう。測りがたいことです。ともあれ、南北両統合一に至ってなお戦はやみませぬ。むしろ戦費は増す一方で、当神社の数万貫の神田までも横領され、社が崩れても修復費用がないのです。神威いまも衰えず、登山者に賞罰あり。管領様は刃を血に染めずに逆賊武俊を逐い果たされました。城も焼かれたとあれば、神慮に叶うたことでしょう。あなた様は武功を挙げられたのです」

 そう慰められ、義興は頼もしい心地になり、阿蘇神社に参詣して白銀幾枚かを奉ってから阿蘇谷の陣屋へ戻った。陣に戻ると、被害状況も大方判明していた。溺死者だけで一千余騎。焼死者も少なくなかった。だが、水と火による死者は士卒のみで、将の犠牲はなかった。

 いや、ひとりだけあった。

 大江備中介弘元が行方不明だった。