十三時の鐘は何回鳴ったのか?:ジョージ・オーウェル『一九八四年』雑考

 ジョージ・オーウェルの名作『一九八四年』は、以下の有名な文章によって始まる。

四月の晴れた寒い日だった。時計が十三時を打っている。(高橋和久訳)

 原文はこう。

It was a bright cold day in April, and the clocks were striking thirteen.

 『白鯨』や『高慢と偏見』などと並んで、印象的な小説の書き出しの例としてよく挙げられる。(ちなみに『白鯨』の ”Call me Ishmael” をそのまま書き出しに援用したアラスター・グレイの小説もある(『ほら話とほんとうの話、ほんの十ほど』高橋和久訳))

 この書き出しの特徴はどこかと言うと、「四月の晴れた寒い日」ではなく、「時計が十三時を打っている」ところだろう。この一文はハイコンテクストなので、ここだけ抜き取ってみても意味が分からない。英語の慣用句というか、諺が下地になっている。そして、それを踏まえることで『一九八四年』という小説の描く管理社会の奇怪さや矛盾が開幕早々(しかも鐘の音によって)読者の眼前に展開することになる。

 だれもが知るように、時計の鐘が十三回鳴ることはない。時計は十二進法なので、十二時がくれば一巡し、十三時に鳴る鐘の音は一回である。それが通常だ。

 『一九八四年』は SF であり未来の話だから、ここでは十三時に十三回鐘が鳴るという設定なんだろうとあっさり受け取ってしまうと、その後の物語全てを見誤ることになりかねない。

 十三回の時計の鐘は、本来ならば起こり得ない異常事態だという前提をもって読まなければならないだろう。そうでなければ、小説内で起きる出来事は我々の現実と地続きであり、我々の世界でも起こり得るという恐怖から目をそらすことにもなるだろう。

 鳴るはずのない十三回目の時計の鐘が鳴っていた。

 それが、Thirteen strikes of the clock という英語の諺を参照して書かれたこの文章である。その意味は、「時計が十三回目の鐘を打てば、それ以前の十二回までの鐘、つまり時間そのものへの信頼性に疑いが湧く」ということ。つまり、ひとつでも誤りが出てくると、そこに至るまでのすべての発言、行動、出来事一切を信用することはできない、という意味だ。

 ここを「十三時の鐘が鳴っていた」と読むと、つい見落としてしまいかねない。以前なにかの本で読んだ覚えがあるが、『一九八四年』をイタリア語かスペイン語かに翻訳する際、翻訳者が、時計の鐘が十三回鳴ることはあり得ないから作者オーウェルが書き間違えたのだろうと「誤読」し、午後一時の鐘と「誤訳」したそうだ。どこで読んだか忘れてしまったが、この誤読、誤訳のどこがどう誤りなのか説明はなかったように思う。指摘した人(および想定された読者)にとっては常識だったのだろう。

 個人的には、ここの一文は「十三時を打っている」ではなく、「時計の鐘が十三回鳴っていた」とはっきり書いたほうがいいように思う(さらに言えば、clocks と複数形なのでいま鳴っているこの鐘だけでなく、いつもそうだという状況も示されている)。その一方で、この部分で読者が「あれ?」と思わないことが重要なのも分からないではないのだが(これは後述する)。

 

 この「十三回鳴る時計の鐘」の奇怪さを描いた有名な小説には、エドガー・アラン・ポオの短編「鐘楼の悪魔」がある。こちらはそれが主題になっているのでより分かりやすいだろう。

 「鐘楼の悪魔」の冒頭には、こんな詞書がついている。

 What o’clock is it ? ――Old Saying

 人を食ったような文章だ。”What o’clock is it ?” は “What time is it ?” の古風な言い回し(old saying)だが、後にくっついている old saying は古い諺の意味でもあって、その場合は「何時ですか?」が古い諺(old saying)なのではなくて、時計にまつわるこの短編の主題である「十三回鳴る時計の鐘」が古い諺なんですよ、という暗示である。

 この短編は、ポオがいくつも書き残したのに文学史的に無視されてきた(と坂口安吾が嘆いている)ファルスのひとつで、時計とキャベツにしか興味がない住人たちが暮らす小さな町を舞台にした軽い読み物だ。軽いのだが、これまた管理社会が舞台である。

 住人たちは町の正確な時計を誇りにしている。町のシンボルでもある時計塔は町のどこからでも見え、彼らは定時ごとに鳴る鐘の音を聞きながら自分の時計を確認する。住人たちは町の外へ出ることはない。だが、あるとき外から人がやってきた。その見知らぬ何者かは町を練り歩き、そして時計塔に忍び込んだと思うや鐘楼守りを殴って占拠してしまう。住人たちはその様子を地上から眺めていたが、いまにも時刻が十二時になろうとしていた。すぐに時計の鐘が打ち始め、だれも手の施しようがなかった。なぜなら、みんな時計の鐘の音を数えなければならなかったからだ。ワン、ツー、スリー、と数えるうちに十二回目が鳴って一安心。が、その後にもう一回鐘が鳴った。十三回目だ。なんでなんで? いまは十二時だと思っていたのに十三時なのか? と住人たちはパニックを起こす。町中の時計が十三回鐘を鳴らし始めて、たちまち町の正確な時間と秩序はすっかり失われてしまった。

 これは、Thirteen strikes of the clock の症例として描かれているので、『一九八四年』と合わせて読むと面白い。

 「鐘楼の悪魔」を踏まえてあえて言えば、十三回鐘が鳴ったからといって、その時刻が十三時だとは限らないのだ。この古い言い回しは、ある異常が生じることで正確な時間そのものが分からなくなることに主眼が置かれている。

 

 さて、時間とは権力の要であり、象徴でもある。

 『一九八四年』の社会で言えば、例えばビッグブラザーによる管理によって、時計が十三回目の鐘を鳴らすことは、もちろんあり得るだろう。だが、冒頭に置かれたこの一文は、権力の恐怖を示すためにあるものではない。時計が十三回目の鐘を打ったとき、それまで信じてきた時間そのものが疑われる。ひとつでも重大な間違いがあれば、すべてが信用できない。異常事態とはそういうもので、だから「鐘楼の悪魔」では鐘が十三回鳴っただけで町全体がパニックに陥る。しかし、『一九八四年』では、住民たちは十三回目の鐘の音を聞いているにもかかわらず、なにを疑うこともなくそれぞれの生活を送っている。

 これは十三回目の鐘が日常的に鳴っている社会なのだ。だれひとりその社会の異常さに気が付かないことが(ことによると読者さえが鐘の音を読み落としてしまうことが)、オーウェルの描いた『一九八四年』という恐るべき世界の正体なのである。

 はたして、僕らがいま生きているこの国の状況はどうだろうか。

 僕らはいつの間にか十三回目の鐘の音に慣れてしまってはいないだろうか?