『南総里見八犬伝』第九輯中帙附言 現代語訳(稗史七法則)

南総里見八犬伝』は、文化十一年(1814)の春、平林堂(弓張月の版元)から出版しようと第一輯の企画を起こした。しかし、すでに平林堂主人は七十歳の老齢、長編の刊行を果たしきるには心許ないと、版元仲間の山青堂に譲りたいと申し出られた。私はその意を汲み、五巻の原稿を山青堂に渡した。同年の冬、八犬伝は初めて世に出ることになる。

 文化十三年(1816)の正月、第二輯五巻を刊行した。世評はいよいよ高まり、読者が続きを待ちわびること一日千秋の思いだったそうだ。その後、山青堂が欲を出して他事に耽っていたようで、刊行をなおざりにする期間があった。

 第三輯五巻は文政二年(1819)正月に、第四輯四巻は文政三年(1820)十二月に発行し、第五輯六巻は文政六年(1823)正月に売り出された。第一輯の刊行から十年がすぎていた。読者諸氏は続きの刊行を手揉みして待ちわびただろう。私は期待に応えようとしたのだが、版元の経営がいい加減で、稼ぎを他へ回したせいで元手が続かなくなり、五輯までの版を涌泉堂に売却したから、第六輯以降は版元が替わったのだ。

 そんな次第で、第六輯五巻(第五巻が上下に分かれたので全六巻となる)は、文政十年(1827)正月、涌泉堂が刊行した。第五輯の発売から数えて五年間、発刊が止まっていた。

 同年十一月には第七輯七巻分の原稿ができていたが、涌泉堂もまた金回りが悪くなった。文政十二年(1829)十月二十九日に発売された上帙四巻が、文溪堂の資金援助のお蔭だとは、当時、私は知らなかった。下帙三巻は、文政十三年(1830)正月になんとか出版された。涌泉堂は仕事ぶりがいい加減で、これは最初からのことだが、校閲を作者に頼むことをしないから本文に間違いが多かった。その上、第七輯刊行に関わる資金繰りの問題などの報告もなかったので、私も黙っていられずにあれこれ咎めたのだ。永壽堂や文溪堂といった版元仲間が、涌泉堂のために詫び状を持ってきたりするから、私もそれ以上は言わなかった。涌泉堂は今後の刊行はできないと、第一輯から第七輯までの版を売りに出したようだ。大坂のなんとかという版元が買ったと聞いている。

 さて、第八輯以降は文溪堂が版権を買った。八犬伝新旧の版権は、江戸と大坂でバラバラに持つことになったのだ。第五輯以降、版元が替わること四名。本編は終わらないのに版だけがバラバラになり、七輯までの本は、私の知らない版元が管理している現状は、思えばおかしなものだ。識者はこの事情を知って眉をひそめ、江戸の花を失ったと嘆いているとも聞く。幸いなことに、第八輯以降は江戸の文溪堂の所蔵となったから、作者の目の前で本を作るようなものだ。まあ、世の中なべてそんなものだろう。この本の運命に限ったことではない。有為転変速やかなるを思えばよろしい。

 こうして、第八輯は江戸の文溪堂が刊行した。天保三年(1832)五月二十日に、上帙五巻(第四巻が上下巻で全五巻である)を発売し、下帙五巻(第八巻が上下巻だ)は天保四年正月に続刊した。第九輯上帙六巻は、今年天保六年(1835)二月二十日に発売した。中帙七巻は、これ。また、下帙七巻は来年の春か、遅くとも秋冬の頃までには必ず刊行し、これで大団円にしたいと欲する。そんなわけで、六輯以下の分巻は六十八巻百二十八回にして、ついに完成である。これほど長大な物語本は、私もこの八犬伝以外見たことがない。もし天が作者の筆のすさみを助けてくれなかったら、二十余年の長い間、飽きることなく書き続けることも、話の終わりを世の人々に見せることも難しかっただろう。命あり、時ありて、ついに終わりは目の前である。なんと喜ばしいことか。めでたいことよ。作家冥利にかなうと思うのは、差し出がましいふるまいかな。

 八犬伝は、第五輯まで一帙五巻を一輯としている。第五輯が六巻組になったのは、第四輯の足りない部分を補ったからだ。第六輯からは涌泉堂らの頼みに応じ、六巻または七巻を一輯とした。第八輯では、文溪堂の求めにより、十巻を二帙にして一輯とした。第九輯はますます巻数が増え、二十巻を三つに分けて上帙、中帙、下帙とした。これら全てを第五輯までのように五巻ごとにまとめていけば、十三、四輯にもなっただろう。九輯に縮めたのは文溪堂の好みではあったが、いま思うと、これでよかったかもしれない。八は陰数の終わりだ。陰数としては八の下に十があるが、十は一に通じるから終わりとはしない。そして、九は陽数の終わりだ。八犬英士全伝を九輯で結ぶのは、収まりがよいだろう。

 私はかつて中国の稗史小説を見たとき思ったのだが、大作を創る上でのやり方とは言え、水滸伝は百八個の豪傑を扱い、人数が極めて多いために、史進魯智深楊志、武松など始めのほうは大活躍する豪傑が、梁山泊に入ってからは目立たなくなる。軍陣に臨んでも、いてもいなくても同じような扱いなのだ。まして百八人に入らない者は、登場こそ描かれてもその後が語られない。立ち消えしない者は稀である。

 逆に、西遊記の主要人物は三蔵法師孫悟空猪八戒沙悟浄の四人のみと少ない。そのせいか、同じような話が多い。これは水滸伝でもそうで、長物語になるほどついつい挿話が重複するのは、長年筆をとり、書き続ける苦しみを味わった私としては、まあ仕方なかろうとも思う。

 おこがましい言い方だが、八犬伝はそうならないよう、始めから念入りに準備した。水滸伝の百八人から百人を除いて八犬士とし、これに八犬女(※後述)を加え、さらに里見父子とヽ大を加えて十九人。これを主人公とする。人数は多くなく、少なくもない。水滸伝の多さと西遊記の少なさが犯した過ちの轍は踏まない。他にも忠臣義士は言うまでもなく、脇役たちさえ登場から退場まで描ききり、途中で立ち消えする者は一人もない。読者が落ち着いて最後まで読めば、作者の意図を知ることができるだろう。

 

 中国の元、明の時代に才子たちが作った稗史小説には、自然と法則が顕れている。法則とは、①主客 ②伏線 ③襯染 ④照応 ⑤反対 ⑥省筆 ⑦隠微 である。

 主客は、能楽にいうシテ、ワキのようなものだ。ひとつの物語には、ひとつの主客がある。また、一回ごとに主客があり、主が客になることも、客が主になることもある。将棋の駒のようなものだ。敵の駒を取ればその駒で相手を攻められる。我が駒を失えば、自分の駒だったそれに苦しめられる。変化するのに限りはない。これが主客の概略である。

 伏線と襯染は、似ているが同じではない。伏線は、後に必ず出すべき出来事などがある場合に、数回以前にちょっと墨打ちして置くことである。襯染は下染めであり、仕込みだ。後に大きな主眼となるものを、その妙を際立たせるために数回前から、その起こりや来歴を仕込んでおくことである。金聖嘆が水滸伝の標注に記した「縇染として」は襯染と同じで、ともに「したそめ」と読めばよい。

 照応は、照対ともいう。例えば、律詩に対句があるように、あれとこれとを照らし合い、出来事や人物を対にすることをいう。この照対は重複に似ているが、必ずしも同じではない。重複は作者が誤って前の趣向と似たのを、後になって繰り返すことをいう。これに対して照対は、わざと前の趣向の対をとって、あれとこれとを参照させる。例えば、八犬伝第九十回で船虫、媼内が牛の角で殺されるのは、第七十四回、北越二十村の闘牛の照対である。

 また、第八十四回で犬飼現八が千住川の繋ぎ船で組み打ちするのは、第三十一回に犬塚信乃が芳流閣上で組み打ちすることの反対である。反対は、照対に似ているが同じではない。例えば、牛を使って牛の対とするのが照対だ。物は同じだが、事が同じではない。反対は、人は同じだが、事が同じではない。信乃の組み打ちは芳流閣上で行われ、閣下に繋ぎ船がある。千住川の組み打ちは船中のことで、楼閣はない。さらに前者では、現八が信乃を搦め捕ろうと欲し、後者は信乃と道節が現八を捕らえようとする。その場の様子や景色が大きく異なる。これを反対という。事はあれとこれと互いに反し、勝手に対をなす。八犬伝ではこの対が多いので、数え上げてはきりがない。これを基に確認してほしい。

 省筆は、長々しい出来事の内容を、後で同じように繰り返して書かないための工夫だ。必ず聞ける立場にいる人物に立ち聞きさせることで筆を省く。あるいは、地の文を使わず、その人物の口で説明させる。作者の筆を省くことで、読者を飽きさせないようにするのだ。

 隠微は、作者が書かなかった文外に深意を置く。百年後の読者が現れるのを待ち、悟らしめるための仕掛けだ。水滸伝には、この隠微が多い。李卓吾や金聖嘆による注釈を例に挙げれば、十分だろう。中国の文人才子に水滸伝を弄ぶ者は多いが、十分に理解して詳しく隠微を明らかにした者はない。

 隠微こそ悟りがたいが、そもそもこれらの法則すら知らずに物を書く者もいるだろう。私も十分とは言わないが、八犬伝は七法則に従うところは多い。八犬伝だけでなく、美少年録、侠客伝、他も全て同じ法則が使われている。読者は分かっているだろうか。子夏曰く、小道といえども見るべきものあり。しっかり終わりを見据えて語らねば道に迷うだろう。語りとは困難な道である。

 これらのことは友人の評に対して折々答えてきたことだが、読者のために改めて記した。

(後略)

 

※ 八犬女については、第九十一回(第八輯第八巻下)に作者の注釈がある。

信乃・荘介、道節・現八、小文吾、大角、毛野、この七犬士の列伝は、すでにその趣を尽くしたり。ひとり犬江親兵衛のみ、いまだその義勇を創するに由なかりき。こは第四輯に出世の時、四歳の童なればなり。第九輯は犬江のために、立る脚色少なからず。また七烈女(浜路、沼藺、妙真、音音、曳手、単節、雛衣。伏姫と共に八犬女とす)の皆薄命なりしことの由、また八犬士の身の痣の、形牡丹花に似たるよしも、第九輯に到て分解せん。 

 

南総里見八犬伝 結城合戦始末

南総里見八犬伝 結城合戦始末

南総里見八犬伝 2 犬士と非犬士

南総里見八犬伝 2 犬士と非犬士

 

八犬伝覚書 万葉集と沼藺(ぬい)

 八犬伝を読むとき、行徳の段はちょっとした難関になりそうだ。言葉が難しかったり、人間関係が複雑だったりするからではない。八犬伝の特長である、入念に敷かれた伏線回収の見事さには舌を巻く。ストーリーは目まぐるしく動き、読んでいて飽きることはない。ただ、その展開に納得するのが難しい。

 歌舞伎や浮世絵では名場面に数えられるエピソードで、室内という限られた空間での大立ち回りが視覚的に映えるのだろう。だが、物語としては、やや強引な展開に置いてけぼりを食わされ、「いや、そうはならんだろう!」と、しばしばツッコミを入れたくなる。

 山林房八があまり語られないのも、人物造形に難があるからでなく、話の筋が嫌われているのではないか、と要らぬ心配をしてしまうが、これが妻の沼藺のほうとなると、ぐっと影が薄くなり、語られているのをほとんど見ない。沼藺は、悲劇のヒロインだ。言わば、浜路と同格なのに、どうにも読者の記憶に残らず、なんのために登場したのか訝しく思われる向きさえあるかもしれない。

 もちろん物語上の役割はある。むしろ、だからこそ納得できないのではないか。八犬伝批判の常套句とも言える「ご都合主義」や「人間を書いていない」は、主にこの行徳編を読んで言われているのではないかとも思う。

 果たして、沼藺とは何者なのだろうか。 

 まず、名前が奇妙だ。「ぬい」の音が先にあって字を宛てたとしても、若い女性に似合う字ではない。まっすぐ考えれば「縫」でよいが、「白縫」と連想されるのを嫌ったか(当時なら、弓張月の印象は強いだろう)。沼と藺草という取り合わせは、行徳編巻頭に置かれた入江の葦原を思わせ、鬱蒼として雰囲気が暗い。彼女の両親は、家の前に広がるこの入江を見て名付けたのかもしれないが。

 人間関係を整理しておくと、この編の中心人物である犬田小文吾と山林房八は、それぞれが地元の若衆をまとめる親分格だ。行徳、市川という地元を背負って登場する。小文吾と沼藺が兄妹で、房八と沼藺が夫婦だ。夫婦の間には幼子がいる。いがみ合っている小文吾と房八は、義理の兄弟に当たる。

 「土地」に注目すれば、舞台は行徳、市川で、古河と鎌倉から流れ者が介入してくる図式である。その背景に安房国が広がる。ここで、あまり語られることがないが、実はもうひとつ、地名が現れている。

 真間だ。

 父親を役人に連行された小文吾は、救い出すために知恵を絞っている。そこへ市川の房八へ嫁いだ沼藺が、房八の母、つまり姑の妙真と連れ立って、夜の行徳を訪問する。房八から離縁され、実家へ送り返されてきたのだ。それどころではない小文吾は、とりあえず沼藺を市川へ帰そうとする。その言い訳として、数日の間、父親が留守だと告げる。

「否、親父は人に誘われて、真間へいゆきていまだ還らず。婢児どもは薮入りしつ、奥には止宿の修験者のみ。折のわろくて人気なく、もてなしぶりの疎さよ(後略)」

 小文吾は、父は真間へ出かけて不在だと妙真に告げる。もちろん嘘だ。この真間は市川の北にある。行徳から見ると、市川を挟んだ先だ。つまり、行徳よりも市川のほうが真間に近い。であれば、「真間にいるなら、帰りに市川へ寄ってもらおうか」とか「私が真間へ出向いて話をつけよう」とか、妙真が言い出す恐れは大いにあるだろう。問われなかったからよかったものの、 とっさに吐いたこの嘘はあまり上手ではない。地名を口にするのなら、市川方面でないほうが無難だっただろう。

 問題は、このとき唐突に、脈絡もなく「真間」という地名が現れることだ。ここが初出で、その後、行徳編では出てこない。そのせいで、真間という地名がひときわ目立っている。読者はそのイメージに引っ張られるだろう。そして、真間のイメージというなら、それはひとつに収斂してゆく。

 

万葉集巻三所収の山部赤人の歌。

 勝鹿の眞間娘子の墓を過ぎし時、山部宿禰赤人の作れる歌一首并に短歌

古に 在りけむ人の しつはたの 帶解き交へて 伏屋立て 妻問しけむ 葛飾の 眞間の手兒名が 奥津城を こことは聞けど 真木の葉や 茂くあるらむ 松が根や 遠く久しき 言のみも 名のみも吾は 忘らえなくに (431)

 反歌

吾も見つ人にも告げむ葛飾の眞間の手兒名が奥津城處 (432)

葛飾の眞間の入江にうちなびく玉藻刈りけむ手兒名し思ほゆ (433) 

万葉集巻九挽歌所収の高橋虫麻呂の歌。

 勝鹿の眞間娘子を詠める歌一首并に短歌

鶏が鳴く 吾妻の國に 古に ありける事と 今までに 絶えず言ひ来る 葛飾の 眞間の手兒奈が 麻衣に 青衿著け 直さ麻を 裳には織り著て 髪だにも 掻きはけづらず 履をだに はかず行けども 錦綾の 中につつめる 齋兒も 妹に如かめや 望月の 満れる面わに 花のごと 咲みて立てれば 夏蟲の 火に入るがごと 水門入に 船こぐごとく 行きかぐれ 人のいふ時 いくばくも 生けらじものを 何すとか 身をたなしりて波の戸の 騒ぐみなとの 奥津城に 妹が臥せる 遠き代に ありける事を 昨日しも 見けむがごとも 思ほゆるかも (1807)

 反歌

葛飾の眞間の井見れば立ち平し水汲ましけむ手兒奈し思ほゆ (1808)

万葉集巻十四東歌より下総國の歌。

葛飾の眞間の手兒奈をまことかも吾に寄すとふ眞間の手兒奈を (3384)

葛飾の眞間の手兒奈がありしかば眞間のおすひに波もとどろに (3385)

 すべて、同じ女性を詠っている。手児奈という名の、若く美しい乙女の歌である。

 下総国葛飾郡真間は低地で、入江には葦や菖蒲が鬱蒼と茂っている。井戸水にも塩気が混じってろくに飲めない。ひとつだけ、きれいな水の湧く井戸がある。だから村人はみな、同じ井戸で水を汲んでいた。そんななか、水汲みに訪れる美しい娘がみなの目を惹く。青い衿の粗末な麻衣、髪もとかさず、履き物もないのに、満月のように輝くその顔は着飾ったどんな姫様よりも美しいのだ。

 その娘、手児奈の噂はたちまち広まった。花のように笑う彼女の許へ、夏蟲が火に集るように、港に船が押し寄せるように男たちは群がり、求婚するようになった。やがて男たちは手児奈のために争うようになる。

 全ての求婚を断っても、争いはやまなかった。手児奈は心苦しくてたまらなかった。「私の心はいくらでも分けられます。でも、この身はひとつしかありません。私が誰かと結婚すれば、他の人が嘆き、苦しむでしょう」

 悩み苦しんだ末、手児奈は自分さえいなければよいのだと思い、争いを止めるために入江へ飛び込んで命を絶つ。それを知った男たちは争いをやめ、深く悔いた。手児奈の亡骸は、あの井戸の近くに懇ろに葬られた。

 

 真間の手児奈がイメージされている場に、沼藺は登場してくる。その場面には、古代から脈々と語り継がれてきた東国説話のエートスが忍び入っている。

 さて、なかなか沼藺と妙真を追い返せない小文吾は、その口実に、首を傾げざるを得ないようなおかしな理屈を持ち出す。

「(前略)親の家なりとて、返さるるとも離別の状なし。離別の状を添えられねば、これ私の逗留なり。たとい同胞なればとて、男女はその差あり。傍に人なき留守の家に、なおうら若き妹のみ、留めて明かさば瓜田の履、そは兄ながら後ろめたし。まげて今宵は将て還り、去り状もたして、また来ませ」

 このセリフに読者はつまずくだろう。要約すると、「離別状がなければ、よその妻を泊めることになる。兄妹と言っても男と女だ。二人きりの家に、うら若い妹を泊めて夜を明かせば、なにを疑われるか分かったものではない。一旦市川へ帰り、離別状を持って出直せ」

 言うまでもないが、十六歳で房八の元へ嫁ぐまで、小文吾、沼藺の兄妹はこの家でいっしょに暮らしていた。その妹が帰省し、兄がひとり留守番する家に宿泊したからと言って、だれがなにを疑うだろうか。追い返せなくて焦っているとしても、この言い訳はちょっと気持ち悪い。妹に欲情すると公言するようなもので、沼藺も妙真もやはり何も言わないが、普通に考えればドン引きだ。

 なぜ、小文吾はこんなことを言い出したのか。

 作者である馬琴は、行徳編のクライマックスを迎える前に、小文吾、房八、沼藺の三人の関係を想像の上で解体し、別の物語を埋め込もうとしているかのようだ。小文吾、房八、沼藺の関係を三角関係に擬えようとするが、むろん、それは不自然だ。小文吾と沼藺は兄妹であり、なんら情愛を抱くような描写もない。もちろん馬琴も、実際の小文吾と沼藺の間にそうした関係を持たせようとはしていない。そうでありながら、男二人女一人の三角関係に持ち込もうとするから違和感が生じ、それによって別の物語の地層が浮き上がってくる。表層に顕れているのは、決して三角関係にはなり得ない兄、妹、妹婿の三人だ。それなのに、ところどころに不自然な記述が散見される。

 例えば、沼藺はこう言う。

「ただ願わしきは二方の、心こころの和らぎて、胸騒がしき風雲の旧の峯上に収まらば、かきくらしつつ迷い来し、涙の雨はとく過ぎて、これより袖の乾きてん。わなみは打たれ、傷つけられ、いくその艱苦を受けるとも、恥も厭わじ、恨みもせじ(後略)」

 小文吾と房八に仲直りをしてほしいと言っているが、話題がずれている。もちろん沼藺は突然の離縁に動揺しきりなので、ピント外れな返答をしても不自然ではない。しかし、一方的に離縁を突きつけた夫と、実家に泊まることを拒んでくる兄に直面した状況で、物分かりがよすぎる。こういったところが無個性と見られる所以になるのだろう。

 だが、沼藺のこのセリフを手児奈の説話に重ねてみると、見え方が一変してくる。

 いわば、二つの物語を同じ登場人物が語っているようなものだ。見えている景色と語られる記述の乖離によって、隠された真間説話がチラチラと顔を見せるべく仕組まれている。……ようにさえ感じられる。

 行徳編は祭りの夜という非日常のハレから始まるせいか、登場人物のアイデンティティがどこかぼやけている。

 例えば、小文吾と房八が対立する発端となった代理相撲(そもそも「代理」なのだ)。このシーンで、惟喬、惟仁両親王皇位を争ったという故事が語られる。この蘊蓄が、実は示唆深い。少し脱線になるが、皇位を継いだ惟仁親王は後の清和天皇である。その清和天皇の子や孫が臣籍降下し、源氏を名乗る。これが武士の棟梁となる清和源氏である。八犬伝冒頭で縷々家系が語られるが、里見家もまた源氏の末裔だ。

 一方の惟喬親王には、奇妙な伝説がある。第一子でありながら皇位を継承できなかったこの親王は、杣人たちに木地師の技術を伝えたというのだ。木地師の祖として、山の民の崇拝を受けた。

 源氏(里見)と縁を持つ勝者と、山に縁のある敗者。小文吾と房八の代理相撲の背景に周到な伏線が敷かれている。

 代理相撲と言えば、国譲り神話にも挿話がある。大国主の子の建御名方神天孫方の建御雷神が争い、敗れた建御名方は諏訪の祭神となる。八犬伝は諏訪神話との関わりが深い。

 作中、小文吾と房八の争いは、複数の見地から何度も語り直される。①行徳と市川の争いに始まり、②鎌倉山伏の跡目相続を巡る代理相撲が語られ、③安房国で始まっていた争いが明らかにされてゆく。

 そこに深層のまま残っているのが、④遥か昔、真間で起きた男たちの争いとその和解のイメージ、手児奈の物語だ。

 なぜ、沼藺が登場するのか。なぜ、死なねばならないのか。それは、小文吾と房八の本当の和解が、作中では語られないこの深層の物語で果たされているからだ。

 語られることのない真間説話へ目を向けたとき、ようやく沼藺を巡る物語が立ち現れてくるだろう。沼藺がいなければ、小文吾と房八は和解に至ることはない。真間の手児奈の自死だけが、男たちの争いを終わらせるのだ。語られない物語は、語られる物語と同時に存在する。だから、沼藺が争いの場にいるのだ。

 最後にもう一度、沼藺の名前について。手児奈は真間の入江で入水自殺する。その物語を引きずっている「ぬい」は、沼藺の字を宛てられた。真間の入江は行徳以上に鬱蒼として暗い。沼藺が引きずる薄幸と暗さは、名前が影響しているだろう。

(余談だが、妙真といい真平といい、名前の「真」が目につく。平は通り字だろう。余談2、縫→白縫への連想を避けた理由として、白縫が筑紫の枕詞だからというのは穿ちすぎか。土地への想起がブレるのを嫌ったとしたら? 余談3、てこな→こなや?)

 現実の真間手児奈霊堂では、手児奈の児の字からの連想で安産講が組織され、お産の神様として祀られている。八犬伝の世界においては、沼藺の子もすくすくと育ち、やがて大活躍を見せるだろう。

 

南総里見八犬伝 2 犬士と非犬士

南総里見八犬伝 2 犬士と非犬士

 
古代史で楽しむ万葉集 (角川ソフィア文庫)

古代史で楽しむ万葉集 (角川ソフィア文庫)

 

八犬伝覚書 芳流閣のモデルを考えてみる

南総里見八犬伝』前半の山場に、芳流閣の決戦がある。犬士二人が互いの素性を知らずに戦う名場面である。芳流閣のない八犬伝は考えられない。

 足場の悪い屋根の上で互いの技倆を尽くして干戈を交える。その舞台である芳流閣を、馬琴は大げさなほど修飾して天高く聳え立った楼閣として描き出す。

 念のために付言すると、芳流閣は架空の建物である。物語の舞台である文明10年(1478年 戊戌)は、城郭に天守が建造され始める前の時代。

 芳流閣が奇観であることは、作中人物の反応からも明らかだが、馬琴は自慢の建物に信憑性を与えるべき考証を行わない。ともすれば当の芳流閣そっちのけに古今東西の楼閣に関する蘊蓄を述べ立てるよい機会なのに。例えば、村雨の紹介には古今の名刀をずらずらと並べた作者なのに。

 古今東西、建造物に関する蘊蓄はペダンティックの花形と言える。マニエリスムは百塔の街プラハで花開いた。法水麟太郎が読者を驚嘆させたりうんざりさせたりするのも奇抜な建物あればこそ。

 そもそも芳流閣は、文面からも挿絵からも近世城郭の天守にも寺院の塔にも似ていない。と言って、物見櫓というには巨大すぎるし、一個の独立した建物のようだ。よく分からないものが忽然と出てくるのだから、それが実在しても不思議でない根拠づけのために、類似の建物を幾つも例示することは理に適っているだろうに。 

 話の盛り上がるところだから水を差したくなかったのかもしれないし、特に理由はないかもしれないが、「チェスが謎であるとき、決して語られない言葉はチェスだ」とするなら、ここで蘊蓄を控えたのは芳流閣のモデルに言及したくなかったからではないか、と考えてみる。

 楼閣について語るとき、否が応にも触れざるを得ないメジャーな建物が芳流閣のモデルだから、語りを避けたのではないか。あらかじめ例示することで過度な印象がつかないように心がけたとしたならば、隠された建物はいったいなんだろうか。

 水辺の楼閣である。三層構造である。天守や寺院のようではない。挿絵からは中国風に見える。渺々たる水面の側に聳え立ち、川の向こう岸が描かれない。そんな楼閣の代表格と言えば?

 岳陽楼ではないか。

 池大雅が屏風にもした岳陽楼は、当時の日本でよく知られた建築物だっただろう。実物を見た人はいなくても、そのイメージはある程度共有されていた。 楼閣を構想したとき、馬琴の念頭に岳陽楼が浮かんでも突飛ではない。むしろ、楼閣から真っ先に連想するイメージだったのではないだろうか。

 広大な湖のほとりに建ち、長江を遠くに臨む岳陽楼は、芳流閣よりも規模の大きな高層楼閣だ。馬琴の時代には、水辺の楼閣=岳陽楼のイメージ連結は、言わずもがなだったのかもしれない。そして、そこから杜甫の「岳陽楼に登る」へは一直線に結びつく。芳流閣の場面に杜甫のこの詩はよく馴染む。

 昔聞く洞庭の水

 今上る岳陽楼

 呉楚を東南に拆け

 乾坤、日夜浮かぶ

 親朋、一字無く

 老病、孤舟有り

 戎馬は関山の北

 軒に憑りて涕泗流れる

洞庭湖は噂に違わぬ広大さ。ほとりに聳える岳陽楼に登る。呉楚二国を東と南に分けた湖に、昼夜となく天地が映り込んでいる。身内や友人から一通の手紙も届かない私は、老いと病を抱え、小舟ひとつあるだけ。山向こうでは戦が続く。高楼の手すりにもたれていると、涙がこぼれる。

  芳流閣=岳陽楼のイメージを背景に杜甫絶唱が響くとき、芳流閣を登ってゆく犬飼見八の心情と重なり合うだろう。

 

 ここに孤舟という語が現れる。例えば、王安石にも舟を詠った印象深い詩がある。(ちなみに、八犬伝第三十一回の章題は「水閣の扁舟」で始まる)

 散髪一扁舟

 夜長くして、眠りしばしば起く

 秋水、明河に潟ぎ

 迢迢たり、藕花の底

 此の露の的皪たるを愛し

 また雲の綺靡たるを憐れむ

 諒、ともに歌絃するものなけれども

 幽独も亦た喜ぶべし 

役人やめて小舟ひとつ。夜が長くなって私の眠りも浅い。秋の水が天の川へそそぎ込み、一面に広がる蓮の花の底にいるようだ。きらきらした露を愛し、きらびやかな雲をいとおしむ。確かに、ともに音楽を奏でる相手もいないけれど、独りでいるのも喜ばしいものだ。

 

 また、蘇東坡の孤舟を詠ったものとしては、

 清風、何者と定む

 愛すべし、名付くべからず

 至るところ君子のごとく

 草木、嘉声あり

 我が行、本、事もなし

 孤舟、斜横するに任す

 中流に自ら偃仰す

 適した風と相迎う

 杯を挙げて浩渺に属し

 此のふたつながら無情を楽しむ

 帰り来たる、両溪の間

 雲水、夜に自ずから明らかなり

さわやかな風 をどう呼ぼう。ただ慈しめばいいさ、名付けずとも。風はどこでも君子のようで、草木が言祝いでいる。仕事でもない、独り乗ったこの舟がどっちへ流れようと構やしない。流れのまにまに寝そべっていると、よい風が向かいから吹いてくる。杯を掲げ、大空へ手向けよう。空よ、君との間には好き嫌いさえ芽生えないのが楽しい。ふたつの谷の間を通って帰ってきた。雲と水が夜でもまだ見える明るい川を。

 

 この二つの舟の描き方は、俗世間を離れた人の、ともすれば仙境に耽るような楽しさがある。人生を全うした人の満ち足りた境涯が仄見え、孤独を楽しむ余裕がある。

 杜甫の「登岳陽楼」から窺えるのは、満ち足りた生ではない。とうてい仙境に入りそうにない人間臭さが残っている。老いや死とともに生きる苦しみ、人生への無念が綻び落ちる。そこでは孤独であることを嘆きつつ、しかし諦めてもいる。

 そんな姿が、葛藤と矛盾を抱えて芳流閣へ向かう犬飼見八の心情と二重写しになってくる。達観できない人間の弱さを解消できないまま、見八は死闘に臨んでゆくのだ。

 華々しい決戦の前提には、孤独なふたりが互いの宿命を知らずに死闘を演じねばならない切なさがある。

 彼らの孤舟がどこへ行き着くのかを考えると、なおさら感慨深い。

 

 

 

唐詩選〈上〉 (岩波文庫)

唐詩選〈上〉 (岩波文庫)

 
南総里見八犬伝 2 犬士と非犬士

南総里見八犬伝 2 犬士と非犬士

 

八犬伝覚書 百姓一揆との類似性

ゾイレは慎重に手を伸ばし、スロースロップの頭上からヘルメットを被せる。両側からケープを掛ける女たちの手つきも儀式めいている。(中略)

「これでよしと。実はな、ロケットマン、ちょっと聞いてほしいんだが、わしはいまちょっとしたトラブルに……」(佐藤良明訳)

 『重力の虹』(ピンチョン)の主人公スロースロップは、物語の中盤でロケットマンに変装して自分自身を見失ってゆく。

 正体を露見させないためロケットマンになりきったはずなのに、そのロケットマンがスロースロップをどんどん上書きしてゆく。とはいえ、そもそものスロースロップは「生まれて以来ずっと彼らの監視の視線を浴びてきた」。その末の変装、名付け行為、しかも偶然の産物にすぎないロケットマンに乗っ取られるようにして物語は加速する。

 ただの変装にすぎない。しかし、衣装になんらかの意味が付与しているなら、彼自身を劇的に変えてしまうことは(彼の精神性にかかわらず)あり得ることだ。

 百姓一揆が一味同心と結びつき、共同体としての抵抗を意味するようになった経緯は、勝俣鎮夫の名著『一揆』に詳しい。そこでは、江戸時代の百姓一揆の衣装として蓑笠が用いられた事例が詳述されている。蓑をまとい、笠を被ること。日常的で、手近な衣装に聞こえるが、この蓑と笠によって象徴された変装は、変相でもあった。外見を変えることによって、昨日までの自分とは違う自分としてそこに在る。

 隠れ蓑という言葉が、蓑の習俗をよく顕している(ちなみに『椿説弓張月』第十八回で、男の島=鬼ヶ島に昔あった宝物として隠れ蓑、隠れ笠が語られる。ネタ元は『保元物語』)。

 蓑をまとうことは素性を隠すことだ。正体を見えなくすることだ。なぜ見えないのかと言えば、そのときにはもう百姓ではなくなるからだ。蓑笠を着けることは百姓身分からの脱落を表し、物乞いや非人と同じように、我が身を社会の外に置く意思表示となる。蓑笠が百姓一揆で用いられる意味を、『一揆』ではこう語っている。

これらの「異形」となって一揆を結ぶことの意味として、幕藩制下の厳しい身分規定、領主ー被支配の関係をみずから破棄することを、無言のうちに、しかも強烈に示した行為と位置づけることができる。彼らは、「異形」になることを通して一時的にアウトローに変身し、幕藩制下の法的社会的秩序に反抗したのである。 

 蓑笠は常態ではなく、異形なのだ。

 

南総里見八犬伝』は江戸時代後期の読本である。作中に蓑笠が登場すれば、当時の読者は百姓一揆を連想しただろう。現代人が想像する以上に鮮烈なイメージ結合だったはずだ。

 概して、八犬伝の主人公たちはよく逃亡する。日本の文芸における逃亡の思想的背景を考察した『日本逃亡幻譚』(松田修)という面白い本があるが、いまは触れないことにする。

 さて冒頭、第一回に里見義実が落ち武者として登場する。逃げている場面から八犬伝は始まる。八犬伝の主軸のひとつは結城合戦の敗者を巡って展開する。その再興の物語だ。

 義実は結城から逃げる途中で宿を借り、その主に具足を与える。そこから先は「姿をやつし、笠ふかくし」て逃げ続け、三浦の入江に到着する。「蓑笠」とは書いていないが、姿をやつすのに適した恰好は蓑笠だ。その後、雨に見舞われてもいるので、義実は蓑を着ていると読者は想像するだろう(挿絵では、蓑を着て笠を被っている)。

 蓑と笠は、常人をこの世ならざる存在へと変容させる舞台装置だ。現世秩序から脱落すれば、その身を現世と幽世の狭間に置くことになる。義実が三浦の入江で龍を目撃するのも、理由のないことではない。道理の通った現世秩序の外側に身を置いたからこそ、不思議な現象に遭遇したのだ。そして、彼は秩序への回帰を果たすべく安房へ渡る。

 そのため、里見義実は現世秩序そのものである儒教に執着しなければならない。結城合戦に敗れ、室町幕府の支配体制から追放された里見家は秩序の外に置かれた。御家を再興するには、勝者以上に秩序の遵奉者たらざるを得ない。現に、義実が安房国守まで登り詰めたのは、敵対者と違って儒の教えを全うしたからだ。そうした背景があるから、愛娘を犬に嫁がせてでも秩序を全うせねばならなかった。この秩序(儒)は個を超えた世の理であり、「現世」の英雄となった義実には超えることのできない限界だった。

 義実は、安房一統までの知略無双の活躍が嘘のように、いつの間にか情けない当主になってしまう。その理由も明白だ。里見家を襲った玉梓の霊や八房は、現世秩序の外にあり、儒の理では解決できない種類のオカルトだったからだ。

 であれば、義実が用いた理とは別のパラダイムが必要になる。そこで娘の伏姫は、仏教(如是畜生発菩提心)や道教役行者)を取り入れることで、父が祓うことのできなかった玉梓の呪いを解消する。

 あるいは、伏姫説話を馬琴版『三教指帰』として読むことも可能だろう。伏姫の数珠の八文字が元に戻ったことから、物語は儒へと回復した。伏姫説話はそれ自体で完結しながら、長い物語の始まりに相応しい壮大さも兼ね備えている。ただし、ここで玉梓の呪いが絶たれなければ、八犬伝は始まらない。仏教、道教を通過することで、理外の理を含む、義実の世界よりひと回り大きな儒の道理が、物語の前提に配置される。義実から伏姫への世界の移行は、物語の秩序がダイナミックに変成した成果なのだ。

 

 次に蓑笠が現れるのは、死刑に処されようとする額蔵を三人の仲間が救出した後、その逃亡中のことだ。(第四十三回)

 こちらが本題である。

「返せや復せ」と呼かけたる、町進は真先に、水際に馬をのりすえて、鞭をあげつつ招けども、矠平は耳にかけず、舩底より蓑笠を、四ばかり取出して、四犬士にわたしていうよう、「折から逆風なれば、いかばかりに漕ぐとてもこの舩を、前面の岸へよせがたし。雨はようやくはれたれども、敵の箭をふせがんためなり。とくとくめされ候え」

 ここでは明確に「蓑笠」と記される。近代以降の小説の観点からすると、馬琴は説明しすぎる向きがあるが、それはともかく、雨はやんでいるのに蓑と笠を着る理由が丁寧に語られている。が、実のところ、理由はなんでもよい。

 この額蔵は、五逆の罪で刑死されるところだった。五逆とは、主君、父、母、祖父、祖母を殺すこと。額蔵は大塚村の荘官に仕える下人だ。荘官蟇六が殺される現場にたまたま遭遇し、犯人を殺したことで逮捕された。裁判の結果、荘官蟇六夫婦殺しの罪まで着せられ、処刑の名目は主殺し=蟇六殺しになった。それが冤罪だからこそ、犬士たちによる救出も正当化され得るのだが、しかし、物語世界においては、なおも五逆を背負った逃亡者である。ゆるがせにできない五常の徳目を犯した彼らは、現世秩序の紊乱者と看做されるだろう。主殺しの大罪を抱えて逃亡した罪人、その罪人を助けた者たちとして、以後、彼らは許されざる罪を背負うことになる。

 こうして社会から追放された彼らは、その途上で蓑笠を身にまとう。雨が上がった川の上、矢から身を守るという理由で。その舟には、あらかじめ四人分の蓑笠が用意されていた。

  伏姫説話に続き、第十五回からいわゆる「犬士列伝」が始まるが、犬塚信乃の誕生と成長や行徳村での災難は、さほど人智を超えた出来事を引き起こさない。妖怪変化の跋扈するおどろおどろしいバロック劇と思われがちな八犬伝だけに、思ったよりも大人しいと感じる人もいるかもしれない。

 その印象の相違はどこから生じるのか。

 伏姫が現世秩序の理の外で玉梓、八房の呪いと対峙したように、犬士たちも刑場から逃亡するこのとき、ようやく現世と幽世の曖昧な境界に立たされる。この川を渡ったところから、物語は違った貌を見せ、不可思議の色合いが加わってくる。つまり馬琴は用意周到に、リアリズムから反リアリズムの世界へ移してゆく地ならしを行っているのだ。そのために、一揆の装束である蓑笠を用いた。

 これは、里見義実の安房一統から伏姫説話への移行、すなわち、現世秩序から混沌へ移っていった過程の反復でもある。

 荒芽山へ至る道は、四犬士が舟で蓑笠を着たときに整ったと言えるだろう。

 

 ここで四人の犬士が社会から脱落したが、必ずしもネガティブな意味のみではない。以前の社会との関係性からの逸脱である以上、虐げられる存在であれば、別のなにかに変身する機会でもある。スロースロップの変装がそうであったように。

 額蔵は、荘官の下人として不当に扱われてきた。この逃亡中、額蔵自ら犬川荘助と名を改めるが、その台詞はこう続く。(第四十四回)

「額蔵とは荘官の、そぞろに名づけし字なり。今さらおもえば、不祥の義あり。額はすなわちひたいと読めり。額は顕すものなるに、額蔵と熟すれば、額蔵るると読むをもて、世をしのぶ貌あり。また死人の幎面に似たり(後略)」

 覆面を「幎面」とし、死装束と強調している。前掲『一揆』には、百姓一揆の変装として、蓑笠姿と並び、ものを被ったり白布で顔を覆ったりする例示がある。覆面は、中世社会の代表的な異形だったという。

江戸時代の一揆に、覆面姿の異形が多くみられるのは、この非人姿と共通の意識がそこに存在しているのかも知れない。(『一揆』)

 下人身分(非人)だった額蔵は、社会から脱落したことで人になったと表明するのだ。額蔵が犬川荘助という名だとは、その場にいる犬士たちも承知している。それなのに、あえて言明するのは、犬川荘助として生まれ変わらせるためには、覆面に匹敵する他界の象徴である蓑笠の異形を通過する必要があったからだろう。

 蓑笠は現世における縁を断ち切り、個人を見えない存在へ変相させる。社会との関係が絶えれば、その社会においてその人は見えなくなる。百姓一揆の思想も、そこに根っこがある。権力への抵抗は、現にいま自分が生きる社会そのものとの戦いでもある。その社会がなくなれば自分自身も生きてゆくことができない。だから、一旦社会の外に身を置く必要があった。その結果、元の社会に戻れないとしても自分たちの要求を通そうとする命がけの訴えが、異形である蓑笠姿として顕れた。

 一揆の変装は中世から続く習俗を基にしたものだが、もしかすると江戸時代にはその起源が忘れられていたかもしれない。江戸時代の風俗として定着していた一揆の決まり事を、室町時代を舞台にした八犬伝に取り入れたことにより、期せずしてアナクロニズムの逆流を起こしているのは面白い。

 当時の民俗を採用することで、馬琴は八犬伝を分かりやすいものにした。現代では、秩序と混沌を行き来する民俗の共通認識が絶えたせいで、説教臭いイメージばかり先行して魅力が伝わりにくくなっているかもしれないが、八犬伝儒教の秩序を謳いあげた物語ではない。犬士はむしろ秩序を紊乱する。八犬伝が描くのは、現実の裏側であり、現世の外側にあるものだ。秩序から外れた無頼の物語という側面のほうがずっと強いだろう。 

 社会の秩序に圧迫されたとき、その社会そのものへ戦いを挑むことには困難が伴う。八犬伝が熱狂的に受け入れられたのは、現世秩序への抵抗がしっかり描かれているからだろう。人々が漠然と感じる逃げ場のなさや閉塞感への突破口を、この物語のなかに見出したからだ。

 馬琴は一揆を参照することで、社会からの脱落を肯定的に描いてみせた。その馬琴当人が、別号として自ら蓑笠漁隠なり蓑笠軒隠者なり名乗っている。

  

一揆 (岩波新書)

一揆 (岩波新書)

 
南総里見八犬伝 2 犬士と非犬士

南総里見八犬伝 2 犬士と非犬士

 
トマス・ピンチョン 全小説 重力の虹[上] (Thomas Pynchon Complete Collection)

トマス・ピンチョン 全小説 重力の虹[上] (Thomas Pynchon Complete Collection)

 

八犬伝覚書 巨田道灌について

リアルな効果を狙う子供っぽい配慮から、もしくは最善の場合、ごく単純に便宜上であっても、架空の人物に架空の名前をつけることほど俗っぽいことがあるだろうか?

『HHhH』(ローラン・ビネ)の冒頭に置かれた小説という媒体を巡る、短いがスリリングな洞察は、大きな問題を提起している。架空の物語における架空の人物に架空の名を付けるとき、その名前がその人物を示す必然性は全くない。だから、作者の独断によってそうと決められることへの懐疑も止めることはできない。

 歴史小説ではなおさらで、たとえば架空人物を拵えて史実に混ぜ込んで登場させるとき、なんら根拠のない名前をその人物に与えることには、ある種の恥ずかしさが伴う。ビネが当該箇所で引用するクンデラのほのめかしのように。それは小説そのものが孕む「なんでもあり」に対する疾しさでもあるだろう。もちろん歴史小説に限った話ではなく、フィクションに登場する人物名に根拠がない以上、その人物をそう呼ぶことの全能性そのものが少し恥ずかしい。こういう感覚は一旦気にし始めると、拭い去るのが難しい。

 その点、南総里見八犬伝は、江戸戯作らしく名前を洒落のめすことで必然性を付与している。名付けに動機が加われば、この種の恥ずかしさからは免れる。

 

 その八犬伝の敵役、扇谷定正は実在の人物である。歴史上、扇谷上杉麾下には当代随一の武将太田道灌がいた。江戸城を築造したことで有名な、文武に優れたこの名将は、八犬伝では巨田道灌と名を変えて登場する。

 なぜ、架空の名前なのだろうか?

 馬琴は八犬伝を構想していた段階で、太田道灌の取り扱いに迷ったのではないか、と考えてみる。巨田備中介持資として道灌が登場するのは、第二十二回。初期のことだ。

 豊島・練馬の残党を物語のひとつの軸に据えようとすれば、豊島一族を滅亡に追いやった道灌の存在は欠かせない。しかし、馬琴は太田道灌の介入を用心深く避けている。

  その理由として、名著『八犬伝の世界』(高田衛)は、幕府にはばかって江戸城と深く関わる太田道灌を描けなかったのではないかと推測している。それを踏まえて想像の羽を広げれば、幕府にはばかって物語に組み込めなかったからこそ、「太田道灌」は巨田道灌という架空の名を与えられて八犬伝の世界から放逐されたのではないか。ここで問題視されたのは、太田道灌の「太」の一字だったのではないか。

 名詮自性に彩られた八犬伝世界に「太」田道灌が登場すれば、単なる敵将では済まなくなる。読者はその名から深読みするし、物語自体が彼に役割を要求する。「犬」の文字を再構成した「太」の文字を苗字に含む登場人物が、犬士たちと運命的な結びつきをしないはずがないのだ。馬琴は一度ならず太田道灌を登場させられないか考えたのではないか。そして、咎めを被る恐れから断念したからこそ、初期の段階で巨田道灌を登場させ、太田一族が作中に存在しないと示したのではないか。そこには幕府への用心とともに、物語世界の結構を崩さない配慮が感じられる(同時期に創作された『近世説美少年録』では、太田持資入道と記載されている)。

  さて。

 現代では、だれにはばかることなく太田道灌を描くことができる。上の推論に沿うなら、巨田道灌でなく太田道灌が登場することには意味が生じるだろう。あったかもしれない八犬伝の可能性として。

 架空の物語の架空の名前を実在する名前に置き換えても、その物語は史実通りにはならない。史実や現実とは異なる強固な原則が作用するからだ。

 太田道灌という正しい名前は、原典からも史実からも逸脱する動機を含んでいる。

  

HHhH (プラハ、1942年) (海外文学セレクション)

HHhH (プラハ、1942年) (海外文学セレクション)

 
南総里見八犬伝 結城合戦始末

南総里見八犬伝 結城合戦始末

 

あまりにもノーマルな性

 デモ活動の際に全裸パフォーマンスを行ってニュースになる例が、時々ある。スペインの某動物愛護団体が有名だが、どのくらいの実効性があるのだろう? 動物愛護のお題目で裸になるのは動物と比べて人間だけを特別視する社会への異議だろうが、大抵のデモでは、裸は人間性における自由の表明とされる。デモとは抑圧に対する異議申し立てだから、男女問わず路頭で裸になるという行為には、正当な理由があるというわけだ。ただ、裸になることがどうして自由の表明になるのかという理屈については、なんとなく分かるような気もするが、根本的なところで分からない。
 日本でもかつてのアングラでは全裸パフォーマンスはよく行われていた、というようなイメージがあるが、1957年から70年までの日本における「反芸術パフォーマンス」を調査した大作『肉体のアナーキズム』(黒ダライ児)によると、留保が付けられる。

 ……急いでつけ加えないといけないが、反芸術パフォーマンスをになった〈ゼロ次元〉、〈クロハタ〉、〈告陰〉、小山哲男らの行為には、裸体や性的な仕草が含まれることはあっても、また〈ゼロ次元〉が、警察の介入を受ける心配のない地下室や人気のない公園などで行なった全裸の儀式が写真や映像に残されているものの、公共空間はもちろん舞台上でも全裸のパフォーマンスはそれほど多くなかった。また、マスコミ受け狙いのためにヌードないしはセミ・ヌードの女性が起用されることはあっても、裸体が安易に連想させるセックスに関わる表現も意外に少ない。むしろ重要なのは、着衣と裸体のギャップがもたらす、近代的なものと前近代なもの、公的なものと私的なもの、まじめさとおふざけの落差を演出することである。(P463)

 著者はこれらのパフォーマンスと「肉体美の礼賛や性の解放、反文明・自然回帰というロマンティックな『芸術』」とを区別し、裸体表現の少ない六〇年代反芸術パフォーマンスを、「近代的な教育や訓練によって矯正され、隠蔽され、忘却された(されつつあった)肉体の表現力に注目することだった」と述べる。
 公共空間における肉体表現がセクシュアルな方向へ向かわなかった一因には、セックスとジェンダーへの批評的視線が日本の社会から抜けていたという点も重要だったのかもしれない。
 前掲書では女性パフォーマーに一章を割いているが、その冒頭はこうである。

 美術家によるパフォーマンスを欧米で起こったアヴァンギャルドの実践という文脈でとらえると、それは第一に、保存・販売可能な「作品」を拒否する反商業主義であり、第二に、白人・男性・上流階級・異性愛というような主流や権力への抵抗であり、さらに根本的には、第三に、「芸術」と「生活」を区分し前者を聖域化することを疑う、社会に対する異議申し立てとしてのデモンストレーションである。このようにパフォーマンスをとらえると、それがフェミニズム的視点から有効で重要な手段になることが理解される。パフォーマンスの起源のひとつとされるジャクソン・ポロックの「アクション」におけるマッチョな男性性に対して、キャロリー・シュニーマン、ハンナ・ウィルケ、アナ・メンディエッタらの女性作家たちは、パフォーマンスによって男性中心主義的価値観に挑戦し、性差を巡る問題を提起していったのである。
 このようなパフォーマンスに潜在する批評性にもかかわらず、日本の前衛美術における身体表現の歴史を見ていくと、そこには大きな欠落があるといわざるをえない――その最たるものはジェンダーを巡る社会的抑圧に対する抵抗としての実践であり、特に女性作家による実践である。
(略)
 ……上述のような欧米で見られた女性作家(日本人ほか非白人女性も含む)による男性中心主義・家父長制への挑戦、社会的に形成された女性特有の肉体性を批判的に再構築する試みは、ほとんど展開しなかったのである。(P402)

「色々やったわけですけども、何かやっていることが相手に伝わらないで、そのまま空に消えてしまうような感じで、何かいつも壁に向かって話しているかんじなわけです」という当時の小野洋子のインタビュー記事も載っている。では、それから半世紀近く経た今現在には一般的に受け入れられるものになったのかといえば、それも疑問だ。

 日本の六〇年代においては美術系の男性パフォーマーにも、現実社会における肉体の機能や象徴性、特にジェンダーと同性愛を含むセクシャリティ、それを巡る抑圧や暴力を問いかけた者はほとんどいなかったし、その傾向は現在もあまり変わっていないと言える。なぜか? これに答えることは今日の私たちに与えられた課題である。(P408)


 映画に登場する裸体は、セクシュアルな欲望喚起装置として立ち現れる。
 しかし、ブリュノ・デュモンの『欲望の旅』(2003年)には、そうした性的な視線を遮るようなジェンダーのベールが掛けられている点で特異だ。主人公の男女はセックスとジェンダーを往来する、という物語構造を取る。だからこの邦題は、実のところ、あまり正しくはない。
 原題の"Twentynine Palms"は、カリフォルニア州にある幹線道路である。この道路脇に建つモーテルと車で入ってゆくジョシュアツリー国立公園が、主な舞台になる。後述するように、29パームスは物語の構成上とても象徴的に働く。
 話の筋は単純だ。
 ノーマルな男女のカップル、デイヴィッドとカティアが自動車で荒野の狭い道を辿る。ジョシュアツリーが時々目につく以外は岩と砂しかない場所。俯瞰ショットでは、だだっ広い荒野に一本の細い道が通っているだけ。そんな人っ気のないところで車を停めてはセックスする。デイヴィッドはロケハンにきたというから映画監督だろうか? 
 カティアは時折上手く説明できない発作のような苛立ちに囚われて、デイヴィッドを責める。デイヴィッドはそれを言語コミュニケーションの不全の所為だと考えている。カティアはフランス語しか話せない。デイヴィッドは普段は英語を話し、フランス語を少し話せる。ふたりは会話にフランス語を使う。
 デイヴィッドは自らのジェンダーに無自覚である。だから、カティアの苛立ちが理解できない。


 たとえば、29パームスに面したハンバーガーショップのテラス席で、デイヴィッドはウェイトレスが「大きい」と言って嗤う。背の高い女性は女性らしくないと彼は思っているのだ。カティアは釈然としなさそうだが、結局は一緒に笑う。
 同じシーンで、デイヴィッドは海兵隊風の男性客を見て、俺の髪も刈り上げたらどうかなと訊く。それに対して、カティアは即座に拒絶する。海兵隊みたいなマッチョは嫌いか、と尋ねるデイヴィッドに、好きだけど好きじゃない、と曖昧に答える。デイヴィッドはカティアの答えに納得がいかず、お前の言っていることはよく分からない、と腹を立てる。言語による合理的なコミュニケーションを求めているのだが、カティアは自分の思っていることをうまく説明できない。だから優しく微笑んで「愛している」というだけだ。彼女は自分がどうしてデイヴィッドに髪を刈り上げて欲しくないのか説明せず、彼女の女性性を押し出すことで(ジェンダーに回帰することで)会話をうやむやにする。

 たとえば、ふたりは荒野(ジョシュアツリー国立公園)の岩山へ素っ裸で上って、白昼の日射しに熱せられた岩棚の上に横たわる。遮るもののない岩山は日射しが強くて、暑い。デイヴィッドはすぐに上体を起こして「戻ろう」と誘う。カティアは岩山を降りることを拒否する。ここでの裸でいることの自由とは、性としての人間でいられるということ、あるいは性を離れた人間でいられるということだ(このシーンではセックスせずにただ寝そべっているだけという点は興味深い)。けれど、岩山を降りてしまうとそうではない。性はジェンダーに切り替わり、カティアにとってのセックスはデイヴィッドの男性性からの抑圧から逃れることができない。しかし、カティアは拒否を貫きはしない。
 言語による意志疎通がうまくいかないからか、ふたりはセックスばかりしている。デイヴィッドは強引に好きな場所でセックスを試み、カティアはそれを受け入れる。そのときには厭なことだとは感じていないようにも見える。けれど、後になってカティアは突然機嫌が悪くなる。デイヴィッドにはカティアが不機嫌になる理由が分からない。彼には自分がカティアを抑圧しているという意識は全くないからだ。しかし、カティアの不機嫌も長くは続かない。彼女も女らしく振る舞うことで不機嫌を脇へ退けてしまうのだ。

 また、カティアは道を渡ることに過度に怯えているようにも見える。ふたりが道を渡ろうとしたとき、地元の男たちが車で通りすぎざま、「ここは俺たちの町だ!」と乱暴な言葉を浴びせてくる。この道は、29パームスである。

 たとえば、ジョシュアツリー国立公園では、彼らは車を降りると荒野の奥へ分け入っては裸になって抱き合う。道の傍らで服を脱がそうとするデイヴィッドをカティアはここじゃ厭だと奥へ誘う。道の近くではジェンダーに縛られたままだからだろう。デイヴィッドの男性性による抑圧をカティアは意識してかせずにか厭がっている。道から離れることで、ジェンダーからセックスへと身体を切り替えることができるかのように。

 この映画では、29パームス(あるいはジョシュアツリー国立公園内の車道も)が、ジェンダーのコードの象徴になっているのだ。


 だから、邦題の『欲望の旅』はあまり正しくない。この映画に「旅」はないからだ。自動車で移動するシーンが多いにも関わらず、彼らは結局同じ道に戻り、同じモーテルへ帰ってくる。そしてモーテルのプールへ行くと、デイヴィッドは必ずセックスしたがる。部屋でのオーラルセックスシーンでの彼はあからさまに乱暴だ。道にいる間(モーテルは29パームス沿いにある)は、始終ジェンダーに縛られて息苦しい。旅路の果てに自由を求めるのがロードムービーであるならば、この映画は明確にアンチ・ロードムービーである。


 前半は、カティアが不機嫌になって諍いが起こりすぐ和解してセックスをして、の繰り返しだ。カティア自身どこまで自覚的なのか分からない、彼女自身のジェンダーへの控えめなプロテストがひたすら繰り返される。こうしてカティアだけに訪れていた「ジェンダーへの異議申し立てとコードへの回帰」という反復が、やがて訪れるラストへの伏線になる。
 結局、デイヴィッドは道路へと回帰する。それ以外の在り方を彼は探し出すことができない。カティアもまた、彼女のジェンダーからの逸脱を避けてきたことを思えば、やはりそれ以外の自分に目をつむってきたのだろう。デイヴィッドとの関係に亀裂が入ることに比べれば、些細な問題に過ぎないと自分に言い聞かせて。

 俯瞰で撮られたラストシーンは、どこが道なのか定かでない広大な平野である。ポツンと映る警察官が、道路の封鎖を命じているのも象徴的だ。彼は電話の相手に向かって「どうしてそんな簡単なことができない!」と怒鳴り散らす。道路封鎖の理由を伝えているのに相手が承諾しないことに苛立っている。
 この警官と電話相手との間にあるコミュニケーション不全は、言語的な問題ではない。ここでは、ジェンダーコードのメタファーである道路を封鎖してしまうことの社会的困難さ、不安定ながらも決壊せずに秩序を保っている世界のベールを剥ぎ取ってしまうことへの忌避感情が、電話の向こうから観客に向けて発せられている。それは「すでに」道から遠く離れた現場を見ている警官にはバカげた理屈でしかない。なぜなら、これは道のために起こった事件だからだ。
 マイノリティではない男女関係は、自分たちがノーマルであるという歪な自覚のために、常に揺らぎを含んでいる(そしてその揺らぎを見ないようにコードにしがみつく)。彼らは自分たちのノーマルさを裏付けているものが、社会的政治的な性に過ぎないことには無自覚だ。
 たとえ裸でいたとしても、「ノーマルな性」から自由になることは難しい。





※追記
 それにしても『フランドル』でもそうだったが、ブリュノ・デュモンが描くセックスはホント淡白だ。どの男も早漏かと思えるほどすぐに終えてしまう描き方は、ちょっと独特な感じがする。尤も、セックスシーンを引き延ばしても仕方ないから、映画の構成としては有効なのかもしれない。
 その代わり(かどうかは定かでないが)、果てるときの男の表情は過度な苦痛に歪むような顔になる。セックスの快楽とジェンダーの苦痛との板挟みでいるように、と見ようとすれば見えなくもない。
 しかし、デュモンの映画はなかなか日本で公開されないな。来年のフランス映画祭には新作が来るのかな?

欲望の旅 [DVD]

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肉体のアナーキズム 1960年代・日本美術におけるパフォーマンスの地下水脈

肉体のアナーキズム 1960年代・日本美術におけるパフォーマンスの地下水脈

『ファニーゲーム』の二人組はどこからきたのか?

 ときどき無性に『ファニーゲーム』(ミヒャエル・ハネケ)のオープニングが観たくなる。郊外の道をボートを牽引しながら走るSUVを、緩やかなピッチのオペラ音楽を背景に捉え続ける。車内へカメラが移ると、別荘地へ向かう三人家族の姿。父親と母親が曲当てゲームをしている。後部座席の子供は少し身を乗り出し気味に両親を見比べる。と、唐突に赤い字のタイトルバックがカットイン、BGMがNaked Cityの"Bonehead"に切り替わる。山塚アイの叫びが何気ない幸福な一幕を緊張させる。家族が湖畔の別荘地に到着して隣人の家の前に停車すると、ピタッと音楽はやむ。
 本編導入部が観たかったのだからここまでで満足してDVDを取り出せばよいものを、冒頭の緊張感に引きずられて最後まで観てしまった。ゲームとは呼べないゲームに強制的に参加させられる家族と同様、観る側も映画というゲームに巻き込まれる。「観る」という行為の受動性を突きつけられる。観客が何を期待しても、起こったことしか起こらない。結末は変わらない。それでも、作中人物はこちらへ目配せをしたり語りかけたりする。ラストシーンではじっと観客を不敵に見つめる。
 救いのない映画というだけなら、他に幾らでもあるはずだ。暴力描写も、直接的な表現は少ない。そもそも映画という世界では、多かれ少なかれ、当たり前のように理不尽な暴力が振るわれる。悪役が振るうのであれ、ヒーローが振るうのであれ。だからこそ、『ファニーゲーム』は理不尽な暴力を覆すヒーローの虚構性を指摘する、といった具合にしばしば語られる。助けは来ないし、主人公たちは自らを守るために立ち上がることもできない。
 けれども、この映画が賛否両論に分かれる一番の原因は、救いのない残酷さや一方的に振るわれる暴力への抵抗不可能な状況への不快感よりも、(その救いのなさを裏付けることにもなる)「二人組」の持つ全能性をどう捉えるかに拠るではないか。
 たとえ暴力に抗おうと立ち上がったとしても……。
 ここで、それまでリアリズムだと思って観てきた映画が、完全に「反転」する。これは現実に起こり得る恐怖なんだ、という捉え方を無化してしまう。あまつさえ、登場人物自らが現実と虚構の曖昧さについて語りだす。初めて観たときは、ポカンとしてしまった。そんなのアリなの?と、たぶんみんなが思ったはず。
 このシーンがある所為で、暴力を振るう二人組の異質さに説明できないもどかしさが出てきてしまう。もちろん、こうも言えるだろう、「説明なんていらない。暴力はいつだって匿名で、没個性的で、前触れもなく起こり、理不尽に振るわれ、逃れることができない。現実に降りかかる暴力に、個人はフィクションのように抗うことなどできないのだ」これが、正しい感想なのだと思う。
 だから、この記事の内容は無用な付け足しかもしれない。牽強付会な妄想は虚構性を糾弾する映画を再フィクション化するだけだと言われても仕方がない。
 でも、これはミヒャエル・ハネケの映画なのだ。たとえ不快感であれ、観客を映画というゲームに巻き込んで離さない仕掛けは、受動的快楽に意識を委ねる映画とどう違うのだろうか? ヒーローがスカッと悪役を倒してハッピーエンドというハリウッド映画は、観客の感情を気持ちよい方向へ操作する。だったら、それが気持ち悪い方向への操作であっても、映画に強制的に参加させるという点では同根ではないだろうか? 思考をひたすら停止させられ、解釈の余地をなくし、主体的な参加意志を剥奪する。もちろん、それは優れた映画の条件でもあるだろう。そういう映画は僕も好きだ。ただ、それってあまりハネケらしくないなぁ、と思うのである。
 だから、どうしてもあの「巻き戻し」に戻ってしまうのだ。あのシーンがあるから、『ファニーゲーム』はハネケの映画になっている。
 それがあるために、やはり問いたくなってくる。
 この二人は何者なのか? 目的はなんなのか? どこからやってきたのか?




ファニーゲーム』を構成しているのは、没個性である。「二人組」の名前はパウルとペーターで、体型はノッポとデブだ。饒舌で自信たっぷりな青年と、神経質で自信なげな青年。対照的なストックキャラクターを並べただけ。何者かという問いをあらかじめ思考の外に置くように指示されているかのようだ。二人は自分たちをトムとジェリーだと冗談に名乗ったりする。とにかく、彼らが語ることは嘘ばかりである。だからその背景はいっこうに明らかにならない。
 神経質なデブのほうのペーターが卵を貰いにきて、家族の母親アナと揉め始める。これが悲劇の発端だ。ペーターは如何にも鈍重かつ無神経に振舞い、アナを怒らせる。やがて相棒パウルと一緒に戻ってくると、親切であげた卵を二度も落として割ったくせに、また卵をと要求してくる。騒ぎのなか、父親ゲオルクが息子と一緒に家に戻るが、彼らはゲオルクとも揉めた末にゴルフクラブで彼の足を折り、そのまま三人家族を別荘に監禁して居座り始める。饒舌なパウルは彼らにゲームを提案する。「お前たちが十二時間後に死んでいるかどうか賭けをしよう。生きているほうに賭けろよ。俺たちは死んでいるほうに賭けるから」始めから家族三人を皆殺しにするつもりだ。なんのために? 理由は語られない。パウルは観客に向かって「どっちが勝つと思う?」と参加を促す。
 ここで卵を渡していたら何も起きなかったのかというと、そんなことはない。中盤でペーターが卵の所為にしているが、これは嘘。気弱な彼が自分をそう納得させようとしているようにも取れるが、その実あまり気にしていないようにも見える。とにかく最初から殺すつもりで入り込んだのだから、卵の件は殺意とはなにも関係ない。別荘地の金持ちを襲って金を奪う、というのも殺人とは結びつかないし、金を盗っているかどうかさえ怪しい。言うまでもなく彼らは初対面で、恨みもなにもない。
 だから、理由はないのだ。


 この映画は、ハリウッドリメイクされている。『ファニーゲームU.S.A.』は、台詞を英語に変え、同じ演出、同じ音楽、同じ編集、構図さえ全く同じ、ハネケ自身によるセルフリメイクだ。スザンヌ・ロタールが演じたアナはナオミ・ワッツに、ウルリッヒ・ミューエが演じたゲオルクはティム・ロスが演じている。個人的には、このハリウッド版はコントのような印象を受ける。ナオミ・ワッツが美人過ぎるからか、単に「二度目」だからか。まぁそれはともかく、このリメイク版、細かいところにちょっとした改変がある。
 息子を殺された後のリビングでの時間(あの静かな時間は重要だと思うのに)とか、携帯電話に関してとか、また電話を掛ける相手とか。面白いと思ったのは、オリジナルでは「二人組」が家族に対して「親しさ」を要求しているのに、ハリウッド版では「礼儀正しさ」を要求する。ドイツ語と英語の文法の違いか、ヨーロッパとアメリカの風土の違いか。また、名前の改変もところどころにある。主要人物はオリジナルの英語読みだけど、隣人の名前が変えてあったりする。息子の友達のシシーがジェニーになっている、というふうに。アメリカ風に変えたのだろうか。で、家族が飼っている犬の名前もロルフィからラッキーに変わっている。この犬は、開始早々「二人組」に殺される。
 ありふれた名前をあえて選んでいるだけだと思うのだけど……
 ……「犬」の名前がラッキーというのはちょっと引っ掛かるところ。
 この引っ掛かりを手繰り寄せて、強引に先へ進めてみる。



ゴドーを待ちながら』に出てくる、犬のような扱いを受けている登場人物の名前がラッキーである。



 ベケットの戯曲『ゴドーを待ちながら』にも、メタシアター的な仕掛けがあちこちにある。
 その話の筋は簡単だ。ヴラジーミル(ディディ)とエストラゴン(ゴゴ)の二人は、ゴドーを待っている。このゴドーが何者なのかは分からない。なぜ待っているのかも分からない。観客に分からないだけでなく、ディディとゴゴにも分からない。彼らは自分たちがどれだけの期間、ゴドーを待っているのかも分からない。今日が何曜日なのかもはっきりしない。本当に待ち合わせの日が今日なのかどうかも分からない。とにかく待ち合わせ場所だけは分かっている。だから、時間が過ぎるまでこの場所を離れることができない。
 二人が待っていると、首に綱を掛けたラッキーという男がやってきて、その綱の端を持つポッツォが現れる。ラッキーはどう見ても人間なのだが、ポッツォに完全に隷従している。大荷物を持ち、ポッツォが椅子だと言えば椅子を、バスケットと言えばバスケットを持ってくる。何も命じられないと、その場に立って荷物を持ち続ける。綱は首に巻かれたままだ。ディディが非人道的だと責めても、ポッツォは聞かない。しかしゴドーを待つ以外にやることのない二人は、ポッツォと話すうちに仲良くなって、ポッツォがラッキーに踊ったり考えたりさせるのを楽しむ。彼らが去り、また二人だけになると、今度は男の子がやってきて「今晩は来られないけど、明日は必ず行くから」というゴドーの伝言を告げる。
 次の日(かどうかも分からない。第二幕)、ディディとゴゴはゴドーを待っている。すると、ポッツォとラッキーがやってくる。なぜか盲目になっているポッツォは、立ち止まったラッキーにぶつかり、しがみつく。ラッキーはポッツォもろとも重みで倒れる。

エストラゴン ゴドーかい?
ヴラジーミル こいつはうまいところへやって来た。やっと援軍だ。
ポッツォ (恐怖にふるえた声で)助けてくれ!
エストラゴン ゴドーかい?
ヴラジーミル すっかりへこたれかけていたところだが、これで、今晩のお楽しみは間違いない。
ポッツォ こっちだ!
エストラゴン 助けを呼んでる。
ヴラジーミル もう、わたしたちだけじゃない、夜を待つのも、ゴドーを待つのも、それから――とにかく、待つのにだ。さっきからずっと、わたしたちは、自分たちだけで全力をつくして戦ってきた。だが、それは終わった。もうこれで、あしたになったも同然だ。

 ディディの言う「全力をつくして戦ってきた」は、ゴゴと二人で時間を潰そうと頑張ってきたことだ。彼はポッツォとラッキーが昨日のように自分たちを楽しませてくれることを期待している。一方、ゴゴは、昨日会ったポッツォとラッキーを覚えていない。
 目の見えないポッツォはラッキーと一緒に倒れたまま立ち上がることができず、恐慌を来している。相手が誰なのかも分からないまま、ディディとゴゴへ助けてくれと懇願する。ポッツォもまた、ディディとゴゴを覚えていない。

ヴラジーミル ポッツォはわたしたちの思いのままってわけか?
エストラゴン ああ。
ヴラジーミル したがって、われわれの骨折りに対して条件を付けるべきだと?
エストラゴン そのとおり。
ヴラジーミル 確かにそいつは名案らしい。しかし、心配なことがひとつある。
エストラゴン なんだい?
ヴラジーミル ラッキーが突然動きだすってことだ。そうしたら、こっちはお手上げだ。

 ラッキーとの関係だが、第一幕(ディディの主観では昨日)で泣いているラッキーの顔をハンカチで拭ってあげようとしたゴゴは、向う脛を蹴り飛ばされている。ラッキーは知らない相手には凶暴(ポッツォ言)だから、二人はラッキーに近づきたくなかった。紆余曲折の末にポッツォを抱え起こすと、案の定、召使いを連れてきてくれと頼まれる。ラッキーは離れたところに倒れている。ディディとポッツォはゴゴに行かせようとするが、彼は怖がって渋る。

ヴラジーミル はっきりいって、どうしたらいいんです?
ポッツォ ああ、まず綱を引く、もちろん、首を締めあげないように注意してだが。普通、それでなにか反応がある。それでだめなら、下っ腹でも、顔でも、適宜にかつじゅうぶんに、蹴とばせばよろしい。
ヴラジーミル (エストラゴンに)わかったろう。なにもこわがることはないさ。むしろ、かたき討ちのいい機会だよ。
エストラゴン でも、もし逆襲されたら。
ポッツォ 逆襲などせんよ。
ヴラジーミル 応援に行ってやるよ。
エストラゴン じゃあ、見ていてくれよ、ずっと。
ヴラジーミル まず、生きてるかどうか見たほうがいい。死んでたら、なぐったってむだだから。
エストラゴン 息はしてる。
ヴラジーミル じゃあ、やれ。

 ディディはラッキーが踊ったり考えたりするのを楽しみにしていたのに、ラッキーはそんなことできないらしい。ポッツォたちは去り、男の子がやってくる。昨日の男の子だとディディは思うが、男の子はディディを知らない。ゴドーは来ない、明日は来る、と同じ伝言。
 落胆した二人は自殺を試みるが、失敗する。

エストラゴン おれは、このままじゃとてもやっていけない。
ヴラジーミル 口ではみんなそう言うさ。
エストラゴン 別れることにしたら? そのほうがいいかもしれない。
ヴラジーミル それより、あした首をつろう。(間)ゴドーがくれば別だが。
エストラゴン もし来たら?
ヴラジーミル わたしたちは救われる。


 さて、『ゴドーを待ちながら』の二人組は、自分たちの町ではない場所でゴドーを待っている。通りすがりでしかないポッツォたちが、本来その街の住人である。彼らは自分たちがどのくらいの間、そこでゴドーを待っているのか覚えていない。永遠に同じ時間が繰り返されるように、同じ場所に閉じ込められているのである。しかも、一幕と二幕では状況が大きく変化している。悪化していると言っていい。ポッツォやラッキーは老いているようにも取れる。前よりも後のほうがコミュニケーションが取りにくくなっているのは明らかだ。どうやら外の世界は、彼らとは違う時間の流れ方をしているらしい。場所を示す木は、一幕では枯れているのに二幕では葉が付いている。
 そして『ファニーゲーム』の二人組もまた、なおもゴドーを待ち続けてはいるが、会うことをほとんど諦めているディディとゴゴのように見えるのである。彼らには別荘地の住人に対して何かを求める理由はない。ゴドーが来れば救われると思っているディディとゴゴと同じだ。ディディとゴゴは積極的にポッツォやラッキーに何かを求めているわけではない。待っている間の自分たちを楽しませてくれればそれでいいのだ。
ゴドーを待ちながら』の変奏として『ファニーゲーム』を考えてみた場合、映画のなかで繰り広げられる暴力は、彼らにとって文字通りの意味での「ゲーム」でしかないことがはっきりする。ディディが言うように「わたしたちは、自分たちだけで全力をつくして戦ってきた。だが、それは終わった。もうこれで、あしたになったも同然だ」。彼らは湖畔の別荘地を離れることができない。なぜなら、ここが待ち合わせの場所だからだ。いつ来るか分からない相手を待ち続けることだけが、彼らの目的なのだ。それはいつしか「あした」になるのを待つのと同じになる。なぜなら、待ち人は現れないからだ。
 それは、ひとりでは耐えられない。
 ディディとゴゴは互いを失うことをなによりも恐れている。別れたほうがいい、と何度も口にしながら、離れることができない。死について考えるときも同様だ。片方を失ったら、片方だけが残される。残ったほうは、ひとりきりでゴドーを待たなければならない。倫理観が欠如したように見えるパウルが、ペーターが殺されたときに動揺してリモコンを探し回る理由も、そこにあるのではないか。相棒が死んだという悲しみよりも、自分がひとりだけ残されることへの恐怖が先行するというほうが、内面を持たない登場人物にはありそうに思える。また、賭けのリスクについてパウルは語るが、これも嘘だ。巻き戻すことができるのなら、彼らにはリスクなんてない。ディディとゴゴが必ず首吊りに失敗するように、パウルとペーターも死ぬことがないのである。
 しかし、これは全能だろうか?
 彼らは映画の中盤で別荘を離れるのだが、ここも不可解なシーンだ。息子だけを殺害して両親を放置し、別荘から立ち去る。その場で皆殺しにできる状況であるにもかかわらず、彼らがそうしようとしないのは、ゲームの目的が時間潰しだからだ。彼らは頻りに時間を気にしている。これは時間が過ぎないことへの苛立ちではないだろうか。たとえ別荘を離れたとしても、結局、戻らざるを得ないことが分かっている。つまり、パウルとペーターは逃げられないのだ。
 ここで、自由を奪われた監禁状態という主題が二重化していることに気が付く。一家が二人組から逃げられないのは、二人組が映画(ゴドー)から逃げられないからだ。本来なら、一家は夏の休暇を過ごしに別荘へやってきた「通りすがり」である。二人組はそんな彼らを自分たちと同じ状況に引きずり込んでゆく。更には観客も巻き込もうと、目配せしたり話しかけたりする。観客もまた「通りすがり」である。「通りすがり」でないのは二人組だけ。だから、彼らはどこかから来たのではない。彼らだけが、初めからそこにいるのだ。
 パウルもペーターもしばしば未来について語るが、それもすべて作り話だ。繰り返される「いま・ここ」以外、彼らにはないのだから。


 リメイク版がコントのように感じられる原因も、ここにあるのかもしれない。この映画は他のどんな映画よりも「結末の変わらない映画」である。描かれる出来事は、複製と反復のメディアである映画にふさわしい。この映画を繰り返し観るときには、同じ行為を繰り返している二人組を観ることになる。それは字義どおりに正しいことだ。彼らは永遠に同じことを繰り返す。ディディとゴゴが反復の記憶を失ってゆくように、パウルとペーターも反復している事実に気付かないだろう。その反復は、観客だけが違う時間の場所から観ることができる。
 だから、その「繰り返し」を違う役者、違う場所で演じられると、強固な反復性から逸脱したことへの違和感を覚えることになる。まったく同じ作りでリメイクせざるを得ないのは、この映画が繰り返される時間と場所に拘束されているからだが、見る側はそれをまったく同じだと認識することはできないだろう。オリジナルが完全に固定されるのは、オリジナル自体が反復し続ける場合で、これほどリメイクに不向きな映画もあまりないように思う。
 とはいえ、『ゴドー』を下敷きにと主張した手前、このリメイクの意味も納得しなければならない。ベケットは他の彼の戯曲同様、『ゴドーを待ちながら』もフランス語で書き、英語版を書いた。アメリカ初演の初日で幕間のあとまで残っていたのは、役者の家族を別にすれば、テネシー・ウィリアムズウィリアム・サローヤンだけだったという。


 さてさて、『ゴドーを待ちながら』の一般的な解釈では、ゴドー(Godot)は神(God)を指しているとよく言われる。もちろん、はっきりした答えなんてない。ベケットもハネケも解釈の固定を嫌うので、答えを名指すことはない。もしかすると、ゴドーとは観客のことかもしれない。ディディとゴゴはゴドーの顔を知らないのだから。重要なのは、彼らが待っていることだ。
『ゴドー』の冒頭で、ディディが救世主と磔刑について語っている。キリストと一緒に処刑された二人の泥棒の話。二人の泥棒のうち、ひとりだけ救われて、もう一人は地獄行きになった、と語る。

ヴラジーミル どうしたことか、福音を伝えた四人のうち、そういうふうに事実を述べているのはたったひとりなんだ。しかし、四人ともその場に居合わせていた――いや、とにかく近くにはね。それでいて、泥棒の一人が救われたと言っているのは、そのうちたった一人だ。(間)おい、ゴゴ、たまには相槌くらい打つもんだ。
エストラゴン 聞いてるよ。
ヴラジーミル 四人のうち一人。あとの三人のうち二人はなんにも言ってない。もう一人は、泥棒が二人とも悪態をついたって言うんだ。
エストラゴン 誰に?
ヴラジーミル え?
エストラゴン おれにはちっともわからん……(間)誰に悪態をついたんだ?
ヴラジーミル 救世主にさ。
エストラゴン なぜよ?
ヴラジーミル なぜって、泥棒二人を救ってやろうとしなかったからさ。
エストラゴン 地獄からか?
ヴラジーミル いいや、そうじゃない。死からだよ。
エストラゴン で、どうした?
ヴラジーミル で、二人とも地獄行きさ。

 ここではディディが永遠に救われることのない二人の泥棒に、自分たちをなぞらえている。ゴドーを待っている舞台はゴルゴダの丘のようでもあり、地獄のようでもある。
ファニーゲーム』には、パウルがアナに「お祈り」を強要するシーンがある。祈りの言葉を知らないというアナに、パウルは大袈裟にびっくりする。簡単な祈りを心を籠めてやらせると、パウルはそれを逆さに言えと命じる。これはアナへの愚弄にはならない。なぜなら、アナはそもそも祈りの言葉を知らないからだ。ここでパウルが揶揄しているのは、他の誰かだ。他の誰かへの不満の表明でもある。聖書を読んだことがないというゴゴが自分をキリストに見せようとするシーンがあるが、パウルとペーターも神を信じているのかいないのかよく分からない。
 しかし、ラスト付近で、ペーターが唐突にケルヴィンという男の話を持ち出す。物質界と反物質界がどうとかこうとか。ふたつの世界は行き来ができず、入ってしまうとブラックホールみたいになにも出てこれない、云々。これも字義通りに受け取れば、映画と現実を混同することへの批評だが、彼らが待っている相手は永遠に現れないという諦念を表明しているようにも感じられる。待ち人が来なければ救われないのに、ディディとゴゴのような落胆を見せないのは、彼らがすでに目的を見失っているからだろうか。
 それでも、二人組は湖畔の別荘地を離れられないだろう。彼らは誰を待っているのか、なぜ待っているのか、何度も何度も同じ一日を繰り返し過ごすうちに思い出すこともできなくなって、ただただ暴力に身を委ねている。
 必ずしも神学的解釈は必要ない。
 この映画に刻まれているのは、誰にとっても自由のない拘束と緊張の世界なのではないか。

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