『脱獄計画(仮)』という驚愕のビオイ=カサーレス体験:Dr. Holiday Laboratory『脱獄計画(仮)』

 こまばアゴラ劇場で、Dr. Holiday Laboratory『脱獄計画(仮)』という演劇を観た。作・演出、山本伊等。

 なんて挑発的な。最高だった。

 アドルフォ・ビオイ=カサーレスの小説『脱獄計画』を原案にした演劇ということで興味を持ったのだが、え、こんな原案の使い方するの!?という驚きが一番目にきて、それが、ビオイ=カサーレスの舞台化以外の何者でもない!という驚きに変わって全身が震えた。もう一度言いたい。最高でした。

 

 実を言うと、僕が期待したビオイ=カサーレス原案の舞台劇『脱獄計画』はすでに終わっていて、その初演から日を経た後の公開インタビューを、今日、劇場で観ることになった。

 と、この時点で??となるけど、大丈夫、話の筋で混乱することはない。この戯曲の優れた点は、ビオイ=カサーレス原案の演劇『脱獄計画』についてのインタビューという主軸を決してズラさないことにある。

 だけど、淡々とインタビューが続くわけではない。最も特徴的だったのは、役者が演じる配役を舞台上で変えていくことだろう。

 そう言ってしまうと、寺山修司なり野田秀樹なり思い浮かぶだろうが、『脱獄計画(仮)』が野心的でユニークだったのは、舞台の上ではなくて舞台の外を舞台にしているからだと考えた。

 まずもって、この演劇が、演劇そのものへの自己言及のように、初演とそのインタビューという対立構造から語り始めるため、観客側としては「現実」として踏まえておくべき足場がかなり脆弱である。役の入れ替えというならば、現実と虚構の境界線をしっかり引いた上でなければ混乱が生じるだろう。この舞台ではどうかと言うと、舞台装置としてあたかも境界を区切るかのような、四隅に四本の柱の立ったインタビュー用の舞台が設けられる。四本柱の舞台と言えば古式ゆかしく、神事や葬における結界としても用いられるもので、見るからに強固な結界である。

 それなのに、演者は早々にこの舞台から足を踏み出すのである。インタビュー用舞台の外には地下への階段があったり二階へのエレベーターがあったりする。インタビューという演劇の外部から始まりながら、演じるべきインタビュー用の舞台から役者が簡単に降りられるのなら、虚構を虚構たらしめる結界は全く機能しないだろう。

 すると、どうなるだろう?

 役者もまた役者役でしかなくなる。それはつまり、自分も自分役でしかないということだ。自分役もまた他の役者と代替可能になってしまう。こうして、オリジナルはあっけなく消失する。

 これを顕著に示すのが、まさにいま語ったこの演劇の結構だろう。インタビューという形式で始まるからには、そのインタビューの対象である「初演」は大前提として存在しなければならない。そこでインタビューの最中に、初演がどんなものだったか役者たちによって再現される。が、そこで初演にはなかったセリフが語られ、さらに、その再現を行うのが、演じたはずのないインタビュアーとなって、こうなると、いったい初演が本当にあったのかどうかはっきりしなくなる。それでもなお初演として再現し続けることで、オリジナルとしての「初演」が消えてゆくのだ。

(加えて、インタビュアーの特権性が剥ぎ取られるのは、インタビュアーもまた配役に過ぎないからだ。)

 これはとてもビオイ=カサーレス的状況である。有名な『モレルの発明』で描かれたのは、再現のみが残されてオリジナルである当人たちは不在である状況だった。むしろ、オリジナルの不在によって再現性は担保されるのである。

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 このオリジナルなき再現については、舞台装置として置かれたモニターの存在が印象に残っている。いま現に観客の前で行われているこの演劇が、脇のモニターで放映されている(画角はインタビュー用の舞台のみ)のだが、その映像はライブではなく少しだけディレイしている。観客席にいて舞台とモニターを見比べる観客はその時間差に気付くけれど、演劇が終わり映像だけが残ったとしたら、このディレイにはなんの意味もなくなるだろう。記録は常に語り直しであるために現実から必ず遅れるものだが、その遅れへの自覚が消えてしまえば、それこそが現実として何度も反復され得る。同じ現実が繰り返されることで初演(一回性の現実)の再現が不可能になるという逆説も『モレルの発明』の主題でもある。

 この『脱獄計画』というビオイ=カサーレスの原案に即して進行する演劇『脱獄計画(仮)』は、存在しない初演の再現として進行し、それに伴ってインタビューという「現実」も解体してゆく。それでいてインタビューは続くのだから、かなりユニークな構成だ。

 インタビューと初演、語られる対象と語る主体、役と役者、自己と他者、時間、舞台上と記録映像などなど、本来なら明確に分けておくはずの境界線を軽々と越えてゆく。

 あまりに奇妙なこの世界に説得力を持たせるのが、役者の演技だった。演技に衝撃を受けたのは久しぶりだった。本当にすごかった。特に印象に残ったのは油井文寧の老婆ドレフュース役(老人?)から役者役への切り替えで、ハッとするような鮮やかさだった。思わずキャスリン・ハンターを思い出した。

 衣装も素晴らしく、特にインタビュアー役(と言っていいのか)の石川朝日の白基調の服とやはり白でクリアソールのスニーカー。変容するようにのたうつときソールがこちらへ向けられ、樹脂に全身が取り込まれるような不気味さを感じ(この演技もすごい)、マシュー・バーニーのクレマスターを思い出した。

 

 自然に自在に何層もの境界をしかも明らかな異常を伴いながら打ち消していく方法は、あまり観たことがないものに感じた。もとより、現実と虚構の境界を侵犯する演劇は少なくないし、舞台上での役の入れ替えもままあるだろう。それを踏まえても、今回の観劇の印象は他と一線を画していたと感じた。

 ひとつには、ビオイ=カサーレスという実在するテクストへのレファレンスが可能だからかもしれない。自己言及性の強いテクストを下敷きにしたことで、役を入れ替えるという異常さも戯曲の都合には見えない。

 また、配役を入れ替えることによる権力勾配の変化が顕著に生じていないのも特徴かもしれない。たとえば、寺山修司の『奴婢訓』では格差が配役換えの動機でもあるし、そこが面白さに繋がる。しかし『脱獄計画(仮)』では、こうした権力の入れ替えが配役転換の主題にはなっていないようだ。

 演出家=総督という権力者がいて、それも代わる代わる演じられはするのだが、権力自体は空席になっているように見える。いるのかいないのか判然としないし、配役替えによって生じる様々な状況は、演出家の権力によって起きているとは言い難い。

 ここでも、ビオイ=カサーレスが島という隔離されたアノミーな状況を舞台にしたことと関連するのかもしれない。小説をそのまま舞台化していないのに、そうするよりもはるかにビオイ=カサーレスだと感じさせられたのは、かなり特異なことだと個人的には思えた。優れたビオイ=カサーレス批評であり、またビオイ=カサーレス入門としても機能しそうだった。

 ともあれ。

 演劇ならではの驚異的な体験だった。原案小説を知らなくても観た人に衝撃を与えるのではないだろうか。

 そして、自分たちが生きているこの「現実」にもこれと近い状況を感じ取るかもしれない。

 現実を担保される保証がなければ、自分が自分役であることは怪しくなる。自分が自分役である保証がなければ、現実は担保されない。

 凄い演劇というだけでなく、演劇の凄さを味わった。