柔らかい室内にあるガラスの動物園:イヴォ・ヴァン・ホーヴェ演出『ガラスの動物園』雑感

 新国立劇場でイヴォ・ヴァン・ホーヴェ演出『ガラスの動物園』を観た。イザベル・ユペール主演。もともと二年前の公演予定がコロナで延期し、昨年も企画されたがまた延期となり、今年ようやく公演が実現した。イザベル・ユペールのアマンダには二年分の期待を込めて観に行ったが、役者陣の演技は期待以上だった。あのアマンダの長広舌に途中で割り込むことはできんな。

 

 目を惹いたのは、異様なセットだった。

 暖色の壁と床に覆われた一室。色味から温かみがあるようにも思えるが、どこかグロテスクさがある。テネシー・ウィリアムズの戯曲がそうであるように、登場する母アマンダ、姉ローラ、弟トムの家族三人、それに客である弟の友人ジムは、いずれもなにかに囚われ、逃げられずにいる。それは開幕早々、語り手でもあるトムが開陳することになる。この戯曲は「追憶の劇」と言われる通り、そもそもがトムによる語り直しの物語である。すでに起こってしまった出来事を、トム自身が回想する形をとっている。

 なにが起こったのか? 目に見えるような大きな事件や事故は起こらない。ただ、トムにとっては人生の転換となる一幕(二幕物だが)だった。

 

 シアタートークでの俳優陣の答えによれば、このセットは毛皮のような柔らかい手触りだそうだ。

 

 セットの異様さは、壁や床の色だけではなかった。ダイニングか、それともリビングも兼ねた一室のようで、端にキッチンカウンターに囲まれたキッチンがあり、冷蔵庫もある。あるのはそれだけだ。他は上へと続く階段が正面の壁の先に見えるだけで、室内にはテーブルも椅子もなにもない。しかも、家族の食事シーンから始まるのだ。テネシー・ウィリアムズの戯曲から逸脱してはいない。セリフもそのままではないかと思えた(フランス語に翻訳してあるが)。

 それが、ほぼ最初の場面と言っていい食事のシーンは、テーブルがないため家族三人はそれぞれ皿を手にし、思い思いの場所に座って食べ始める。言うまでもなく、かなり行儀が悪い。これはこの戯曲の展開を考えると、かなりおかしなことだ。食卓を囲んでの会話にはならず、デザートを取りに行くのがどちらかと母アマンダと娘ローラがやりとりするところも、二人が同じテーブルにいないのでちぐはぐに見える。

 

 ローラはどうやら足が不自由らしいが(※)、母アマンダは娘が自分のことを障害者だと口にすることすら許さない。障害があるなど認めるな、それを言い訳にして社会から逃げるなと発破を掛ける。

 ここでローラの障害を巡る会話に、観客は不思議な思いがするだろう。なぜなら、このローラはかなり動き回っているからだ。足が悪いようにはどうしても見えない。キッチンカウンターの上に飛び乗るし、後にはかなり激しいダンスも踊る。

 キッチンといえば、母のアマンダはキッチンにいることが多い。キッチンカウンターの内側はアマンダの領域であるかのようだ。彼女は愛国婦人会の要職につき、雑誌のセールス電話を知り合いの主婦に掛けるのだが、それもキッチンで行っている。どうしてキッチンに電話があるのだろう?

 アマンダは若い頃、十七人もの紳士に言い寄られたことが自慢で、聞き飽きるくらい子供たちにその話をしている。セットには、ほぼ真ん中あたりに男の顔が見える。ぼやけた感じで、多少歪んでもいるようだ。部屋には父の写真が飾ってあると言うから、この顔がそうかもしれないが、アマンダは写真を示すとき別の方向を見ていたようでもあった。壁にある男の顔はひとりではないようにも見えたが……。

 

(※ 戯曲の登場人物紹介のローラの項にこうある。

「子供のときの病気のあと脚に障害が残り、片方の脚は他方よりやや短く添え木をあてている。この欠陥は舞台上では暗示以上に強調する必要はない」(小田島雄志訳)

念のために)

 

 『ガラスの動物園』という戯曲は、登場人物は四人のみ、舞台はウィングフィールド家の一室。舞台自体は小さく狭いが、登場人物それぞれの内面を丹念に覗き見ることで、実際に見ている一室の情景以上の世界を提示する。そのひとつの象徴として、ローラが収集し、大切にしている「ガラスの動物園」がある。

 ガラスの動物園とは、文字通り、ガラス細工の動物たちのことだ(母がそう呼んだ)。ローラは幼い頃からコツコツと集めてきた。ガラス細工は美しく、しかし脆くて壊れやすい。その宝物を大事にしながらローラは自分の世界に引きこもる。ガラスの動物園とは、ローラという人間の内面の象徴だ。

 

 過去の美しい思い出に囚われた母、自身の空想に引きこもった姉のいるその家から、トムは離れたくてたまらない。しかし、一家の稼ぎ頭であるため、家族を見捨てることができない。父のように家族を捨てることができない。

 そんなある日、トムは、姉に紳士を紹介するように母から頼まれる。トムが家を出ることを許す代わりに、姉の夫を家に入れろというのだ。娘の将来が心配なのだと頼み込み、トムは根負けして渋々承諾する。

 トムは、ジムという職場の同僚を家に連れてくる。ジムはかつてトムの同級生だった。高校時代のジムは学園のスターだったが、いまではトムと同じ倉庫で働き、ジム自身落ちぶれたと思っている。そのジムをローラも高校時代に知っていた。どうやら淡い恋心を抱いていたようだ。その頃、ジムからブルー・ロージス、青い薔薇と呼ばれていたことを、ローラは幸福とともに覚えている。聞き間違いから生じたジョークが呼び名に定着したものだ。

 だが、ジムはローラを覚えていない。ローラも覚えているわけがないと母に言い、ジムと会うのを嫌がる。

 ジムがきてもローラは隠れて出てこない。やがて夕食の支度が整うと、ジムも含めて食事をするからローラに出てくるように母が厳しく言いつける。

 

 一般的に『ガラスの動物園』という演劇で観客の心を最も掴むのはどこかと言うと、やはりローラが大切にしているガラス細工の壊れるシーンではないだろうか。一度目は、母とケンカしたトムをローラが止めようとした拍子に棚から落ちて壊れる。その次は、ジムとローラが二人きりになって以降。ローラがジムにガラスの動物園を見せ、その中でもお気に入りのユニコーンを見せる。

 ヴァン・ホーヴェ版ではどうなっているだろう?

 最初のトムとのシーンでは、ガラスの動物園はチラッと見せられるだけだ(壁にある扉付き棚の奥に隠してある)。ローラは悲鳴を上げるが、はっきりと壊れたのかどうかが、戯曲を知らないと分からないのではないか。そのくらい、あっけない演出。

 二度目のジムとのシーンでは、ガラス細工のユニコーンはキッチンカウンターに置かれていた。確認しておくが、キッチンは母の領域だった。

 

 結論から言えば、ヴァン・ホーヴェ版『ガラスの動物園』での最もショッキングなシーンは、ガラスのユニコーンが壊れるところではなかった。

 アマンダとトムが夕食の支度を終え、ジムを呼び、そして、ローラを無理に連れてこようとする。四人が一同に介するとき、ローラは自分の足で歩いてくるが、その足取りがかなり不自由なのだ。歩きにくそうに、しかし、その歩行に慣れているような。

 劇中で、おそらくこのシーンのみだろう。観客はこの一度だけ、この場面で、現実のウィングフィールド家の様子を垣間見ることになる。その瞬間、この演劇が描いてきたこと、描こうとしていることに気付いて戦慄するだろう。剝き出しの現実が現れた瞬間、それ以外が、開幕からここに至るまでずっと見てきた暖色の柔らかそうな奇妙な部屋は、すべて空想だったと突如気付くだろう。『ガラスの動物園』とは、登場人物の内面や心象風景を描いた戯曲だ。そして、ヴァン・ホーヴェ版は最初からずっと登場人物の内面や心象風景を見せていた。

 

 映画『ダンサー・イン・ザ・ダーク』や『パンズ・ラビリンス』では、過酷な現実から逃避するため主人公たちは自らの作った空想の世界に心を置こうとする。そうすることによって一時的に苦痛は和らぐのだが、もちろん現実の問題が解決するわけではなかった。

 この『ガラスの動物園』が描く世界は、一貫して空想の側の『ガラスの動物園』だ。だからウィングフィールド家の一室は異様でグロテスクで現実離れしたものだし、それを母と姉がほとんど共犯関係と言ってもよい態度で守り、それぞれの空想の中に引きこもっている。母は若い頃の南部での暮らしを思い返し、姉は自分のコレクションであるガラスの動物園の世界に耽っている。

 テネシー・ウィリアムズの戯曲ではかなり積極的にトムが語り手役を買って出るが、ヴァン・ホーヴェ版では彼のナレーションがところどころカットされている。物語自体がほぼ戯曲通りであることを思えば、少し違和感がある。

 すなわちこの物語は、トムが語る(語り直す)物語ではないということだ。けれども、起こった出来事はトムが体験したそれと全く同じものである。それにもかかわらず、観客が見ている光景はトムが体験した物語とは違っている。それはアマンダの物語であり、ローラの物語なのだ。その物語の裂け目から浮かび上がった一瞬の現実が、テーブルへ向かうローラの障害のある歩様だった。

 

 従来『ガラスの動物園』では、ジムがローラに付けた「青い薔薇」というあだ名や、壊れてしまうガラス細工の「ユニコーン」に、現実には存在しない空想の美しい産物という強い象徴性が与えられてきた。本作でもどちらも登場し、意味が与えられる。ユニコーンは壊れて角が折れ、他の馬と同じ形になると、「これで馬の仲間入りができる」とローラは、悪意なく壊したジムを慰めるように言う。だが、お気に入りだったユニコーンはもう特別ではなくなり、だから過去を振り払って未来へ進もうとするジムにプレゼントする。

 高校時代の自分をジムが覚えてくれていて、彼の好意を感じられた間、ローラは自分の現実を忘れられた。空想の中で伸びやかにダンスを踊ることもできた。だけど、しょせん空想だ。現実のジムは、彼が囚われていた高校時代の栄光を忘れ、そこから抜け出そうとしている。

 そんなジムがローラにも自分の殻を破るように激励し、説得し、説教したところで、ローラが変わることはないだろう。

 

 村上春樹の『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』を初めて読んだとき、僕はそのラストシーンにとても驚いた。こんな終わり方をする小説があっていいのかという戸惑いだったのだが、いまあの小説を読んで驚く人はあまりいないのではないだろうか。「そんな終わり方」をする物語はありふれたものになったから。

 そこは床も壁も柔らかく、落としたくらいではガラスの動物が壊れることもないように思える。ユニコーンが壊れてしまったのは、ローラの視点ではない、母の領分であるキッチンカウンターに置いたからだ。

 ガラスの動物園を眺めるローラ自身がガラス細工のように脆くても、この柔らかな部屋にいる限りはローラもまた壊れることはないのだろう。