李禹煥展 雑感

 国立新美術館で開催中の李禹煥展に行ってきた。

 岩と、ガラスや鉄などでできた「関係項」シリーズは何度見ても良い。「もの」を前にした鑑賞者(自分)はどこにいるのかという認識を含んだ作品だと自分は理解しているが、岩と自分の関係だとすれば(もちろん角度によって位置の認識は変わるが)二体問題として鑑賞者の認識は比較的容易かもしれないが、ここに岩とガラス、岩と鉄といった二者が関係項として出現すれば、これらを見る自分の位置はどこにあるのか。多対問題化して複雑さを増し、容易に認識しきれなくなる。鑑賞者は否応なしに作品内部に取り込まれ、どの「もの」との関係によって現在の自分が存在しているのか問い続けることになる。

 そこでは対象を物語化しない想像力が求められる。あるがままの「もの」として「もの」を捉えるのは難しい。岩が岩として、ガラスがガラスとして、そこに実在する意味を、物語を排して認識しなければならない。たとえば、割れたガラスの上に岩が置いてあるとき、その作品に象徴を見出すのは容易いこと。ガラスの割れ方は一様でなく、おそらく岩が衝突した点から細いヒビが無数に走っている。そこに見出される象徴や兆候のすべてを取り去り、ただそこにある岩とガラスとして把握するという現象学的還元、というより形相的還元的な物の見方を何度でも調整すべく「関係項」と向き合い続けたいと改めて思った次第。

 

 展示構成は李禹煥自身によるものだとか。二部構成になっていた。前半が「関係項」シリーズ、後半はカンヴァスに描かれた抽象画のシリーズだった。この絵が一同に介したものは初めて見た。

 そして、度肝を抜かれた。

 最初の部屋では、「点より」と題された、四角い点が濃淡はありつつも整然と並んだ抽象画が、幾枚も展示してあった。次の「線より」はカンヴァスに筆か刷毛で描いた縦線が並ぶ。下へゆくにつれて掠れていた。その次は「風より」と題し、カンヴァス上には線が乱雑に舞い乱れていた。

 驚いたのは、その次からだ。

「風と共に」と題された絵画群は、「風より」で乱れていた線がさらに増幅して乱れきったのか、カンヴァス上のほとんどが塗りつぶされたようになっている。ここまできて気付いたが、これはエントロピー増大則のことだ。点から線へ、秩序から無秩序へという必然的な流れが描かれている。

 無秩序極まって乱れきりカンヴァス空間は平衡に至った「風と共に」では、荒れ狂う風と、点と線との間の区別がなくなってしまった。その次の「照応」はぐっとシンプルになり、太く短く、そして赤や青などの色がついて、さらに濃淡のある美しい円柱のみが描かれる。それら複数の円柱によって構成される「応答」「対話」へと続くと、「点より」始まった変化は最終局面を迎えたかのようで、『2001年宇宙の旅』でスターゲートを抜けた後の真っ白な部屋でモノリスを見た気分になる。実際、このシリーズの最後の部屋は真っ白な壁に囲まれていて、その壁のひとつに作者が直接描いた白黒の円柱と出会うのである(「対話――ウォールペインティング」)。

 まだ終わりではない。

 出口の直前にもうひとつ部屋が残っていた。その部屋には、壁にかかった一枚の白いカンヴァス(タブラ・ラサ)と、その前に置かれた岩があった。岩はもちろん「関係項」で見られるあの岩だが、部屋に入った瞬間に直観されるのは、「点より」に始まって「対話」まで続いてきた抽象画群は、ここに置かれているこの岩が生成されるまでの経緯だったのではないのか。つまり、点の集合から世界が創造されるまでの過程に我々は立ち会ったのではないか。カンヴァス上で変化し続けて、そのカンヴァスから抜け出して現前した岩がここにある。タイトルは「関係項――サイレンス」である。

 ここに至って、ついに鑑賞者は鑑賞者自身さえも見えなくなるかもしれない。