見えている:大森荘蔵『新視角新論』雑考

 ありもしない「視点」としての「私」を尋ねあぐねて、それでは一体「私」はどこにいるのだ、と尋ねたくなろう。しかし「見る私」、事物がそれに対して「見えている私」などはありはしないのである。だがしかし、「私」はどこにもいきはしない、「私」はここにいる。「私」は奥行きのある風景の中、「ここ」に居る。「ここ」に生きて呼吸をし、「ここ」に私の五体がある。そして様々なものが連結した風景(私の五体を含んで)が「見えている」、それだけであり、それでおしまいなのである。(中略)ある風景がある姿で「見えている」そのことは「私」が見ることではない。そこには何の動作もなければ、見ると見られるとの関係もない。それはただ「見えている」という状態であり状況であり、場なのである。その場がそのような場であること、それがとりもなおさず「私」がその視点のあたりに居る、ということであって、その場の一項目としての登場人物ではないのである。

『新視覚新論』(大森荘蔵)で語られるのは、視覚風景を題材にとった「私」と記述の問題である。

 私は視覚風景の中にあり、動作や行為や思いと同一体制としてある。私が動作するのではなく、動作する身体が私なのである。これは私がないという意味ではない。認識する主観として客観に対置される「私」はいないという意味だ。視野の中心に「見ている私」がいると思われるけれど、視野の中心にあるのは「私の眼」であって「見ている私」ではない。すでに事物は「見えている」のであって、私がことさらに「見る」必要はない。

 では、私はどこから生まれてくるのだろうか? 私は私が見ていると考えてしまう。私は私が動作していると考えてしまう。
 けれども、実際の問題は、そう語るときの「私」とはいったい何者なのか、ということである。


 大森によれば、世界は行為の言葉(=「生の言葉」)と物理学の言葉(=「事物の言葉」)の二つの言葉によって「重ね描き」されている。「それによって物と心、世界と意識、脳を含めての身体と心、それらが重ね描かれることになる。それらは対立する二つの項ではなく、一にして同一なる世界の二つの言葉による描写である」ゆえに、截断することができない。

 この重ね描きのために、「私」が錯覚されてくるのだ。


善き人のためのソナタ』を想起しよう。
 監視者が被監視対象に関する報告書を書くとき、当初、物体運動として「事物の言葉」で記述していた(何時何分「ラザロはCMSとセックスした」)。「見えている」という視覚風景そのままの記述である。
 やがて、監視者は座標系(被監視対象周辺の状況)に干渉し、報告書を偽造し始める。このとき、彼は嘘を書くこともできるし、真実を書くこともできる。或いは、まったく何も書かないこともできる。選択の可能性は無限に存在する。これは、行為の「自由」である。彼は物理的に束縛されているわけではないし、身体が麻痺しているわけでもない。そして、事実、彼は嘘を書いた。問題は、そのときの彼に「私は私の意志によって報告書を偽造した(この行為を選択した)」という意識が働くことである。
 実際にはそうではないのだ。
 「報告書を偽装する(=或る行為を行為した)」という行為こそが、彼である。彼の意志から派生して「偽造という行為」が生まれたのではない。「私」なる何かがあって「書類を偽造した」のではない。なぜならば、「私」と「書類を偽造する行為」は≪同じもの≫だからである。その間には一切の作用がない。能動性も受動性も関わりがなく、ただ同じものの重ね合わせなのだ。
 ここに認識主観としての「私」を仮構することで、監視者に混乱をもたらして、観測(記述)を不能にしてしまうのだ。「私」が「預言」のように私を束縛するのは、「私」を私の身体の主人であるように誤認するからである。身体の他に「私」を想定するとき、その「私」はひどく不確かな何かになる。認識主観や行為の命令者としての「私」を仮定しているのだが、そのような「私」はどこにも存在しない。
 ――監視者が座標系に干渉し、系に「彼」が組み込まれたことで観測不能に陥った。
 これは監視者が被監視対象に接触を試みたという意味ではない。監視者がそれまでの正しい記述の在り方から逸脱して、ありもしない「私」を捏造したという意味だ。だから、監視者が系に干渉した彼自身を視覚風景そのままに記述しさえすれば、観測は継続可能なのである。彼自身を組み込んだ系は必ずしも彼の自己言及の矛盾に陥らずに済む。自己言及のパラドックスが生じるのは、記述者本人が「私」を仮構し、その「私」を記述しようと試みるときである。私が私を監視するのではない。私を監視するという行為それ自体が、「私」なのである。ここには何の矛盾もない。
 「生の言葉」は行為や動作を記述する。「事物の言葉」は運動なり状況を記述する。この二者に優劣はないし、前後関係もない。相互作用もない。それは同じものでしかない。だから、主観も客観も存在しない。しかし、人はそこに「私」の介在を見ようとしたり、客観世界の不可視性を仮定しようとしたりする。具体的には、視覚風景の中にある「私」が、視覚に先だって認識主観として視覚の主体として立ち現れているように考える。そうではない。先にあるのは視覚風景であり、「私」は常に「見えている」風景の中に存在しているのだ。だから、「私が見る」ことはあり得ないし、「見ている私」もまた無意味な記述なのだ。


 これについてはベンヤミンの「証言」がある。

 往復書簡というものは実に過小評価されている。その理由は、それが作品とか作者とかいう全然筋違いの概念に、結び付けられて考えられているからだ。しかし往復書簡は「証言」の分野に属する。それと主体との関連は、なんらかの実用的・歴史的な証言(たとえば碑文)とその著作者の人格との関連と等しく、重要性を持たない。「証言」の数々が、人の生き続けてゆく歴史から出てくる。そして、独自の歴史を持って生き続けることが、どのように生活の中に喰いこんでいるかが、往復書簡を手掛かりにして研究できる。後代の人間の眼には、往復書簡は独特に凝縮されている(これに反して個々の手紙は著作者との関連で、ともすると生気を失う)。たてつづけに読まれる一連の手紙が独自の生命を帯び、客観的な変化を遂げる。それらは、受信者が生きていた時とは別のリズムを持つだけでなく、ほかの点でも変化してくる。


 大森荘蔵が物体運動/「事物の言葉」と呼んだ記述の形を、ベンヤミンは「歴史」として考察する。