フィクションとしての身体について:スティーブン・ソダーバーグ監督『ガールフレンド・エクスペリエンス』雑感

ガールフレンド・エクスペリエンス』を観る。ときどき出現する「物語らないソダーバーグ(または、真面目なソダーバーグ)映画」である。だからこの映画を観て、「ストーリーがないことを時間軸をずらす編集で誤魔化しただけ」なんて言っても始まらない。「語りたいことがなかったら映画撮るなよ」とか言っても意味ない。『セックスと嘘とビデオテープ』の頃から、ときどきソダーバーグはこんな映画を撮るのだし、むしろこういう映画のほうがソダーバーグっぽい気もする(『トラフィック』だって物語らしい物語はない)。僕はミュトス至上主義者じゃないから楽しめたよ。
 この映画は、ニューヨークの高級エスコート嬢の日常をドキュメンタリータッチで追ったものだ。決してドキュメンタリーではないし、フェイクドキュメンタリーと呼ぶにも虚構性が勝ちすぎてるから、フィクションはフィクションである。主演は有名なポルノ女優サーシャ・グレイ、というのが公開前に話題になった。
 主人公のエスコート嬢は「人格学」という如何にも胡散臭い本を信じて、仕事にも活用している。彼女の恋人が詰るように、人生を委ねるようにそんな本を信奉する様子はむしろコミカルだ。ソダーバーグの鬼才ぶりってのは、ポルノ女優演じる高級娼婦に「私は本の中に生きている」と言わせるところにあるのかもしれない。娼婦とは自己の身体をフル活用する職業のように思えるが、彼女のクライアントは必ずしもセックスを求めるのでなく、癒しを欲しがる。癒しとは現実に得られることのない虚構である。そして、虚構の代表格である「映画」は、この癒しを全面的に提供する欲望装置としてあった。「映画」では、虚構を虚構ではないと保証する対象として身体性は描かれる場合が多い。身体は常に「いまここにあるもの」とされてきたからだ。
 けれど、いまや映画はますます身体性から虚構性へ移りつつあるように思える。そもそも映画と身体性はあまり折り合いがよろしくないのではないか。ここでいう虚構性はポストモダニズムにおけるシミュラークルとは違う。映画の持つ虚構性と「真面目に」向き合う監督は、身体性に特化した職業人を別のレイヤーから捉えている節があるのだ。考えてみればこれは当然の話で、たとえば娼婦はセックスを職業としているのだから、セックス自体を客観視して受け入れなければならない。セックス(あるいは「ガールフレンド」という関係性)そのものを客観的に把握し、演じられるべき対象であると認識するとき、自己の身体は「その虚構」を紡ぎ出すための記号でしかなくなる。劇中で繰り広げられる固有名詞が頻出するモノローグも、自己の身体について、その身体から一定の距離を隔てて観察する自己の語りである(このモノローグをもって現代ニューヨークを描き出したなんて時代錯誤な言説には与しない)。物語が生まれる土壌はこの距離にあるとも言えるが、しかし、語るべきエスコート嬢には自らの物語を語るつもりは端からないのだ。それもまた虚構でしかないことを知っているからである。
 そうした彼女の恋人がジムトレーナーという仕事に従事している点も興味深い。彼もまた身体性を演じる職業人である。美しい肉体を創り出す職(ここでも客体化による虚構の創出は存在する。彼自身の肉体はモデルだ)にありながら、彼はトレーナーからジムのマネジメントへ移りたいと要求する。つまり、身体性からより距離を置こうとする。
 身体を描きながら、身体から離れてゆく。性の描出は身体(セックス)から物語(癒し)へと移行するだろう。そして、その物語はエスコート嬢のものではなく、ジムトレーナーのものではない。物語自体は虚構であり、クライアントのためのひとときの夢でしかない。ソダーバーグは物語らないことで、残酷にも現実を白日の下に晒す。だから欲望装置として鑑賞すると、梯子を外されたような感じに陥る。
 同じテーマで描かれた映画に、アロノフスキーの『レスラー』がある。『レスラー』のラストシーンはとても哀しい。この哀しさはたとえば『グラントリノ』のそれとは別物だ。『グラントリノ』が一貫して「老い」という身体性にこだわり続けるのに対し、『レスラー』は「老い」を描くように見せかけて、「老い」を含む彼の人生そのものを栄光という虚構の中に落とし込む。彼の人生は彼のものでさえなくなり、恐ろしいことには、彼はそこに自足を見出す。これはミッキー・ローク演じるレスラーが自らの虚構性を発見するまでの喪失の物語として描かれるから、語られる映画ではある。けれど、『ガールフレンド――』の人生が本の中にあるように、『レスラー』の人生がリングの中にしかなかったという結末は、老いや死さえが無意味化されてしまうほど追い込まれることで残酷さを増す。これらの映画は、「身体性」という語に含まれる嘘を暴きだしている。
 シミュレーショニズムへの傾倒が行きすぎたことで注目を一心に集めた「身体性」だが、これもまた神話化されてしまったようだ。自分の身体はいまここにあると言うのは容易い。けれど、それはあまりに時代錯誤な通俗観念ではなかろうか。身体をどのレイヤーで捉えるかという問題(たとえばマクロでもミクロでもない中間層という階層から語ること。フレーム問題も同じ問題系だ)は、今後、ますます深化してゆくだろう。それは複製概念とは全く違った捉え方で身体性を無効化してゆくだろう。身体は認識によって客体化されるが、複製化されはしない。「いま、ここ」の概念が変容するのであるから、この映画の「エクスペリエンス」というタイトルは素晴らしいと思う。