一瞬と時間:クリストファー・ノーラン監督『インセプション』雑感

 先月、森山大道さんとお話をさせて頂く機会があり、以来、写真というメディアの特殊性についてしばしば考える。演劇、映画、音楽、文学等のいわゆる「表現媒体」が、アリストテレス詩学に謂うところの「始まりがあって中間があって終わりがある」線形時間的な世界観の上に成立しているのに対し、写真だけが本来人間の知覚関心上に立ち現れることが不可能な「一瞬」を捉えることができる。一瞬とは、数学的にしか存在しない不可能な時間である。すべてが動き続ける世界において、一瞬なんてものは存在しない。
 そして、被写体はもちろん静止してはいない。風景だろうと静物だろうと何らかの動きが生じている。そこに自由意思があろうとなかろうと、世界から独立して存在しているものはない。大気は揺らぐし、太陽は傾くのだ。更に言えば、写真家本人だって静止していない。相対性理論以降、絶対的な時間や空間はそれこそ数学的な系としてしか存在できないのだから、写真家に動きがあれば、たとえ対象が完全静止していたとしてもやはり動いている。ともかく、写真はそうした決して静止することのない対象の動くままに、あり得ないはずの一瞬を捉える。言い換えれば、一瞬のうちに動きを表現する。森山さんの「アレ・ブレ・ボケ」という表現は「一瞬」の不可能性と可能性をひとつのものとして描出したものだし、車窓から流れる景色をフィルムに収めた路上シリーズは相対性理論の写真的実践と言えるだろうと思う(以上の意見は森山さんが語られたわけでなく、僕の勝手な見解です。念のため)。
 特異なメディアとしての写真が描き出すこうした「一瞬の動き」を小説にできないだろうか、とずっと考えていた。と言っても、もちろん妄想や回想を使って、というのではない。冒頭と結末を同じシーンにして内容を回想に委ねるのは、映画『サンセット大通り』を引くまでもなくよく見られる構成だ。時系列の移動は新味のあるアイデアではない上、いまやそれ自体においてテーマ性すら浮かび上がらない。また、一瞬のうちに繰り広げられる妄想にだって類例はたくさんある。それらは要するに、夢オチと変わりない。
 そもそも「一瞬」の表現とは、写真がそうであるように、人間の知覚する認識関心の外部に存在するものだ。時間軸上の前後は記述できても、その一点を語ることはできない。ましてや抽象的な点にすぎない何かを物語化することは困難だ。
 では、全く不可能な記述に関する思考実験をしているのかと言うと、そうではないのである。

インセプション』という映画が、今日から公開されている。クリストファー・ノーラン監督・脚本、ディカプリオと渡辺謙が出演している。珍しく公開初日に観に行った。




***以下、ネタばれを含みます。ご注意ください***




 映画『インセプション』は、他人と夢を共有したエージェントがその夢に侵入してその人の記憶から機密情報を抜き取る、という設定だけど、この設定自体は正直どうでもいい。記憶の「抜き取り」から記憶の「植え付け」(インセプション)へと話は展開してゆくのだけど、まぁこれも正直予測される展開だ。だからこれだけなら、ディックの小説を映像化して失敗した映画(どれとは言わないけど)みたいになってしまうだろうが、もちろんこれだけじゃない。なにしろ、ノーラン監督ですから。
 主眼は、特殊な時間論とその描き方(記述法)にある。
 記憶の植え付けは潜在意識の深いところで行うほうが効果的だという。そこでチームは対象の夢に侵入して、その夢の中で更なる夢へと侵入する。劇中では、睡眠状態にある人間の潜在意識を階層化して、これを夢の階層として表現してある。つまり、夢の中で見る夢の中で見る夢の中で……という入れ子構造になる。そして、より深い夢(潜在意識)に下りるにつれて、夢のアーキテクチャが不安定になってくる。不安定になると危険性が増す。目が覚めてもまだ夢の中、というネタはもはやミステリにならないけれど、逆転させるだけでとても興味深い設定になった。が、それだけならやっぱり真新しさはない。
 問題は、登場人物が階層を下りるにつれて時間の流れが変化することである。これは僕らが夢を見るときの体験から実感可能である。実際に人が夢を見ている時間はわずか数分なのに、夢の中での体感時間はそれを遥かに凌いでいるように感じる。知覚作用の速度が上がるから、相対的に時間を長く感じるらしい。夢の中の出来事がスローモーションで流れるのでないことは、こうした知覚と時間の相対性の影響だ。
 そこで、第一階層では「一瞬」なのに、第二階層では数分になり、第三階層では数十分になり、第四階層では数時間になる、という面白い現象が起こる。そして、この各階層は同じ人間の潜在意識内にあるから、上の階層で何かが起こると下の階層の世界そのものに影響する(上で浴槽に頭を突っ込まれると、下では洪水が起こるのだ)。更に、下の階層に下りるためには、夢へ侵入するためのオペレーターを一人、その階層に残しておかなければならない。このオペレーターはその階層にチームを連れ戻すための仕掛けを色々と執り行っている。彼らはチームで行動しているから、全員一緒に上の階層へ帰還しなければならない。この辺りの条件づけが見事で、だからこそ映画内の時間論が極めて有効に「物語的に」機能する。
 まとめると、こうなる。それぞれの夢の階層でそれぞれの登場人物が行動している。各階層はまったく異なる舞台であり、時間の流れも異なる。だから、ミッションをクリアするためのタイムリミット設定も異なる。けれど、その実、これらは同一の潜在意識世界であり、そこで流れている時間は同一なのだ。それらの出来事はすべて同時に起きているが、時間の流れが異なる。すなわち、数分の出来事と数十分の出来事と数時間の出来事が同時に起こっている。そして、それらは一瞬の出来事なのである。この場面の見せ方が素晴らしい。帰還の瞬間は感動して鳥肌が立った。

 一般的な物語記述においては、通時性という基本原則がある。始まりがあって中間があって終わりがある、という時間論だ。けれど、時間認識の異なる世界を同時に記述する場合には、共時性として描出される必要が生じる。この一瞬の物語を描くのに、ノーランは通時性と共時性を混淆して不思議な映像を見せてくれる。これは紛れもなく、妄想でも回想でもない、新しい時間映画の描き方だと思った(コリン・ウィルソンの『賢者の石』のタイムトラベルも同じようなアイデアだったかな、とおぼろげながらふと思う)。
 こうして見てくると、一瞬や瞬間というのは時間ではなく、無時間なのだ。無時間をどう描くかという問題は、記述の根幹にかかわってくる。
『意識と本質』(岩波文庫)のなかで、井筒俊彦はこう語っている。

 ……「元型」イマージュには、このように動き、変化して物語り進展するかわりに、全部が安定した一挙展開的構造体として現成するという、まったく別の側面がある。(中略)
 ここにも、動きがないわけではない。動きはたしかにある。というより、至るところに生々躍動する宇宙的存在エネルギーの沸騰がある。だが、「元型」イマージュが神話や物語として展開する場合とは違って、それは無時間的な動き、いわゆる「全体同時」的動きである。
 例えば胎蔵界マンダラでは、存在の太源である中心点から発出する創造的エネルギーが四方に広がって周辺部に達し、そこからまたひるがえって中心部に戻る。ゼロ(あるいは、一)と多との間の交互の存在振幅(=意識振幅)が、そこに見られる。しかしそれは、水面の波紋の動きのように、時を追って次々に移っていく動きではない。始めから、全体が同時に現成しているのだ。
 (中略)
 ……金剛界マンダラは、たんに密教修行者の意識深化過程の図示、あるいは意識深化を実現する目的で使われる瞑想の手段、なのではない。むしろ、第一次的には、金剛界マンダラも、胎蔵界マンダラと同じく、意識・存在の「元型」的構造図なのである。ただ、胎蔵界マンダラの場合とは、その構造化の原理を異にする。すなわち、金剛界マンダラは、事物の「元型」的「本質」構造を、深層意識の展開と還元の過程という動的な形に組み替えて形象化する。但し本来的には、すべてが始めから完全に現成しきってそこにあるこの「元型」空間では、過程とはいっても時間的過程ではない。構造的過程である。あるいはまた、すべてが時間的に移り変っていきながら、しかも移り変ったその場で、そのまま無時間化されていく、と言った方がいいかもしれない。いずれにしても、全体として見れば、そこに現成するものは一つの無時間的空間なのである。

 ベネディクト・アンダーソンが『想像の共同体』で分析したように、"meanwhile(この間)"が近代小説に必要な国家共同体的空間を生んだとすれば、物語記述者が同時性を突き詰めた果ての「一瞬」を意識し始めるのも当然のように感じる。これが物語否定(アンチ・ロマン)にさえ向かわなければ、同時性から共時性へ、更に通時性との連環構造を見出そうとするとき、「一瞬」こそが新しい物語を語り始めるのではないかと思っている。あ〜、近代の超克とかそういうことを言っているのではない。念のため。