夏の読書感想文③:トマス・ピンチョン『メイスン&ディクスン』雑感

 彼等をして、故国を離れ、荒波に乗出し、この世の果てまでも行くぞと決意せしめたものは、――此処にいらっしゃる天文関係者の方々には失礼ながら、――天の出来事それ自体ではなく、寧ろ、もっとずっと卑小な、人間の様々な欲求の集まりだったのであり、金星が暗くなるという現象は飽く迄その主たる対象でしかなく、――太陽視差を定めたいという王立協会の意向にしてもそうした欲求の一つだった訳であるが、――ならば観測士本人達の欲望はどうであったか、若しかすると実はそれほど学問的ではなかったかも知れぬ欲望は?

 ついに邦訳された『メイスン&ディクスン』(柴田元幸訳)。訳者あとがきでは「ちょっとした事件である」と触れてあるけど、個人的には今年一番のニュースです。嬉しい限り。本当に。思えば、池澤夏樹氏個人編集世界文学全集(河出書房新社)のピンチョン篇が『重力の虹』でなくて『ヴァインランド』だと知ったときには(ええ、買いましたさ)、『重力の虹』は絶版のままなんだな、とひそかにへこんでいた情報弱者たる私ですが、今年は『競売ナンバー49の叫び』が筑摩書房から文庫で発売されるわ(ええ、買いましたさ)、新潮社では全小説が改めて訳出されるというわで、電子書籍バイスの黒船来航なんかよりよっぽど衝撃的な出来事でした。
 前置きはさておき。
 邦訳の順序としては『ヴァインランド』の次のピンチョンの小説が『メイスン&ディクスン』だから「全小説」の嚆矢にこれを持ってきたのかな、と特に考えるでもなく当然のように思っていたのだが、ちょっとページをめくってみると誰だって、あれれーおかしいぞー、という怪訝な思いに駆られるだろう。……だって、読み易いから。
 もちろん小説の良し悪しとリーダビリティの高低はあんまり関係ないとは(一読者の私見としては)そう思うのだけど、ピンチョンの小説が読み易いとどうして読み易いのかと考えてしまうところに、もうなにか目に見えない陰謀に嵌まっている気さえしてくる。そこで、記事冒頭に引用したうんぬんかんぬん。――ハッ!?
 ――王立協会の所為か、と。


 まずは、あらすじをざっと。大英帝国王立天文台に務める天文学者チャールズ・メイスンとその助手となった測量技師ジェレマイア・ディクスンは、王立協会から金星日面通過の観測を命じられる。アフリカはケープタウンへ赴き、あるいは大西洋上の孤島セントヘレナ島へ赴き、さて大仕事を終えて本国に帰国すると、折しも天文台長が他界したこともあって立場が悪くなっている。やがて、二度目の金星日面通過までの間にアメリカ大陸に渡り、英仏の植民地戦争の後始末としてペンシルヴェニアとメリーランドの間の境界線を引いてこい、と飛ばされる。そんなメイスンとディクスンを新大陸で待ち受けていたのは――。


 とりあえず、ひとこと。胡散臭い。ふたこと。相変わらず、胡散臭い。
 18世紀アメリカが舞台であることを思えば、胡散臭い人物としてリストに上るのはベンジャミン・フランクリン、19世紀末ならニコラ・テスラ、江戸時代なら平賀源内。電気で有名な人物はなぜか必ず変人扱いされるという先入観があるものだから、サングラス掛けた粋な紳士としてフランクリンが現れると、来たなようやく、とニヤニヤするわけだが……。
 ……見立てが甘かった。この小説のフランクリンは意外に常識人で、周囲の噂話などからは政治家然としたところも散見できて、変人風ではあるんだけど、他の登場人物の胡散臭さには到底敵わない。というより暗躍している印象で、それほど直接的に絡んでこないので、次第にその存在を忘れてしまう。英国議会で何かやっているらしいが、正直どうでもよくなってくる。
 史実の則ったお話なのに胡散臭い組織に事欠かないというのがまず驚きで、王立協会、東印度会社、フリーメースン、イエズス会、アングリカンにクェーカーにインディアンに果ては中国の風水師まで巻き込んでのお祭り騒ぎ。ピンチョンの小説は祝祭的な雰囲気が強くて誰かがどこかで酔っぱらって歌っているシーンはよくあるけど、今回は、殊に新大陸に渡ってからは、測帯(ヴィスト)を引くのに木を伐り倒さなくてはならないし、食事は必要だし、道案内のガイドも要るしで、とにかく大人数の移動となって「村ごと引き連れている」ようなもの、しかも星の位置から緯度を計算するから働くのは夜であり、連中はテントの中でも酒場でも始終騒いでいるのである。メイスンとディクスンの側から見ると望まぬ旅である以上「中断された祝祭」かもしれないけど、アメリカで拾った胡散臭い人たちにすれば(そして読者にしてみても)「終わることのない祝祭」といった感がある。
 祝祭的というアナーキーな状況は、王立協会的な秩序と真っ向から対立する。
 この小説の読み易さと王立協会の関係を考えるとき、「線を引く。分類する。観測する。測量する。記述する」こうして与えられる記号的な配置(記号と物の二元論)をそもそも王立協会は望んでいるのであって、ペンシルヴェニアとメリーランドの間に引かれる「真っすぐな」境界線もそのためのものだ(金星の日面通過の観測も同様)。測帯と太陽視差観測との相違は、後者が天体を客体的に観測し計算結果を記述し報告するのに比べて、前者では自分の足元にある大地に、実際に「線」を引かれなければならないということ。ところが、そこは未開の新大陸であって、すでにブリテン島の一部を囲い込み(エンクロージャー)している英国とは事情が異なり、分譲地として配列し直される以前にすでに人が住んでいる。住んでいるのはインディアンだったり、囲い込まれた英国から流されたり逃げだしたりしたスコットランド人やアイルランド人やウェールズ人たち。メイフラワー号で新教徒の楽園をと目指した志など当の昔、独立戦争直前、18世紀中葉のアメリカは有象無象の胡散臭い連中の巣窟となっている。しかも、誰ひとりとして、自分たちの住んでいる大陸を植民地だなんて思っていない。いわば、そこにいるのはすでにして「アメリカ人」なのだ。だから、彼らにしてみれば、勝手に境界線を引かれる筋合いはない。土地を巡る訴訟は日常茶飯事。天文学的問題は政治問題と直結する。それに"Go west"の欺瞞、西に向かって線を引くとはいえ、王立協会の思い描く抽象的な「西」は大地の上に未だ存在せず、西とは異界以上のものではない。
 こんな新大陸に(しかも西へ行くほど荒野となる)境界線を引くなんて荒唐無稽な計画を、天文学者と土地測量士の余所者ふたりで統御できるはずもなく、今回ばかりは主人公たちの責任ではなしに、ストーリーがあっちへふらふらこっちへふらふら落ち着かなくなってゆく。主人公ふたりの名誉のために言えば、彼らは頑張って真っすぐな線を引こうとしてるし、現に引いている。パラノイア性に関して言えば、確かにメイスンには少し擡げてきてるけど、それでもピンチョン描くところの他の主人公たちに比べるとかなりまとも。なんと言っても、彼らはれっきとした科学者であり、技術者である。観測、測定、記述なんてお手の物。王立協会的というか啓蒙主義的というか、そうした合理主義的思考にどっぷり浸かっている彼らをして、新大陸そのものに内在するアナーキー性が度しがたいというだけで。この「ヨーヨー」はおかしな主人公たちの所為じゃなく、新大陸に境界線を引くという一大プロジェクトの齎すそもそもの「笑える悪夢」が結実した「現実」。
 こう考えると、この小説を読み易いと感じるからには、王立協会的な思考が現代の我々の基礎に植えつけられていて、フィクションを前にしてさえ、逃れ難く結びついているのだろう。この物語はメイスンとディクスンに寄り添いながら進んでゆくのだし(前半、太陽視差を計測するメイスンが「狂人」マスクラインと二人きりでセントヘレナ島に残された可哀想さ加減は、あまりに可哀想ですごく笑える)、彼らは「物語の背景」から様々な妨害を受けつつも、それでも「真っすぐな」線を引こうと尽力しているのだから。

 さて、組織ばかりではない。次々現れる登場人物のすべてが胡散臭い。フランクリンを置き去りにするくらい胡散臭い人物には困らない。そう言えば、「置き去り」もまま見られる。例えば、アメリカに渡ってから何度も話に出てくる〈基督の寡婦〉という謎の一派がある。イエズス会の一組織というが、異端だろ? で、ここから風水師とイエズス会の異端者の間でパラノイア戦争が巻き起こるはずじゃないのか、ムダに鰐とか出てきて、なんて思っていると、突然、梯子を外される。まったく、メイスンとディクスンが命がけで物語を本筋に(測帯上に)戻したんじゃないか、と思えるくらい。なるほど、力及ばず漏れてきたのが張大尉か。そして、ふたりが弱ったところでついにスティグが本領を発揮し始める――!
 新潮社ホームページ内「ピンチョン全小説」サイトに、佐藤良明氏、柴田元幸氏、池澤夏樹氏の座談会がアップされている(「新潮」五月号だったか、ピンチョン特集号に掲載されたもの)。その中で池澤氏がピンチョンの小説は「キャッシュメモリ」の蓄積が凄いというような意味のことを仰っているけど、『メイスン&ディクスン』ではキャッシュの削除もまた激しい。永久時計のエピソードはそれっきりなのに、ヴォーカンソンの鴨は引っ張るのか? という展開は驚きだったけど。
 でも、この時計の話、実は本筋に関わってるんじゃないのかな……?
 なにしろ、「十一日問題」が浮上するのは、常に正確に時を刻む永久時計が盗まれた後だからだ。もっと言えば、本格的に測帯の仕事を始める前に時計を失ってしまう。ここは分岐点だ。物語が錯綜し始めるのもこの辺りからで、原理がいっさい不明の永久運動しているとしか思えないこの「時計」が、実はかろうじて新大陸における王立協会的な物語を支えていたのかもしれない。尤も、その時計自体は王立協会を通じて渡されたものではないけど。
 面白いことには、時計を所持するディクスンが、原理不明なこの時計を手元に置いておくのを非常に恐れていること。知悉している科学の常識が通じない「時計」は、ディクスンにとって悪夢以外の何者でもない。憂鬱症のメイスンと違って、いたって陽気で呑気で若干空気の読めないディクスンを、そこまで恐れさせる「時計」とはいったいなんなのだろう? 徐々にディクスンが陥ってゆく過度な分類への拒否反応。時の流れを刻むことと大地に境界線を引くことは、同じ「測量」に基づいている。

 ディクスンが答える。「五度。一日の回転の中の、時間にして二十分ぶん。それだけあれば何だって出来ます、――食うべきでない魚を食う、恋に落ちる、歴史を変える命令書に署名する、昼寝する……? 地球上にこれだけ人がいて、二十分間の値打ちを知らぬ者は居りません、一分一分が真珠です、その真珠が、一つ又一つ、忘却の淵へと滑り落ちてゆく」
「或いは、あと四分の一度足せば、二十一分」中国人が目を悪戯っぽく光らせる、「云ってみれば、オハイオを越える。耶蘇会が中国の輪を三六〇度に約めた時に取除いたのが正に五分と四分の一度でした。貴方がたの暦から除かれた十一日と、若干似てませんか? 同じ疑問が浮びます、――切取られた方位は何処へ行ったのか? どうやって取戻せるのか? ひょっとして貴方がたの五度の測帯は、一種の……貯蔵庫だったとか?」

 やがて測帯が引かれると、ヴォーカンソン作製の機械鴨は機能を増して、ラインに憑かれたようにその上を離れない。人工的な何か。分類し、測量し、線を引くこと。では、歴史とは何か? 史実を基に創られた小説のなかで、歴史を巡る論争では一人の若い作中人物によって、こう語られる。

 真実を主張する者は、真実に見捨てられるのです。歴史は常に、卑しい利害によって利用され、歪曲されます。権力者達の手の届く所に置かれるには、歴史は余りに無垢です、――彼等が歴史に触れた途端、その信憑性は一瞬にして、恰も最初からなかったかのように消え去ります。歴史は寧ろ、寓話作者や贋作者や民謡作者やあらゆる類の変人奇人、変装の名人によって、愛情と敬意を以て遇されるべきであり、そうした者達によって、政府の欲求から、そして好奇心から遠ざかっておれるよう敏捷な衣装、化粧、物腰、言葉を与えられるべきなのです。イソップが寓話を語るしかなかったように、

 で、問題の「十一日問題」。そして、「貴方がたの五度の測帯」は一種の貯蔵庫なのか……?
 事の発端は、イギリスがグレゴリオ暦を採用したとき(同じ騒ぎは日本でも明治時代に起こる)。「グレゴリオ暦(現行の太陽暦)は一五八二年にグレゴリウス十三世が導入したが、当初はカトリック教の国でのみ採用され、英国が採用したのは一七五二年。この改正に対する民衆の反感はきわめて強かった(訳注)」。渡米以前のメイスンに対して、旧暦九月二日の次の日が新暦九月十四日になることで十一日が盗まれた、とメイスンの父を始めとする故郷の連中が恨み言を述べるくだりがある。もちろん天文学者メイスンはそんな愚痴は何の意味もないと知っている。単に暦が替わるだけだと割り切るだけの知識がある。が、この言い争いも、渡米以前のこと。
 暦も時計と同じく時の分類であり、土地の分割である。これもひとつの「囲い込み」。
 境界線を引き始めたメイスンは、囲い込まれなかった「時間」である「十一日間」に囚われ始める。だけでなく、この「時間」はそのうち測量隊全体を巻き込んでゆく。あたかも永久時計をなくしたディクスンに宛てた、ディクスンの先生エマスンの送った手紙の一文を立証するかのように。曰く、「時間とは目に見えぬ空間である」。
 メイスンは失われた十一日間に取り残された秘密の体験をディクスンに語る。イギリスにとっては存在しない日である、一七五二年九月三日に転がり込んだ体験である。ここでメイスンは、測帯を引く作業が「十一日周期」に進んでいることを想起している。
 境界線の両側には時間も大地もはっきりと見えるが、境界線を引いている当人には時間や空間はどう見えるのだろうか。「失われた十一日」は彼岸と此岸の境界さえも曖昧にする。それは死に似ているが死とは非なるもの。境界を引くという作業は「〈普通の時間〉と我々が考えている直線の道と一点で接しながらも、その道から排除されたまま、無限に自らを反復しているのだ」と、メイスンは考える。
 このテーマは形を変えて反復される。
 ダービーとコープという下請け人がいる。測量隊のメンバー「鎖使い」で、踏査してきた距離を正確に保つのが仕事。彼らは常に二人一組で行動し、酒場ではメイスンとディクスンの名を騙ったりしている。二組のコンビはこの挿話の間、鏡像関係にある。

 二人はチェーン数を正確に保つために小さな木杭を十本交換する……(中略)……杭の紛失には二人ともひどく神経質になっており、万全を期すべく、十チェーンではなく十一チェーンの後に杭を交換するようになった。即ちコープ氏の方が一本は手元に留めたまま、九本のみをダービー氏に渡すのである。ところが、大抵どちらかが取決めを忘れてしまい、いつの間にかかつての十チェーン法に戻ってしまう……。
「じゃあもう、何マイルもずれておるかも知れんじゃないか、」ディクスンの眼がまん丸になっている。
「ところがですね、数の神様の為す神秘の御陰で、」ダービーが云う、「私等の誤りは、今まで常に、完璧に打消し合ってきたのです。」
「そうでもなけりゃ、サスケハンナからポトーマックまで測ったら、航程線からまるっきりずれちまいますよね、――」
「何リーグも、多過ぎるか少な過ぎるか、幽霊リーグが出来ちゃうよな、空間にぽっかり穴が開いたみたいにさ。」


 こうして引かれた線はペンシルヴェニアとメリーランドの土地分割線だが、メイスンとディクスンふたりの預かり知らぬ未来においては「メイスン=ディクスン・ライン」として、南北アメリカの国境線として機能する。奴隷制の在り方の境界区分としても作用し、作中で幾度も現れる奴隷制の現実にメイスンもディクスンも嫌悪感を覚えるが、新大陸の「線」は彼らの感情など関係なしに奴隷制に関わる重要な要素として作用するのである。
 奴隷制もやはり線引きであって、列強植民地における主人と奴隷を区別する線はあくまでも恣意的に合理化された秩序でしかない。その線分をふたりは到るところで目撃する。自分たちが新大陸に引いている「線」が、後に奴隷制の境界として機能するなどとはもちろん知る由はないのだが、彼らが奴隷制の上に顕在化した合理主義の線を越えなければならないと考える根底には、ラインが「現実」に及ぼす権力に対する嫌悪感がある。そして、そのラインが当たり前になっていることに対しても。幾度も繰り返される奴隷制への言及にも、ふたりのそうした権力に加担してしまっていることへの自覚と、歯痒さが描かれる。
 あくまでも恣意的に世界に引かれ、そして引かれてゆく境界線に懐疑を抱き始めるメイスンとディクスンは、彼ら自身は王立協会的な地盤の上にあり続けざるを得ない「現実」と、「線」の持つ意味との間でジレンマに陥る。18世紀大英帝国に生まれ育ち、科学者技術者としての教育を受けてきた彼らは、合理主義的な「線引き」の思考から逃れることはできない。訪れた未知の大陸(terra incognita)に翻弄されることで、このジレンマはいっそう強くなってゆく。2章終盤で描かれるあり得たかもしれない物語は、それでもあり得ないだろうという感慨を読み手に与える。
 やがて新大陸を後にしたメイスンはロンドンにも故郷にも留まることなく天体を観測し続け、測量仕事を各地で続けるディクスンは地中世界へと潜ってゆく。まるで囲い込まれた大地の絶対性を否認するかのように。
 あれほど嫌だった新大陸での仕事の後に英国に戻ってみると、ふたたびアメリカへ渡ることを夢見始める。荒野としてのアメリカ、線を引かれるべきアメリカ、その実、線が引かれる前のアメリカ。しかし、一度線が引かれてしまえば、「囲い込み」は否応なく進行する。彼らは、彼らの知る「アメリカ」、失われた十一日間や幽霊リーグの中にあるアメリカを夢見続けるのだろう。かつて存在したかもしれない、しかし二度と戻ってはこない新大陸。それらを描き出すにも、結局は境界線が必要となってくる。3章を覆うトーンが新大陸でのお祭り騒ぎに比べて落ち着いた色彩なのが印象的だ。
 物語の終わりに至って、メイスンがパラノイアを患っているのも無辺なるかな。なまじ境界線が存在するから、あちらとこちらを意味あるものとして繋げてしまう。メイスンとディクスンの冒険がこういうラストシーンに収斂してゆくのを目の当たりにすると、或いは、この小説はピンチョンにとって(作者の血縁におけるルーツという意味を度外視したとしても)始まりの地点に位置するのかもしれないと思えてくる。線は引かれた。現代アメリカ、または現在の世界から、この線自体を消すことはできない。ラインズゴーオン。それでも――
 ――「一時だ、とピアスは云って、井戸に落ちる」までは、
 ライフゴーズオン。