夏の読書感想文①:鎌池和馬『とある魔術の禁書目録』雑感

とある魔術の禁書目録』既刊23巻(SS2巻含む)を大人買い&一気読み。いやぁ、おもろい。おもろいよ!!
 圧倒的なスケールと情報量、次々に投入される魅力的なキャラクター、そのうえめくるめく展開の速さにストーリー自体の面白さと、まぁ語りたき事柄は多々あるにつきだけど、これじゃきりがない。

 科学と魔術が交差するとき、物語が始まる。って看板に偽りなしで、境界線が曖昧になってゆくというか、絶対的な価値観のようなものを揺らがせてゆくというところにも面白みがあり、それは科学とオカルトの境界だけじゃなくて、強者と思われていた超能力者や魔術師(そもそも魔術は才能のない弱者が手にした能力だそうで)が強大な力ゆえに悩んだり、強者の側にいたいと願う信奉者たちが強者の力を目の当たりにして無気力に襲われたり(16巻は感涙ものである)、何が善で何が悪かの基準のない世界での自己の立ち位置に悩みながらも突き進む作中人物たちの誰もに共感できたりする。主人公の敵たちにも過去があって事情があるのだ。
 状況が拡大するにつれて主人公中心のストーリーが王道展開の枠をはみ出してって、特に16巻以降は最初からクライマックスな状況にもかかわらず引いた筆致で描かれるから、これほど危機的状況の最中にありながらどこか静穏にさえ思える話の運び方なんてまるでカズオ・イシグロのアレみたいだったりするのだが、うん、これは単にとある作中人物のステータスからの連想なのかも。ホント「妹達」は清涼剤です。ほえぇ最近の中高生はこういうとこから読書体験を始めるのかぁ、とおっさん臭いことを感慨深く思いつつ、こっから派生してゆくなら彼らの興味はどこへ進むのだろうか? と思いを来し、「次に読む本は『家畜人ヤプー』が良いんじゃねえのキャハ☆」と悪意まみれに提案してみる。
 ま、いまさらあれこれ言うに及ばない有名作品なわけで、余計なことばかり口走ってると昔からの読者に怒られそうなので、とりあえず言っておかなければならないことを書いとこう。
 アニェーゼは早く超機動少女カナミンのコスプレをしやがれです。


 あれこれ語るに及ばないとは言い条、それでは読書感想文にならないのでよしなしごとを連ねてみる。
 ストーリーを一言で述べると、「とある不幸な少年のとある不幸な一日」。あまりに不幸すぎるので日常的に不幸な一日を過ごしています。展開の速さは各エピソードが一日に凝縮されるからかも。
 とある不幸な少年上条当麻は、学園都市と呼ばれる科学の街の高校生。東京西部に広がる隔離されたこの街の文明は、外の世界よりも二、三〇年進んでいる。学生たちのカリキュラムは超能力開発。そこに訪れた魔術世界の少女インデックス。彼女は一〇万三〇〇〇冊の魔道書の原典を管理する「禁書目録」という重要人物だった。おいおい魔術なんてあるわけねえだろ、と科学どっぷりの街で暮らす上条当麻は当惑するが、少女を襲う魔術師が本当に現れて――というところから物語はスタート。
 作中人物の配置が絶妙で、これは小説構造の多層化現象としても見ることができる。キャラクターの布置と配列のセンスに感嘆し、これが魔術をベースにした物語を組み立てる上でかなり有効に機能しているかも、と思わせる。
 魔術発動の設定としての「偶像の理論」は、一見恣意的な取捨選択として立ち現れたように見える世界観(魔術サイドと科学サイドという二項対立)にリアリティを与える。いわば、シリーズ全体に「偶像の理論」が適用されてるようなもの。ここに、物語の魔術的効果が現前する。たとえば、ロシア篇における上条のパートナーの変遷はまさに圧巻。戦闘系の少年の脇に解析・分析系の少女を置く、というほとんど偏執的に整えられた位置づけはもはや様式美とさえ言ってもいい快さがある(もちろん解説要因という役割はあるのだろうけど)。見て快いものは美である@トマス・アクィナス。これまた偶像の理論でしょうか?
 てなわけで、インデックスやラストオーダーにあやかって、構造解析してみる。
 まず、魔術の取り扱い。神話や伝承を基にした術式の組み立てという解説が所々で語られるが、てことは魔術に制約は付き物ってことで、仲間がピンチになったからって魔力がグンと跳ね上がって反則技を繰り出したり、とかはできないってこと。感情で能力が変化するのは専ら科学サイドであって、こっちは科学的に説明がつく。自分の脳内に創り出した「パーソナル・リアリティ」が超能力発現の基礎なのだから、感情の高ぶりはプラスマイナスどちらにも機能してしまう。この二つの世界の相違は案外重要だと思われる。
 というのも、魔術発動にはあくまで「偶像の理論」を基礎としており、これが十字架から「聖人」まで魔術サイドのキータームともなる。戦闘術式は簡略化した術式で構わないが、儀式の場合には綿密に理論を形として整えなければならない。これは古今東西の宗教や呪術に共通した認識。
 これに対して、科学サイドの超能力開発に関わる要素が「パーソナル・リアリティ」と呼ばれる、脳内に形成した独自の世界。量子理論を拡大解釈、というか「意図的に誤訳」した形で観測問題をストレートに表現しているのだと思われる。これは反駁が難しく、「意図的に誤訳」自体が「パーソナル・リアリティ」によるものだとすれば、考察は鶏が先か卵が先かの思考迷宮に嵌まってしまう。
 こうした魔術/科学の二つの世界の対比が、超能力=強者の能力・魔術=弱者の能力と位置付ける根底にあるのだろう。魔術を駆使するのに必要なのは「借り物」の物語であり、超能力を発現させるのは個人の持つ独自の物語。「借り物」という幻想を自己の現実に押し上げるため信仰は必要不可欠なものとなり、個人の信仰をより強固にするのは各宗派に分かたれた宗教共同体だろう。
 超能力開発に用いられる「自分だけの現実」という幻想が客体化されるって考え方も興味深いのだけど、「偶像の理論」という魔術発動の条件のほうについて考えてみたい。
 神話や伝承を基にして、実在するモノに神話の力をリンクさせることによって異能の力を発動させるという考え方は、フーコーが『言葉と物』で検証した「類似」の概念でもある。

 十六世紀末までの西欧文化においては、類似というものが知を構築する役割を演じてきた。テクストの釈義や解釈の大半を方向付けていたのも類似なら、象徴のはたらきを組織化し、目に見える物、目に見えぬ物の認識を可能にし、それらを表象する技術の指針となっていたのもやはり類似である。世界はそれ自身の周りに巻きついていた。大地は空を映し、人の顔が星に反映し、草はその茎の中に人間に役だつ秘密を宿していた。絵画は空間の模倣であった。そして表象は――祝祭であるにせよ知であるにせよ――つねに何ものかの模写にほかならなかった。人生の劇場、あるいは世界の鏡であること、それがあらゆる言語の資格であり、言語が自らの身分を告げ、語る権利を定式化する際のやり方だったのである。

 こうした類似や相似を基礎とした知の在り方は十七世紀初頭には勢力を失ってゆく。「思考は類似関係の領域で活動するのをやめる。相似はもはや知の形式ではなく、むしろ錯誤の機会であり、混同の生じる不分明な地域の検討を怠るとき人が身をさらす危険」と看做される。代わって台頭するのが、記号と物の二元論。ある物の名前はその物に相似した何かで呼ばれる必然性をなくし、記号とは物を区別するものとなり、こうして世界は分析と結合の対象となって秩序づけられるものとなる。その秩序に類似や相似は関与しない。記号は物に似ていないことが当然とされる世界。これによって、物から隔離した記号としての言葉による思考が可能となった。つまり、「知はもはや、古い〈言葉〉を、それが隠されているかもしれぬ未知の場所から掘りおこすのではない。知はいまやひとつの言語を創り出さねばならないのであって、その言語は分析と組み合わせとを行う、真の計算言語であることが必要なのだ」。思考と認識は、記号の体系によって世界の秩序を編んでゆく。ある記号がある物と似ているか似ていないかは問題ではなくなる。時代は、錬金術からライプニッツニュートン記号論理学へと移ってゆくのである。
 こう考えると、各作中人物が体系を丸ごと形成する『円環少女』は十七世紀・十八世紀的な古典主義時代型(或いは、バロック型)、類似概念を基礎とした『とある魔術の禁書目録』の魔術発動条件は十六世紀ルネサンス型と言えるかもしれない。一概に魔術世界とはいっても、それぞれの記号の使用法の違いによって、基本としている知の在り方の相違に左右されるのだろう。
 更にもうひとつ。こうしたルネサンス型に支配された魔術世界だからこそ、その知の管理者名がIndexなんだろう。類似概念の薄らいだ世界においては、目録による魔術の発動は困難になる。十七世紀半ばには、書名と内容を一致させる根拠が失われるからだ。その場合には、一冊一冊をcodex化して管理せざるを得なくなる。『円環少女』の体系魔術はcodex化されていると言えよう(比喩的には)。
 しかし、十七世紀には失われたindex型世界は、フィクションにおける物語と現実の相互干渉の在り方としてはひとつの有効打を提示しているようにも感じられる。作中で描写される魔術発動の原理は、そのまま閉じられた本を現実に向かって「開く」ためのひとつの方法論になる。必要最低限の箱庭としての配置図(「偶像」)を作り上げてそれ以外の現実を捨象し、箱庭世界には現実に対応した類似形を「正しく」配列し直す。作中人物や小道具や舞台そのものが現実の雛型として配置されるだろう。そこから現実に向かって放たれる魔術として、物語は機能するだろう。このフィクション観は、パラケルスス言うところの「完全に類似していて、どちらが相手にその相似をもたらしたのか誰にも言うことができぬ」世界観と同質だ。


 話は変わって――。
 シリーズ中、最も気になるキャラクターは、やっぱり学園都市統括理事長であるアレイスターなる謎の人物かなぁ。アレイスター・クロウリーその人がモデル。で、この二十世紀に生きた実在の魔術師クロウリーについては別のところでも言及されてて、本編21巻現在、重要なキーとして謎が提示されたままになっている。7巻で登場する『法の書』というクロウリー(本名・エドワード=アレキサンダークロウリー)が書いたとされる魔道書がそれ。禁書目録にさえ解読できないという難解な書。と、これは後に取っておくとして。
 魔術サイドの少女インデックスが「管理」する禁書目録に保管された一〇万三〇〇〇冊の魔道書の原典はキリスト教(作中では「十字教」)関連ばかりではなく、世界各地の不思議文献が集められている。ここで空想の羽を広げて、一〇万三〇〇〇冊の魔道書の原典ってどんなのだろうと妄想してみる。
 いまのところ作中で明らかにされたタイトルは、『金枝篇』『Mの書』『ヘルメス文書』『秘奥の教義』『テトラビブロス』『抱朴子』『桃太郎』『金烏玉兎集』『創造の書』『ネクロノミコン』『死者の書』『エイボンの書』『暦石』『法の書』などなど。『金枝篇』は、フレイザーがイタリアのネミの森に伝わる風習と伝承を検証した民俗学の研究書。『ヘルメス文書』は三世紀のヘルメス・トリスメギストス(三倍偉大なヘルメス)が記したとされる錬金術聖典。『Mの書』はローゼンクロイツが東方の魔術師から授けられた自然魔術の奥義。『秘奥の教義』はブラヴァツキー夫人の『シークレット・ドクトリン』か。『テトラビブロス』は古代ローマの自然学者プトレマイオスの記した占星術の古典。『金烏玉兎集』は陰陽道秘伝の書。『創造の書』はユダヤカバラ聖典のひとつ『セフィロトの書』で、『ネクロノミコン』『エイボンの書』はクトゥルー神話より。
 以上を分類してみると、こうなる(サンプル数が少ないのであくまで妄想ですよ、あしからず)。
  ①作者未詳の魔道書。
  ②伝承を集めた魔道書。
  ③架空の物語内に登場する魔道書。
 それぞれの特徴としては、①ヘルメス・トリスメギストスやローゼンクロイツは実在を疑われている人物であり、『金烏玉兎集』や『セフィロトの書』『死者の書』は起源がはっきりしない。②『金枝篇』『抱朴子』『桃太郎』『暦石』は伝承を編纂したもの。③クトゥルーラブクラフトの作った神話である。扱いが難しいのは、『シークレット・ドクトリン』か。これは世界各地の聖典の引用・注釈の書で、ブラヴァツキー夫人が実在を主張する『ジャーンの書』なる聖典から主に由来しているという。ということはつまり、②伝承を集めた魔道書、に含まれるだろう。
 ここでちょっと「あれ?」と思う。
 魔道書とは「魔術師が記した魔術に関するテクスト」のはず。だとすれば、④とある魔術師によって記された魔道書、だってあるかもしれないぞ。
 近代魔術もアリだから、エリファス・レヴィでもグルジエフでもいい。ブラヴァツキー夫人がいていいのなら、シュタイナーの『アカシャ年代記より』でもいいわけで、いっそのことディックの『ヴァリス』なんかあったほうが面白かったりするだろう。けれど、既刊中タイトルだけを明かされたものにしてもそれらでなく、近代魔術師の著作として選ばれたのが『シークレット・ドクトリン』と『法の書』だけ。この選出に、ちょっとばかり興味を引かれる。前者が世界各地の聖典の寄せ集め(とされている)のに対し、後者はそうではない(その上、ルビ付きが特徴的な小説なのに『秘奥の教義』なんてありがちな書名に「シークレット・ドクトリン」とルビがないのを見ると、もしかすると別の魔道書という可能性だってある)。
 身近な例では、空海の『秘密曼荼羅十住心論』や聖徳太子の『未来記』(これは偽書だが)、または三浦梅園や平田篤胤辺りが例に出てもいいんじゃないのか。なにしろ主人公は日本人だから、インデックスが魔道書について説明するなら、まず日本の魔道書から説明するんじゃなかろうか。更に敷衍すれば、魔術の世界を語るにはピコ・デラ・ミランドラやスウェーデンボリなどは重要な「名前」だと思うし、それよりなにより、誰もが知ってるシェイクスピアを挙げないところに不自然さがないだろうか? 『テンペスト』が混じっていても違和感はないはずだ。
 さて、いったい何が言いたいかというと、仮に占星術の古典を自然科学の一種で扱いが違うとすれば、作中で原典とされる一〇万三〇〇〇冊とは「原則的に」明確な作者が不在の書物ではないのか、ということ。④は存在しないのではないか、ということ。言うまでもなく聖霊によって記されたとされる『旧約』もそうだし、『新約』だって作者不詳だ。一〇万三〇〇〇冊の一冊である『ヨハネの黙示録』(迎撃術式としてインデックスが駆使する「ペン」)のヨハネさんが誰かは結論が出ていない。
 で、疑問がまたひとつ。
 ……だったら、『法の書』だけがちょっとばっかし浮いていやしませんか?
 もちろん『法の書』もクロウリー独自の思想ではなく、エイワスという知性体からのメッセージをクロウリーが文書化したものとされている。でも、このエイワスという存在にはそもそも根拠がない。『ジャーンの書』にも根拠がないと言われればそれまでだが、『シークレット・ドクトリン』が原典として禁書目録に採用されたのなら、恐らく『ジャーンの書』はかつて存在し、今は失われたと見做されているはずだ。でなければ、禁書目録に加えられるべきは『シークレット・ドクトリン』ではなく、『ジャーンの書』であるべきだから(あ、もちろん小説内の話ですよ)。
 それでは、エイワスが実在するとなると、話はどうなる? ますます『法の書』の特異性が際立ってくることにならないだろうか。エイワスとクロウリーによって書かれた原典であるところの『法の書』。ここには明確な作者が存在する。つまり、分類④の魔道書。(作中に登場するもう一冊の作者が明らかな魔道書を考えてみよう。アウレオルス・イザードが記した『黄金錬成』は一〇万三〇〇〇冊に含まれてなかったのではなかったか?)
 そこで、明確な作者が判明している魔道書を例外扱いしてみると、この世界における魔術の立ち位置が、ほぼ完全に神話や伝承に基礎を置いていることになるだろう。神話モデルに関しては、クリステヴァがこんなことを言っている。

 送り手‐受け手の一対一対応が神話共同体では正当化できるわけは、そこでは共同体が両方の役割を引き受けており、このような共同体がいわば自らに差し向ける言述の発信者でもあれば受信者でもあるからである。――『テクストとしての小説』

 神の言葉は神そのものの口から語られることはない。だから教会であれ村落共同体であれ、共同体内の言葉として「伝承」された形式で発信される。それを聞く側も個人であると同時に共同体の一員である。しかし、だからと言って、ある任意の共同体が神話によって結び付けられているのではない。なぜなら、

 神話的共同体はその神話のなかに/によって存在するのであり、神話の前とか後に存在するのではない。こういうわけで、送り手‐受け手の対話が神話的物語の顕現のレヴェルで現在化されていない理由が理解できるのである。――前掲書

 誰が誰に対して語ったのかなど(実際には)どうでもいい語りとして、神話は構成される。すでにそこにあるものであり、一種の「世界の限界」を指し示す。この限界を認識しながら、なおかつ世界を拡大する試みが「類似」の概念――作中における「偶像の理論」である。
 しかし、こうした神話的共同体が崩壊してしまうと、送り手と受け手の間で交換可能な言述が生み落とされる。交換可能な言述とは、すなわち小説である。「主体=送り手は、小説の対話的構造を通して、主体=受け手と対話を営む」(クリステヴァ)。
 ここに神話的共同体に対しては異邦人である上条当麻の小説的な立ち位置がある。お説教を繰り出してパンチ一発でけりをつけてしまうのは、神話的共同体(あるいはそれに類したもの)をすべて「幻想」としてぶち壊すための、対話を目的としたものだろう。神話の中に潜り込んだ小説という奇妙な人物配置だからこそ、彼の存在は極めて特異なものとして映る。
 しかし、特異な存在は彼ひとりではない。更に奇妙に配置された作中人物がいる。
 それが、『人間』アレイスター。
 作中における『人間』アレイスターは(彼が「アレイスター・クロウリー」という特権的な魔術師であるならなおさら)、あたかも作者の如くに振る舞い、「プラン」という彼の物語に沿って「イレギュラー因子」である主人公たちをコントロールしようと企み、或いは新しい主人公を創り出そうとし、或いは、主人公となるべき作中人物とそうでない人物とを選別しようとする。ここで、小説の構造は多層化する。語る主体がどこにあるのか? 「語り」という魔術を発動するものはいったい誰なのか?
 神話に対して、小説の語りをクリステヴァは以下のように解釈している。

(小説の)語りの主体は語る行為そのものを通して、他者に話しかけるのであり、そして、この他者を照準にして、語りは構造化されるのである。であるから、語るという行為を、シニフィアンシニフィエの諸関係を超えて、さらに語りの主体と他者である受け手との間の対話として、研究することができよう。この受け手は読む行為の主体にほかならないのだから、彼は二重の方向――つまり、テクストとの関係ではシニフィアン、また〈語りの主体〉との関係ではシニフィエ――をもつ実体を代表していることになる。したがって、受け手は二元構成なのであり、この両項が相互間のコミュニケーションに加わることによって、一つのコード体系を成しているのである。語りの主体(S)もこの体系に引き入れられている(締め出されていると同時に含入されている)し、このことによって、彼自らも一つのコード、一個の非‐人格、一個の匿名存在(作者、言表行為の主体)と化し、一個の「彼」(作中人物、言表の主体)を通して媒介されるのである。――前掲書

 アレイスターが作者たらんとすれば、彼は「一個の匿名存在」であることを受け入れざるを得ない。或いは、「プラン」という物語を推し進める存在であるからこそ、誰よりも小説的な人物として、作中人物と化したときには、神話的共同体を内破する異物として際立ってくる。


 ちなみに、実在したアレイスター・クロウリーこそ不思議な人物で、魔術師でありながら小説を書いたりしている。教義を広めるために小説を利用した、と言えばなんとなく理に適っているような気分になるけど、そもそも教義を世間一般に広めようとする意志自体が魔術師にあるのだろうか? 時代の違いと言えばそれまでだけど、例えば薔薇十字団の教えは組織の構成員にさえ秘匿されるほど狭いものだ。
 魔術師という人種は本来カルトであって、世界に遍く自らの教えを広めようという気はあまりないんじゃないだろうか。魔術組織が秘密結社化してゆくのには、ひとつは迫害の歴史が影響しているのだろうけど、そもそもある任意の知識を持った相手でなければ理解不可能である、という認識が根底にあるんじゃないか。こうした考え方があるから、秘密結社となってゆく。
 これがいわゆる「宗教」との違いであって、魔術結社においては救済そのものは必ずしも目的ではない。小乗的な考えのほうが主であり、だからこそ奥底に選民思想が隠れている。だとすれば、小説という誰の目にも触れることが可能なメディア(近代においてはなおさら)を選択すること自体、矛盾していると言える。
 例えば、当時の心霊流行りに乗っかるように神智学会を設立したブラヴァツキー夫人は、結局のところ自前の宗教を作り上げたと言ってもいい。そのための『シークレット・ドクトリン』であり、だからこそ『ジャーンの書』という実在するかどうかも不明な怪しげな『原典』を持ち出して教義を整える必要が生じた。日本でいえば、大正時代に乱立した新宗教がそれに当たるだろうし、それこそ陰陽道の『簠簋内伝金烏玉兎集』から引っ張ってきた風水思想を基礎に据えた宗教組織はまさにそれ。教義自体の善悪の問題とは別に、掲げる看板は例外なく「救済」なのだ。
 クロウリーブラヴァツキー夫人の違いは明白で、クロウリーには「宗教」的な背景や意志があまり見られない。史伝を追ってみても、宗教的に成功しているとは言えない。もっと趣味的というか、目的がはっきりしないというか(どことなくデュシャンにも似たような遍歴だ)、でも、その辺りが魔術師の伝統に忠実なのだろうか。そう考えてくると、ますます小説という媒体を選択する意義が曖昧になってきて、こう言ってはなんだけど、小説という形はメッセージの伝達媒体としてはあまり優れた方法ではない。
 そもそも「読書」という行為は基本的に作者への冒涜であるし、当然ながら作者は受け手からのテクストへの冒涜を望むからこそ書くのであり、人類の歴史上それを最も有効的に利用してきたのが「小説」というメディアじゃないのかな。もちろんメッセージの伝達に関して「作者」が無頓着であるはずはないのだが、「作者」の意志と「読者」の解釈が100%一致するなんてことはあり得ない。そんなことを考えている作者がいるとすれば、それは小説家ではなく宗教家だろう。
 例えば「科学」と比較すれば明らかなように、「小説」には多様な読解が含意されるのであって、それは媒体として優れた点であり、同時に劣った点でもある。とはいえ、これもまた善悪の問題ではなく、それはそういうものなのだから、小説を読めない、という人の気持ちも自分なりには理解できる(つもりでいる)。
 小説を書く魔術師という存在に感じる違和感はそこにあって、魔術の知識は正しく伝えられなければ意味がないのであり、それは数学の公式が正しく伝わらなければ意味がないのと同じこと。間違って解釈された布置と配列はナンセンスだ。『法の書』解釈について、「汝の欲する所を為せ、それが汝の法とならん」というメッセージを前面に押し出し、「『法の書』は誰にも読めないんじゃない。本当は誰でも読めるけど、誰もが間違った解読法に誘導されてしまう魔道書なの」とインデックスが提示する結論は実によく腑に落ちる。解読不能の魔道書というテーゼ自体がとてもクロウリー的で、それはつまり「小説」的なのだ。
 そう言えば、クロウリーの小説『ムーンチャイルド』には、クロウリー自身をモデルにしたという二人の魔術師が主人公として登場する。この小説を読むとクロウリー自身の科学に対する関心が窺えて面白いのだけど、同時に作中の二人の魔術師は、クロウリー自らの魔術教義であるところの『法の書』を使って魔術を発動する。クロウリー自身の考える魔術は独自の体系魔術のようで、記号による結合魔術の印象が強い。相似に頼ることなく重なり合った異次元世界との間に通路を開くような魔術を駆使するあたりは、シリーズ中のAIM拡散力場(というか虚数学区か)へと通じるものがあるだろうか。
 ま、よもやま話である。
 あぁ、なんだかとりとめもなく脱線しまくった感があるが、とどのつまり、僕が言いたいことはひとつだけである。
 絹旗、超かわいい!!!