迷子の風景:高山宏『近代文化史入門』雑感

 ……よく道に迷う。
 いや、人生の意味に悩んでいるのでなく、言葉そのままの意味でしばしば迷子になるということ。分刻みで移動するか、さもなくばひきこもるかでなければ21世紀の東京を生きる資格はないのかもしれないが、迷うものは仕方ないのだ。
 しかし、なぜ迷うのか、理由ははっきりしている。どうもこの道は違うようだぞ、と気付いたときにくるりと踵を返して引き返さないからだ。もしくは、鞄に常に入っている『文庫判東京都市図』(昭文社刊2002年5月4版4刷)を確認しないからだ。「こっちから行けば同じ方向なんじゃないかな」と、当たりをつけた曲がり角から軌道修正しようとして成功したためしはない。東京の道は碁盤の目状ではないから、どんどん見当違いの方角に向って、そのうち自分が今どこにいるのか分からなくなる。困ったものである。自業自得である。
 今日もそうしてさんざん迷って、ひどく疲れた。大人しく電車を使うべきだった。さすがにひどいな、と思ったのは、自宅最寄り駅の一駅前(距離にして二キロ弱)の場所から迷子になったことだ。いつもと違う小道に入ったせいで、いままで一度も見たことのない景色に迷い込んでしまった。魔都である。すっかり日も暮れていたというのに。血圧が低いからだろうか?
 それはそれとして、高山宏『近代文化史入門―超英文学講義』(講談社学術文庫)にこんな《言説》がある。

 曲線路で歩く人たちだけに可能なディスクールとしての「アラベスク」な文学ジャンルが、十八世紀のイギリスで開花していく。まず、文章に目的がない。そして文字通り、歩く足が「コース」を逸脱していくような、「ディスコース」の屈曲ぶりなのである。
(中略)……「ディスコース」という言葉はフランス語の「ディスクール」である。元々、「クーリール(速足する)」という動詞から派生した名詞で、今でいうウォーキング程度の速さで歩く途中で見えてくるものを記述することを指す名詞が「ディスクール」である。つまり、我々が「ディスクール」といっている文章の形式は、歩かない文化には縁のなかったものであるのにちがいないのだ。

 ここで例として挙げられるのは『トリストラム・シャンディ』で、だったら18世紀の話じゃないか、というとこれがそうではない。なぜならば、この本はマニエリスムについて書かれているから。
 曰く、マニエリスムとは――

 何となくいろいろとつながってひとまとまりと意識される世界が、主に➀戦乱その他の大規模なカタストロフィを通し、かつ➁世界地図の拡大、市場経済の拡大といった急速に拡大する世界を前に一人一人の個人はかえって個の孤立感を深めるといった理由から、断裂された世界というふうに感じられてしまう。その時ばらばらな世界を前に、ばらばらであることを嘆く一方で、ばらばらを虚構の全体の中にと「彌縫」しようとする知性のタイプがあるはずだ。それがマニエリスムで、十六世紀の初めに現れて一世紀続いたとされる。

 じゃあ16世紀じゃないか、というとそうでもない。マニエリスムは単なる一時代の芸術様式ではなくて、同じような場所や時代に何度も繰り返し沸き起こる。そればかりでなく、「ある特定の人間タイプの、歴史における、またあらゆる種類の現実にたいする、特殊な美的態度のしるしとなる」――という、グスタフ・ルネ・ホッケのマニエリスム論を前提に、イギリス社会と英文学・文化史を読み解いていく楽しい本なのだ。本についての本は面白い。それがマニエリスムについてならなお面白い。
 こういったマニエリスム的思考というのは、合理性を求めるクラウドコンピューティング集合知云々とは、また違うものだろう。どうせフレームのバイアスがかかるのなら「分かれたものとして無理やり繋げる」マニエリスムのほうがむしろ誠実のようにも思う。もちろん逆説だし、倒錯だから、それって虚構でしょう、と言われると頭を垂れるしかないのだけれど、でも、「その」虚構と現実とは本当に明確に分かたれ得るものなのだろうか? 果たして、或る特定の条件下にある知の関心という盤上に形作られる約束事、とりあえず分けてみた差異ではないと言えるのだろうか。たとえば、遠近法が現実世界とは異なる見方であるのと同様に……。
 ……あ。また道に迷ったらしい。