夏の読書感想文②:レオニード・ツィプキン『バーデン・バーデンの夏』雑感

『バーデン・バーデンの夏』レオニード・ツィプキン著(新潮クレストブックス)。穏やかで静謐感に満ちた美しい小説である。ゆっくりと時間をかけて読んだ方がいいんだろうな。寝る前に少しずつ、少しずつ読み進めてゆくような。読み返すときにはそうしようと思った。
 さて、どうしても触れておかなければならないだろうと思うので、まず――。

 この本がなぜ知られていなかったか、それは理解にかたくない。まず、著者が専門の作家ではなかった。レオニード・ツィプキンは医師、有力な医学研究者であり、ソ連内外の専門学術誌には百点近い論文を発表してきた。しかし――チェーホフブルガーコフと比較しても詮ないことだが――このロシア人の医師 = 作家は生前、自作の文学作品が公刊されたのを一ページたりとも目にしていない。
 検閲とか恫喝などは筋書きのほんの一部にすぎない。お墨付きの公式刊行物に掲載するには、ツィプキンのフィクションが弱体だったことは言うまでもない。しかしサミズダットと呼ばれた地下出版物で読まれていたわけでもない。自尊心、度しがたい陰気、それに、非公式の文学機関による拒絶を恐れるあまりに彼は、一九六〇年代、七〇年代のモスクワに花盛りだった独立系や地下の文学サークルともいっさい関わりを持たず、「抽き出しの肥やしに」書いているのみだった。文学そのもののために書いていた、とも言えよう。

 スーザン・ソンタグの遺稿集『同じ時のなかで』(NTT出版刊)所収のエッセイ「ドストエフスキーの愛し方」より。ソンタグはロンドンのチャリング・クロス・ロードでペーパーバッグの古本の山からそれを発掘したという。
『バーデン・バーデンの夏』は(「発見」の公算が低いにもかかわらず)ソンタグによって「発見」された二〇世紀文学の名作である。

 ソンタグ遺稿集に収められ、邦訳版小説の後書きにもある、本来は英語圏での出版に及ぶ際にソンタグが書いた序文であるこのエッセイには、ツィプキンの生涯が簡略に綴られている(ソンタグは再録の際に必ず原稿を大幅改稿することで知られているが、それについてはひとまず置いておこう。「興味深い」点だとは思うけど)。それによると、生涯、ツィプキンはソ連の外に出ることはなかった。一九七七年、息子夫婦は出国査証を申請する。これが受理され、息子夫婦がアメリカへ出国すると、小児麻痺・ウィルス性脳炎研究所に勤めるツィプキンは、準研究員に格下げされる。これ以前に、ツィプキンの妻ナタリア・ミチニコワは息子の出国を難しくするのではと危惧して職を辞していた。この異動に伴い、夫妻の唯一の収入であるツィプキンの給与は七十五パーセント削られてしまう。息子の出国は、ツィプキンに「好ましからざる分子」のレッテルを張ったのだ。一九七九年六月、ツィプキン夫妻とツィプキンの母親は出国査証を申請した。しかし、ソ連のアフガン侵攻を契機として米ソ関係が悪化した一九八〇年、ソ連からの出国はほぼ全面的に停止される。一九八一年四月、彼らの申請は不適格で拒否されたと通知が来る。一九八一年九月末、彼らは再び出国の申請をする。十月十九日に母親が他界。一週間後、三名の査証申請差し戻しの通知が来る。一九八二年三月初頭にツィプキンはモスクワの役所を訪ねる。「博士、貴方の出国を許可することはありません」と言われる。三月十五日、研究所の職には留任させられない、と研究所所長から通告される。一方、『バーデン・バーデンの夏』は、ロシアからの出国者たちがニューヨークで出している週刊誌『ノーヴァヤ・ガゼーダ』に連載されることになり、同年三月十三日に連載の初回が掲載された。その一週間後、三月二十日、糊口を凌ぐための医学論文翻訳の仕事中だったツィプキンは、心臓発作を起こした。横になり、夫人を呼び、そのまま他界した。





 小説『バーデン・バーデンの夏』の主な舞台は、タイトル通り、ドイツの保養地バーデン・バーデンである。バーデン・バーデンで過ごすのはドストエフスキー夫妻。一八六七年、フェージャ・ドストエフスキーと年の離れた二番目の妻アンナ・グリゴーリエヴナは、新婚旅行で夏のドイツへ発った。一方、現在のソ連国内にいる「私」は十二月の終わり、冬の真っただ中に、モスクワからレニングラードへ向かう列車のなかにいる。その手には、「当時まだ考えられたリベラルな出版社」から刊行されたアンナ・グリゴーリエヴナの日記がある。文学者だった叔母から借り受けたそれを列車に揺られながら私は読み、ときに車窓に目を遣って、アンナ・グリゴーリエヴナとフェージャの物語へと読者を誘う。
 こうして、まったく異なる二つの時間二つの場所が溶けあいながら小説は進行する。フェージャとアンナのいる夏のドレスデンやバーデン・バーデンはかつてそこに「あった」ものではなく、私と同じ時空に配列されている。過去が過去として描かれるのではなく、同時性として現前してくるのである。フェージャは一八六七年の彼自身を形成してきた過去の出来事を想起し、その過去に縛られ続ける。また、アンナもやはりフェージャとの出会いを思い出し、現在の困難に涙し、今後の生活を夢見ながらお腹に宿った小さな生命を慈しむ。それらは一八六七年の夏に凝縮され、同時に現在の「私」が手にしたアンナの日記や夏のドイツの別荘地とは本来なら似ていないはずの真冬の車窓から見える光景と二重写しになってくる。
 実際、ドストエフスキー夫妻の新婚旅行と「私」のレニングラード行きとの間にはなんの関連性もない。しかし、その二者を繋ぐ奇妙な場所の記憶は、私のなかにあるロシア文学の記憶と融合して、再編されたフィクションとして立ち現れる。想起すべき点は、作者であるツィプキンは一度もバーデン・バーデンへ行ったことがないということ。また、フェージャの姿はドストエフスキーの小説の登場人物たちの幻影へと変化する。それもやはりバーデン・バーデンとは関わりがない。
 こうした物語の多重性は、私がレニングラードに到着してからのほうが明確に浮かび上がってくる。
 私がレニングラードに到着すると「同時に」、フェージャとアンナはバーデン・バーデンを去る。私は母の知人であるギーリャを訪ねて、泊めてもらう。ギーリャの住む古びたアパートメントには、アンナ・グリゴーリエヴナという名の老女が住んでいるが、ここではアンナ・グリゴーリエヴナについて私は何も語らない。私はただギーリャの語る、彼女が二十年前に死別したモーズャ(女好きの夫)の話に耳を傾け、ギーリャとモーズャの奇妙な愛について、やはりドストエフスキー夫妻の新婚旅行についてと同じように物語を紡いでゆく。その物語は私の意識のなかで現前化して、やがて、晩年のフェージャとアンナの愛の物語へと流れてゆく。
 私はかつてアンナ・グリゴーリエヴナが実在したことを知りながら、現在にはフィクションとして編纂されるものであることも自覚しているのだろう。だからこそ、同名の老女が側にあってもそれはフェージャの妻アンナとは似ても似つかず、その顔の上にアンナが二重写しされることはない。

 私は建物のすぐそばまで行った――角に表札が掛かっていて、「ドストエフスキー通り」と書かれていた――でも私はなぜか名称を変える以前のまま「ヤムスカヤ通り」だと思いたかった――

 現実のレニングラードにいる私は、「ドストエフスキーの家」へ行き、写真を取り、冬の街を歩き、ここをぺテルグルグだと思いたい。私はドストエフスキーのことばかり考えているからこそ、その通りに立ったとき、穏やかな気持ちで小さな願望を吐露するのだ。
 作中で、「私」のはっきりとした意見として描かれるのは、この「ヤムスカヤ通り」の件と、「ユダヤ人」の問題だろう。ツィプキンはユダヤ人である。そして、ドストエフスキーの『作家の日記』が最も顕著かもしれないが、彼の小説中にもユダヤ人への罵倒が頻出する。ツィプキンにとって、これは切実な問題だったのかもしれない。「私」はそれについて自問する。

 小説のなかであれほど他人の苦しみに敏感で、苦しめられ傷つけられた人たちを熱心に擁護し、生きとし生けるものすべてが存在する権利を熱烈に、いや激烈とも言えるほどに説き、一本一本の草や一枚一枚の葉への賛辞を惜しまなかったドストエフスキー――そのドストエフスキーが、数千年にわたって追い立てられてきた人々を擁護したり庇ったりする言葉をただの一言も思いつかなかったのはどういうことなのか

 その一方で著名なドストエフスキー研究者にはユダヤ人が多く、「多くのユダヤ人の文学研究者がドストエフスキーの文学遺産を独占に近い状態で研究している」ところにも、「不自然」ではないかと自問する。どちらの問いにも明瞭な答えは出ない。私はただ、バーデン・バーデンとバーゼルの間にあるどこかの鉄道駅にいるぶざまな恰好で踊る男を思い浮かべるだけだ。雪の降る中、そのプラットホームはバーデン・バーデンとバーゼルの間ではなく、モスクワとペテルブルクの間に位置するトヴェーリ駅だと気づく。男は身だしなみを整えようと改札広場にある鏡へ向かう。鏡に映っていたのは自分の姿ではなく、イサイ・フォミチだった。『死の家の記録』に登場するユダヤ人、「傲慢なのに臆病で、仲間に高い利息で金を貸し付けるのも厭わない」イサイ・フォミチ。
 こうした意識の流れに対して、私はまた自問する。

 そして、ギーリャのところで「先刻」(彼ならそう言っただろう)見た夜の幻影、最後にドストエフスキーがイサイ・フォミチに変身したあの幻影は、自分のドストエフスキー熱を「合法化」しようという私の潜在意識のなせるみじめな試みだったのではなかろうか?

 やはり答えは出ない。けれども、その内省に続いて私が目にするのは、貧しく汚い恰好をした両親と、七歳か八歳くらいのみすぼらしいコートを着た少女である。三人は雪の吹き溜まりに嵌まり、女の子が両親になにか言い、女の子は両親の前に立って道案内のように歩きだしたが、あるいは両親のことが恥ずかしかっただけかもしれない、と私は思う。
 その光景はどことなく『カラマーゾフの兄弟』のワンシーンを想起させ、読者たる僕はふっと息を吐くような感慨に囚われる。「私」にはもうなにかが分かっているのではないだろうか、と感じてしまう。