映画『メッセージ』/小説「あなたの人生の物語」:ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督『メッセージ』雑考

 ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の映画『メッセージ』は、テッド・チャンの短編小説「あなたの人生の物語」を原作にしている。そして珍しくもないことだが、映画と原作の間には相違がある。

 あまり動きのない原作を、映画はタイムリミットを設けて、ハラハラドキドキのサスペンスに作り変えた。だが、この改変は重要ではない。それは単に物語であり、根幹のテーマを揺るがすものではない。

 他にも、宇宙船の形や数、文字の形などは、より映える映像に変えられた。これも同様だ。映画というメディアが、それにふさわしい物語や画作りを要請したにすぎない。

 語りたいのは、もっと根幹に関わる改変についてである。

 

 

以下、ネタバレになります。

 

 

 

 物語の中核は、言語学者である主人公ルイーズのエイリアンとの接触、交流である。ここは原作も映画も共通している。その外枠としての主人公たちを取り巻く状況は、映画のほうが殺伐としているが、先に言ったとおり本質的な違いではない。

 では、映画と原作の違いとはなにか。

 ひとつは、原作小説は人類進化の物語ではないということだ。エイリアンであるヘプタポッドの言語は、あくまでルイーズ個人に作用して、彼女は残りの人生を知ることになり、彼女の娘の全人生を知ることになる。

 だが、映画の結末はこうなる。

 

1.主人公ルイーズが、ヘプタポッドから与えられた時間認識の方法(過去、現在、未来をひとつの時間として知ること)は言語だったため、ルイーズから人類へ広く伝達されるだろう。ルイーズは本を書き、有名にもなった。社会的にヘプタポッドの言語は共有されるだろう。未来のシャン上将の行動も、その言語を知っているからだろう。

 時間に対する認識レベルの変化により、人類全体が進化を遂げた。それが、原作にない映画独自のヘプタポッドが地球にきた目的だった。彼らは人類を三千年後まで生き残らせるために地球を訪れた。そのためには、人類の進化を促進させなければならなかった。だから、ヘプタポッド来訪以降の人類は、それ以前の人類とは違う存在になっただろう。

 グレッグ・イーガン万物理論』のような人類進化を遂げるのだが、イーガンのその小説が進化形態を結末でしっかり見せるのに対し、この映画ではすでに見せられている。進化が時間認識に関わるからこそ可能なユニークな構成であり、その構成が「あなたを生む」と娘に語りかけるラストシーンの感動へとつながる。

 

 このラストシーンにも大きく関わる、決定的な改変がある。こっちのほうが重大だろう。

 映画『メッセージ』と原作小説「あなたの人生の物語」では、主人公ルイーズの娘の死因が違うのだ。

 娘は、原作では二十五歳のときに事故死するのだが、映画では幼くして病死することになっている。この改変には大きな意味がある。この改変があるから、映画は原作から切り離されて独自のテーマを語っている。

 娘の死因の違いから、受ける印象が違ってくる。幼くして不治の病で死ぬことは、二十五歳での事故死に比べても、避けられない運命だと感じるだろう。

 そして、ルイーズはその未来を知った。娘の人生に待っている過酷な運命を知った以上、ルイーズには娘を生まないという選択ができるはずだった。だが、そうはしない。

 なぜ、そうしないのか。そこに理由があるから、ラストでの娘への呼びかけが感動を生んでいる。そして、より残酷な未来へと改変されたことで、「あなたの人生の物語」という原作タイトルにもう一度思いを馳せることになる。

 

2.なぜルイーズは未来を変えようとしないのか。

 ヘプタポッド的時間認識によれば、時間は流れない。万物はすでに在るものだ。未来とされる時間に存在している娘だが、ルイーズにとってはすでに存在している。この映画を観てだれもが考える「死ぬと分かった娘をどうして生むのか」という疑問は、ルイーズにとっては意味をなさないのだ。ルイーズは娘のいない世界を選択しない。なぜなら、娘はやがて生まれるのではないからだ。

 すでにいる娘の存在をルイーズは否定できない。

 ここで問われている本当の問題は、未来を変えるかどうかではない。現にここにある娘の存在、現にここにあるルイーズの苦しみを、ルイーズ自身が肯定できるかどうかが問われている。だからルイーズの答えは、自分が娘の喪失の苦しみに耐えられないから存在ごと否定するという選択はあり得ても、娘の人生を思って娘を生まないという選択は、最初から存在しない。それは、ルイーズにとっては欺瞞でしかない。

 

 もうひとつ、原作との違いを見ておきたい。

未来を知ることは自由意志を持つことと両立しない。選択の自由を行使することをわたしに可能とするものは、未来を知ることをわたしに不可能とするものでもある。逆に、未来を知っているいま、その未来に反する行動は、自分の知っていることを他者に語ることも含めて、わたしはけっしてしないだろう。未来を知る者は、そのことを語らない。『三世の書』を読んだ者は、そのことをけっして認めない。

 小説「あなたの人生の物語」の一節で、ルイーズが娘を生む理由付けともなる重要な箇所だが、映画『メッセージ』にはこの説明はない。

 原作にあって映画にない部分はもちろんいくつもある。原作では、ヘプタポッドの謎が徐々に解明され、謎を解くヒントも読者に与えられる。文字の書き順やフェルマーの原理、『三世の書』、サラダボウルなどなど。

 映画ではそれらを省いているが、拾った箇所ももちろんある。異言語であるヘプタポッドの意味図字文字が思考を変えてゆくという説明は映画にも移植された。ノンゼロサムゲームへの言及もある(ただし、この言葉の使い方、意味付けは原作のほうがわかりやすい。ルイーズの言う「いま思い出したの」。ここは順序が逆になっているから映画のほうは誤解しそうだ)。

 だが、映画を理解するために原作を読もうとすると、この映画が描いたものを意図的に歪める結果にもなり得る。原作からなにを拾ってなにを省いたかを見れば、映画がなにを語るのかは明瞭になるかもしれないし、むしろ曖昧になるかもしれない。あるいは、映画があえて曖昧にしようとしたのかもしれない。上の引用文が映画『メッセージ』でも有効なのかどうかは判断できない。The rabbit is ready to eat. が、兎を食べる準備をする。/兎が食べる準備をする。のどちらであるかは、その一文のみでは判別できない。

ヘプタポッドたちの場合、言葉はすべて遂行文だ。“それら”は伝達のために言語を用いるのではなく、現実化するために言語を用いる。――「あなたの人生の物語

 繰り返しになるが、自由意志云々の言説は、映画『メッセージ』には存在しない。だから、映画は映画として解釈されるべきだろう。少なくとも、この映画の場合は。

 

 

 

付録

 これはヴィルヌーヴ映画の特徴だろうが、物語が本筋へ入る直前に、一人称視点のようなカメラが広い空間を捉えて、さらに奥行きを見せてゆく。

『メッセージ』では、宇宙船と兵舎を映すシーン(18:21〜)がそれだ。『プリズナーズ』で川を低いところから映し始めるシーン(32:54〜)と同じく不安な広がりを見せる。

『ボーダーライン』は構造が複雑で、この描写が複数回繰り返され、そのたびに局面が切り替わる。冒頭の突入直前の道路(01:57〜)、国境へ向かう飛行機から見た荒野(17:08〜)、国境を越えるときの宅地からその先の荒野(24:17〜)、そして、作戦決行直前のドローンの映像(1:16:16〜)。広大で奥行きのあるそれらの映像の後で、本筋のストーリーへと入ってゆく。

『メッセージ』は原作をシンプルな構造に改変し、それが全く瑕瑾でなく、映画の美しさを生み出した。