八犬伝覚書 百姓一揆との類似性

ゾイレは慎重に手を伸ばし、スロースロップの頭上からヘルメットを被せる。両側からケープを掛ける女たちの手つきも儀式めいている。(中略)

「これでよしと。実はな、ロケットマン、ちょっと聞いてほしいんだが、わしはいまちょっとしたトラブルに……」(佐藤良明訳)

 『重力の虹』(ピンチョン)の主人公スロースロップは、物語の中盤でロケットマンに変装して自分自身を見失ってゆく。

 正体を露見させないためロケットマンになりきったはずなのに、そのロケットマンがスロースロップをどんどん上書きしてゆく。とはいえ、そもそものスロースロップは「生まれて以来ずっと彼らの監視の視線を浴びてきた」。その末の変装、名付け行為、しかも偶然の産物にすぎないロケットマンに乗っ取られるようにして物語は加速する。

 ただの変装にすぎない。しかし、衣装になんらかの意味が付与しているなら、彼自身を劇的に変えてしまうことは(彼の精神性にかかわらず)あり得ることだ。

 百姓一揆が一味同心と結びつき、共同体としての抵抗を意味するようになった経緯は、勝俣鎮夫の名著『一揆』に詳しい。そこでは、江戸時代の百姓一揆の衣装として蓑笠が用いられた事例が詳述されている。蓑をまとい、笠を被ること。日常的で、手近な衣装に聞こえるが、この蓑と笠によって象徴された変装は、変相でもあった。外見を変えることによって、昨日までの自分とは違う自分としてそこに在る。

 隠れ蓑という言葉が、蓑の習俗をよく顕している(ちなみに『椿説弓張月』第十八回で、男の島=鬼ヶ島に昔あった宝物として隠れ蓑、隠れ笠が語られる。ネタ元は『保元物語』)。

 蓑をまとうことは素性を隠すことだ。正体を見えなくすることだ。なぜ見えないのかと言えば、そのときにはもう百姓ではなくなるからだ。蓑笠を着けることは百姓身分からの脱落を表し、物乞いや非人と同じように、我が身を社会の外に置く意思表示となる。蓑笠が百姓一揆で用いられる意味を、『一揆』ではこう語っている。

これらの「異形」となって一揆を結ぶことの意味として、幕藩制下の厳しい身分規定、領主ー被支配の関係をみずから破棄することを、無言のうちに、しかも強烈に示した行為と位置づけることができる。彼らは、「異形」になることを通して一時的にアウトローに変身し、幕藩制下の法的社会的秩序に反抗したのである。 

 蓑笠は常態ではなく、異形なのだ。

 

南総里見八犬伝』は江戸時代後期の読本である。作中に蓑笠が登場すれば、当時の読者は百姓一揆を連想しただろう。現代人が想像する以上に鮮烈なイメージ結合だったはずだ。

 概して、八犬伝の主人公たちはよく逃亡する。日本の文芸における逃亡の思想的背景を考察した『日本逃亡幻譚』(松田修)という面白い本があるが、いまは触れないことにする。

 さて冒頭、第一回に里見義実が落ち武者として登場する。逃げている場面から八犬伝は始まる。八犬伝の主軸のひとつは結城合戦の敗者を巡って展開する。その再興の物語だ。

 義実は結城から逃げる途中で宿を借り、その主に具足を与える。そこから先は「姿をやつし、笠ふかくし」て逃げ続け、三浦の入江に到着する。「蓑笠」とは書いていないが、姿をやつすのに適した恰好は蓑笠だ。その後、雨に見舞われてもいるので、義実は蓑を着ていると読者は想像するだろう(挿絵では、蓑を着て笠を被っている)。

 蓑と笠は、常人をこの世ならざる存在へと変容させる舞台装置だ。現世秩序から脱落すれば、その身を現世と幽世の狭間に置くことになる。義実が三浦の入江で龍を目撃するのも、理由のないことではない。道理の通った現世秩序の外側に身を置いたからこそ、不思議な現象に遭遇したのだ。そして、彼は秩序への回帰を果たすべく安房へ渡る。

 そのため、里見義実は現世秩序そのものである儒教に執着しなければならない。結城合戦に敗れ、室町幕府の支配体制から追放された里見家は秩序の外に置かれた。御家を再興するには、勝者以上に秩序の遵奉者たらざるを得ない。現に、義実が安房国守まで登り詰めたのは、敵対者と違って儒の教えを全うしたからだ。そうした背景があるから、愛娘を犬に嫁がせてでも秩序を全うせねばならなかった。この秩序(儒)は個を超えた世の理であり、「現世」の英雄となった義実には超えることのできない限界だった。

 義実は、安房一統までの知略無双の活躍が嘘のように、いつの間にか情けない当主になってしまう。その理由も明白だ。里見家を襲った玉梓の霊や八房は、現世秩序の外にあり、儒の理では解決できない種類のオカルトだったからだ。

 であれば、義実が用いた理とは別のパラダイムが必要になる。そこで娘の伏姫は、仏教(如是畜生発菩提心)や道教役行者)を取り入れることで、父が祓うことのできなかった玉梓の呪いを解消する。

 あるいは、伏姫説話を馬琴版『三教指帰』として読むことも可能だろう。伏姫の数珠の八文字が元に戻ったことから、物語は儒へと回復した。伏姫説話はそれ自体で完結しながら、長い物語の始まりに相応しい壮大さも兼ね備えている。ただし、ここで玉梓の呪いが絶たれなければ、八犬伝は始まらない。仏教、道教を通過することで、理外の理を含む、義実の世界よりひと回り大きな儒の道理が、物語の前提に配置される。義実から伏姫への世界の移行は、物語の秩序がダイナミックに変成した成果なのだ。

 

 次に蓑笠が現れるのは、死刑に処されようとする額蔵を三人の仲間が救出した後、その逃亡中のことだ。(第四十三回)

 こちらが本題である。

「返せや復せ」と呼かけたる、町進は真先に、水際に馬をのりすえて、鞭をあげつつ招けども、矠平は耳にかけず、舩底より蓑笠を、四ばかり取出して、四犬士にわたしていうよう、「折から逆風なれば、いかばかりに漕ぐとてもこの舩を、前面の岸へよせがたし。雨はようやくはれたれども、敵の箭をふせがんためなり。とくとくめされ候え」

 ここでは明確に「蓑笠」と記される。近代以降の小説の観点からすると、馬琴は説明しすぎる向きがあるが、それはともかく、雨はやんでいるのに蓑と笠を着る理由が丁寧に語られている。が、実のところ、理由はなんでもよい。

 この額蔵は、五逆の罪で刑死されるところだった。五逆とは、主君、父、母、祖父、祖母を殺すこと。額蔵は大塚村の荘官に仕える下人だ。荘官蟇六が殺される現場にたまたま遭遇し、犯人を殺したことで逮捕された。裁判の結果、荘官蟇六夫婦殺しの罪まで着せられ、処刑の名目は主殺し=蟇六殺しになった。それが冤罪だからこそ、犬士たちによる救出も正当化され得るのだが、しかし、物語世界においては、なおも五逆を背負った逃亡者である。ゆるがせにできない五常の徳目を犯した彼らは、現世秩序の紊乱者と看做されるだろう。主殺しの大罪を抱えて逃亡した罪人、その罪人を助けた者たちとして、以後、彼らは許されざる罪を背負うことになる。

 こうして社会から追放された彼らは、その途上で蓑笠を身にまとう。雨が上がった川の上、矢から身を守るという理由で。その舟には、あらかじめ四人分の蓑笠が用意されていた。

  伏姫説話に続き、第十五回からいわゆる「犬士列伝」が始まるが、犬塚信乃の誕生と成長や行徳村での災難は、さほど人智を超えた出来事を引き起こさない。妖怪変化の跋扈するおどろおどろしいバロック劇と思われがちな八犬伝だけに、思ったよりも大人しいと感じる人もいるかもしれない。

 その印象の相違はどこから生じるのか。

 伏姫が現世秩序の理の外で玉梓、八房の呪いと対峙したように、犬士たちも刑場から逃亡するこのとき、ようやく現世と幽世の曖昧な境界に立たされる。この川を渡ったところから、物語は違った貌を見せ、不可思議の色合いが加わってくる。つまり馬琴は用意周到に、リアリズムから反リアリズムの世界へ移してゆく地ならしを行っているのだ。そのために、一揆の装束である蓑笠を用いた。

 これは、里見義実の安房一統から伏姫説話への移行、すなわち、現世秩序から混沌へ移っていった過程の反復でもある。

 荒芽山へ至る道は、四犬士が舟で蓑笠を着たときに整ったと言えるだろう。

 

 ここで四人の犬士が社会から脱落したが、必ずしもネガティブな意味のみではない。以前の社会との関係性からの逸脱である以上、虐げられる存在であれば、別のなにかに変身する機会でもある。スロースロップの変装がそうであったように。

 額蔵は、荘官の下人として不当に扱われてきた。この逃亡中、額蔵自ら犬川荘助と名を改めるが、その台詞はこう続く。(第四十四回)

「額蔵とは荘官の、そぞろに名づけし字なり。今さらおもえば、不祥の義あり。額はすなわちひたいと読めり。額は顕すものなるに、額蔵と熟すれば、額蔵るると読むをもて、世をしのぶ貌あり。また死人の幎面に似たり(後略)」

 覆面を「幎面」とし、死装束と強調している。前掲『一揆』には、百姓一揆の変装として、蓑笠姿と並び、ものを被ったり白布で顔を覆ったりする例示がある。覆面は、中世社会の代表的な異形だったという。

江戸時代の一揆に、覆面姿の異形が多くみられるのは、この非人姿と共通の意識がそこに存在しているのかも知れない。(『一揆』)

 下人身分(非人)だった額蔵は、社会から脱落したことで人になったと表明するのだ。額蔵が犬川荘助という名だとは、その場にいる犬士たちも承知している。それなのに、あえて言明するのは、犬川荘助として生まれ変わらせるためには、覆面に匹敵する他界の象徴である蓑笠の異形を通過する必要があったからだろう。

 蓑笠は現世における縁を断ち切り、個人を見えない存在へ変相させる。社会との関係が絶えれば、その社会においてその人は見えなくなる。百姓一揆の思想も、そこに根っこがある。権力への抵抗は、現にいま自分が生きる社会そのものとの戦いでもある。その社会がなくなれば自分自身も生きてゆくことができない。だから、一旦社会の外に身を置く必要があった。その結果、元の社会に戻れないとしても自分たちの要求を通そうとする命がけの訴えが、異形である蓑笠姿として顕れた。

 一揆の変装は中世から続く習俗を基にしたものだが、もしかすると江戸時代にはその起源が忘れられていたかもしれない。江戸時代の風俗として定着していた一揆の決まり事を、室町時代を舞台にした八犬伝に取り入れたことにより、期せずしてアナクロニズムの逆流を起こしているのは面白い。

 当時の民俗を採用することで、馬琴は八犬伝を分かりやすいものにした。現代では、秩序と混沌を行き来する民俗の共通認識が絶えたせいで、説教臭いイメージばかり先行して魅力が伝わりにくくなっているかもしれないが、八犬伝儒教の秩序を謳いあげた物語ではない。犬士はむしろ秩序を紊乱する。八犬伝が描くのは、現実の裏側であり、現世の外側にあるものだ。秩序から外れた無頼の物語という側面のほうがずっと強いだろう。 

 社会の秩序に圧迫されたとき、その社会そのものへ戦いを挑むことには困難が伴う。八犬伝が熱狂的に受け入れられたのは、現世秩序への抵抗がしっかり描かれているからだろう。人々が漠然と感じる逃げ場のなさや閉塞感への突破口を、この物語のなかに見出したからだ。

 馬琴は一揆を参照することで、社会からの脱落を肯定的に描いてみせた。その馬琴当人が、別号として自ら蓑笠漁隠なり蓑笠軒隠者なり名乗っている。

  

一揆 (岩波新書)

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南総里見八犬伝 2 犬士と非犬士

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トマス・ピンチョン 全小説 重力の虹[上] (Thomas Pynchon Complete Collection)

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