夏の読書感想文②:レオニード・ツィプキン『バーデン・バーデンの夏』雑感

『バーデン・バーデンの夏』レオニード・ツィプキン著(新潮クレストブックス)。穏やかで静謐感に満ちた美しい小説である。ゆっくりと時間をかけて読んだ方がいいんだろうな。寝る前に少しずつ、少しずつ読み進めてゆくような。読み返すときにはそうしようと思った。
 さて、どうしても触れておかなければならないだろうと思うので、まず――。

 この本がなぜ知られていなかったか、それは理解にかたくない。まず、著者が専門の作家ではなかった。レオニード・ツィプキンは医師、有力な医学研究者であり、ソ連内外の専門学術誌には百点近い論文を発表してきた。しかし――チェーホフブルガーコフと比較しても詮ないことだが――このロシア人の医師 = 作家は生前、自作の文学作品が公刊されたのを一ページたりとも目にしていない。
 検閲とか恫喝などは筋書きのほんの一部にすぎない。お墨付きの公式刊行物に掲載するには、ツィプキンのフィクションが弱体だったことは言うまでもない。しかしサミズダットと呼ばれた地下出版物で読まれていたわけでもない。自尊心、度しがたい陰気、それに、非公式の文学機関による拒絶を恐れるあまりに彼は、一九六〇年代、七〇年代のモスクワに花盛りだった独立系や地下の文学サークルともいっさい関わりを持たず、「抽き出しの肥やしに」書いているのみだった。文学そのもののために書いていた、とも言えよう。

 スーザン・ソンタグの遺稿集『同じ時のなかで』(NTT出版刊)所収のエッセイ「ドストエフスキーの愛し方」より。ソンタグはロンドンのチャリング・クロス・ロードでペーパーバッグの古本の山からそれを発掘したという。
『バーデン・バーデンの夏』は(「発見」の公算が低いにもかかわらず)ソンタグによって「発見」された二〇世紀文学の名作である。

 ソンタグ遺稿集に収められ、邦訳版小説の後書きにもある、本来は英語圏での出版に及ぶ際にソンタグが書いた序文であるこのエッセイには、ツィプキンの生涯が簡略に綴られている(ソンタグは再録の際に必ず原稿を大幅改稿することで知られているが、それについてはひとまず置いておこう。「興味深い」点だとは思うけど)。それによると、生涯、ツィプキンはソ連の外に出ることはなかった。一九七七年、息子夫婦は出国査証を申請する。これが受理され、息子夫婦がアメリカへ出国すると、小児麻痺・ウィルス性脳炎研究所に勤めるツィプキンは、準研究員に格下げされる。これ以前に、ツィプキンの妻ナタリア・ミチニコワは息子の出国を難しくするのではと危惧して職を辞していた。この異動に伴い、夫妻の唯一の収入であるツィプキンの給与は七十五パーセント削られてしまう。息子の出国は、ツィプキンに「好ましからざる分子」のレッテルを張ったのだ。一九七九年六月、ツィプキン夫妻とツィプキンの母親は出国査証を申請した。しかし、ソ連のアフガン侵攻を契機として米ソ関係が悪化した一九八〇年、ソ連からの出国はほぼ全面的に停止される。一九八一年四月、彼らの申請は不適格で拒否されたと通知が来る。一九八一年九月末、彼らは再び出国の申請をする。十月十九日に母親が他界。一週間後、三名の査証申請差し戻しの通知が来る。一九八二年三月初頭にツィプキンはモスクワの役所を訪ねる。「博士、貴方の出国を許可することはありません」と言われる。三月十五日、研究所の職には留任させられない、と研究所所長から通告される。一方、『バーデン・バーデンの夏』は、ロシアからの出国者たちがニューヨークで出している週刊誌『ノーヴァヤ・ガゼーダ』に連載されることになり、同年三月十三日に連載の初回が掲載された。その一週間後、三月二十日、糊口を凌ぐための医学論文翻訳の仕事中だったツィプキンは、心臓発作を起こした。横になり、夫人を呼び、そのまま他界した。





 小説『バーデン・バーデンの夏』の主な舞台は、タイトル通り、ドイツの保養地バーデン・バーデンである。バーデン・バーデンで過ごすのはドストエフスキー夫妻。一八六七年、フェージャ・ドストエフスキーと年の離れた二番目の妻アンナ・グリゴーリエヴナは、新婚旅行で夏のドイツへ発った。一方、現在のソ連国内にいる「私」は十二月の終わり、冬の真っただ中に、モスクワからレニングラードへ向かう列車のなかにいる。その手には、「当時まだ考えられたリベラルな出版社」から刊行されたアンナ・グリゴーリエヴナの日記がある。文学者だった叔母から借り受けたそれを列車に揺られながら私は読み、ときに車窓に目を遣って、アンナ・グリゴーリエヴナとフェージャの物語へと読者を誘う。
 こうして、まったく異なる二つの時間二つの場所が溶けあいながら小説は進行する。フェージャとアンナのいる夏のドレスデンやバーデン・バーデンはかつてそこに「あった」ものではなく、私と同じ時空に配列されている。過去が過去として描かれるのではなく、同時性として現前してくるのである。フェージャは一八六七年の彼自身を形成してきた過去の出来事を想起し、その過去に縛られ続ける。また、アンナもやはりフェージャとの出会いを思い出し、現在の困難に涙し、今後の生活を夢見ながらお腹に宿った小さな生命を慈しむ。それらは一八六七年の夏に凝縮され、同時に現在の「私」が手にしたアンナの日記や夏のドイツの別荘地とは本来なら似ていないはずの真冬の車窓から見える光景と二重写しになってくる。
 実際、ドストエフスキー夫妻の新婚旅行と「私」のレニングラード行きとの間にはなんの関連性もない。しかし、その二者を繋ぐ奇妙な場所の記憶は、私のなかにあるロシア文学の記憶と融合して、再編されたフィクションとして立ち現れる。想起すべき点は、作者であるツィプキンは一度もバーデン・バーデンへ行ったことがないということ。また、フェージャの姿はドストエフスキーの小説の登場人物たちの幻影へと変化する。それもやはりバーデン・バーデンとは関わりがない。
 こうした物語の多重性は、私がレニングラードに到着してからのほうが明確に浮かび上がってくる。
 私がレニングラードに到着すると「同時に」、フェージャとアンナはバーデン・バーデンを去る。私は母の知人であるギーリャを訪ねて、泊めてもらう。ギーリャの住む古びたアパートメントには、アンナ・グリゴーリエヴナという名の老女が住んでいるが、ここではアンナ・グリゴーリエヴナについて私は何も語らない。私はただギーリャの語る、彼女が二十年前に死別したモーズャ(女好きの夫)の話に耳を傾け、ギーリャとモーズャの奇妙な愛について、やはりドストエフスキー夫妻の新婚旅行についてと同じように物語を紡いでゆく。その物語は私の意識のなかで現前化して、やがて、晩年のフェージャとアンナの愛の物語へと流れてゆく。
 私はかつてアンナ・グリゴーリエヴナが実在したことを知りながら、現在にはフィクションとして編纂されるものであることも自覚しているのだろう。だからこそ、同名の老女が側にあってもそれはフェージャの妻アンナとは似ても似つかず、その顔の上にアンナが二重写しされることはない。

 私は建物のすぐそばまで行った――角に表札が掛かっていて、「ドストエフスキー通り」と書かれていた――でも私はなぜか名称を変える以前のまま「ヤムスカヤ通り」だと思いたかった――

 現実のレニングラードにいる私は、「ドストエフスキーの家」へ行き、写真を取り、冬の街を歩き、ここをぺテルグルグだと思いたい。私はドストエフスキーのことばかり考えているからこそ、その通りに立ったとき、穏やかな気持ちで小さな願望を吐露するのだ。
 作中で、「私」のはっきりとした意見として描かれるのは、この「ヤムスカヤ通り」の件と、「ユダヤ人」の問題だろう。ツィプキンはユダヤ人である。そして、ドストエフスキーの『作家の日記』が最も顕著かもしれないが、彼の小説中にもユダヤ人への罵倒が頻出する。ツィプキンにとって、これは切実な問題だったのかもしれない。「私」はそれについて自問する。

 小説のなかであれほど他人の苦しみに敏感で、苦しめられ傷つけられた人たちを熱心に擁護し、生きとし生けるものすべてが存在する権利を熱烈に、いや激烈とも言えるほどに説き、一本一本の草や一枚一枚の葉への賛辞を惜しまなかったドストエフスキー――そのドストエフスキーが、数千年にわたって追い立てられてきた人々を擁護したり庇ったりする言葉をただの一言も思いつかなかったのはどういうことなのか

 その一方で著名なドストエフスキー研究者にはユダヤ人が多く、「多くのユダヤ人の文学研究者がドストエフスキーの文学遺産を独占に近い状態で研究している」ところにも、「不自然」ではないかと自問する。どちらの問いにも明瞭な答えは出ない。私はただ、バーデン・バーデンとバーゼルの間にあるどこかの鉄道駅にいるぶざまな恰好で踊る男を思い浮かべるだけだ。雪の降る中、そのプラットホームはバーデン・バーデンとバーゼルの間ではなく、モスクワとペテルブルクの間に位置するトヴェーリ駅だと気づく。男は身だしなみを整えようと改札広場にある鏡へ向かう。鏡に映っていたのは自分の姿ではなく、イサイ・フォミチだった。『死の家の記録』に登場するユダヤ人、「傲慢なのに臆病で、仲間に高い利息で金を貸し付けるのも厭わない」イサイ・フォミチ。
 こうした意識の流れに対して、私はまた自問する。

 そして、ギーリャのところで「先刻」(彼ならそう言っただろう)見た夜の幻影、最後にドストエフスキーがイサイ・フォミチに変身したあの幻影は、自分のドストエフスキー熱を「合法化」しようという私の潜在意識のなせるみじめな試みだったのではなかろうか?

 やはり答えは出ない。けれども、その内省に続いて私が目にするのは、貧しく汚い恰好をした両親と、七歳か八歳くらいのみすぼらしいコートを着た少女である。三人は雪の吹き溜まりに嵌まり、女の子が両親になにか言い、女の子は両親の前に立って道案内のように歩きだしたが、あるいは両親のことが恥ずかしかっただけかもしれない、と私は思う。
 その光景はどことなく『カラマーゾフの兄弟』のワンシーンを想起させ、読者たる僕はふっと息を吐くような感慨に囚われる。「私」にはもうなにかが分かっているのではないだろうか、と感じてしまう。

夏の読書感想文①:鎌池和馬『とある魔術の禁書目録』雑感

とある魔術の禁書目録』既刊23巻(SS2巻含む)を大人買い&一気読み。いやぁ、おもろい。おもろいよ!!
 圧倒的なスケールと情報量、次々に投入される魅力的なキャラクター、そのうえめくるめく展開の速さにストーリー自体の面白さと、まぁ語りたき事柄は多々あるにつきだけど、これじゃきりがない。

 科学と魔術が交差するとき、物語が始まる。って看板に偽りなしで、境界線が曖昧になってゆくというか、絶対的な価値観のようなものを揺らがせてゆくというところにも面白みがあり、それは科学とオカルトの境界だけじゃなくて、強者と思われていた超能力者や魔術師(そもそも魔術は才能のない弱者が手にした能力だそうで)が強大な力ゆえに悩んだり、強者の側にいたいと願う信奉者たちが強者の力を目の当たりにして無気力に襲われたり(16巻は感涙ものである)、何が善で何が悪かの基準のない世界での自己の立ち位置に悩みながらも突き進む作中人物たちの誰もに共感できたりする。主人公の敵たちにも過去があって事情があるのだ。
 状況が拡大するにつれて主人公中心のストーリーが王道展開の枠をはみ出してって、特に16巻以降は最初からクライマックスな状況にもかかわらず引いた筆致で描かれるから、これほど危機的状況の最中にありながらどこか静穏にさえ思える話の運び方なんてまるでカズオ・イシグロのアレみたいだったりするのだが、うん、これは単にとある作中人物のステータスからの連想なのかも。ホント「妹達」は清涼剤です。ほえぇ最近の中高生はこういうとこから読書体験を始めるのかぁ、とおっさん臭いことを感慨深く思いつつ、こっから派生してゆくなら彼らの興味はどこへ進むのだろうか? と思いを来し、「次に読む本は『家畜人ヤプー』が良いんじゃねえのキャハ☆」と悪意まみれに提案してみる。
 ま、いまさらあれこれ言うに及ばない有名作品なわけで、余計なことばかり口走ってると昔からの読者に怒られそうなので、とりあえず言っておかなければならないことを書いとこう。
 アニェーゼは早く超機動少女カナミンのコスプレをしやがれです。


 あれこれ語るに及ばないとは言い条、それでは読書感想文にならないのでよしなしごとを連ねてみる。
 ストーリーを一言で述べると、「とある不幸な少年のとある不幸な一日」。あまりに不幸すぎるので日常的に不幸な一日を過ごしています。展開の速さは各エピソードが一日に凝縮されるからかも。
 とある不幸な少年上条当麻は、学園都市と呼ばれる科学の街の高校生。東京西部に広がる隔離されたこの街の文明は、外の世界よりも二、三〇年進んでいる。学生たちのカリキュラムは超能力開発。そこに訪れた魔術世界の少女インデックス。彼女は一〇万三〇〇〇冊の魔道書の原典を管理する「禁書目録」という重要人物だった。おいおい魔術なんてあるわけねえだろ、と科学どっぷりの街で暮らす上条当麻は当惑するが、少女を襲う魔術師が本当に現れて――というところから物語はスタート。
 作中人物の配置が絶妙で、これは小説構造の多層化現象としても見ることができる。キャラクターの布置と配列のセンスに感嘆し、これが魔術をベースにした物語を組み立てる上でかなり有効に機能しているかも、と思わせる。
 魔術発動の設定としての「偶像の理論」は、一見恣意的な取捨選択として立ち現れたように見える世界観(魔術サイドと科学サイドという二項対立)にリアリティを与える。いわば、シリーズ全体に「偶像の理論」が適用されてるようなもの。ここに、物語の魔術的効果が現前する。たとえば、ロシア篇における上条のパートナーの変遷はまさに圧巻。戦闘系の少年の脇に解析・分析系の少女を置く、というほとんど偏執的に整えられた位置づけはもはや様式美とさえ言ってもいい快さがある(もちろん解説要因という役割はあるのだろうけど)。見て快いものは美である@トマス・アクィナス。これまた偶像の理論でしょうか?
 てなわけで、インデックスやラストオーダーにあやかって、構造解析してみる。
 まず、魔術の取り扱い。神話や伝承を基にした術式の組み立てという解説が所々で語られるが、てことは魔術に制約は付き物ってことで、仲間がピンチになったからって魔力がグンと跳ね上がって反則技を繰り出したり、とかはできないってこと。感情で能力が変化するのは専ら科学サイドであって、こっちは科学的に説明がつく。自分の脳内に創り出した「パーソナル・リアリティ」が超能力発現の基礎なのだから、感情の高ぶりはプラスマイナスどちらにも機能してしまう。この二つの世界の相違は案外重要だと思われる。
 というのも、魔術発動にはあくまで「偶像の理論」を基礎としており、これが十字架から「聖人」まで魔術サイドのキータームともなる。戦闘術式は簡略化した術式で構わないが、儀式の場合には綿密に理論を形として整えなければならない。これは古今東西の宗教や呪術に共通した認識。
 これに対して、科学サイドの超能力開発に関わる要素が「パーソナル・リアリティ」と呼ばれる、脳内に形成した独自の世界。量子理論を拡大解釈、というか「意図的に誤訳」した形で観測問題をストレートに表現しているのだと思われる。これは反駁が難しく、「意図的に誤訳」自体が「パーソナル・リアリティ」によるものだとすれば、考察は鶏が先か卵が先かの思考迷宮に嵌まってしまう。
 こうした魔術/科学の二つの世界の対比が、超能力=強者の能力・魔術=弱者の能力と位置付ける根底にあるのだろう。魔術を駆使するのに必要なのは「借り物」の物語であり、超能力を発現させるのは個人の持つ独自の物語。「借り物」という幻想を自己の現実に押し上げるため信仰は必要不可欠なものとなり、個人の信仰をより強固にするのは各宗派に分かたれた宗教共同体だろう。
 超能力開発に用いられる「自分だけの現実」という幻想が客体化されるって考え方も興味深いのだけど、「偶像の理論」という魔術発動の条件のほうについて考えてみたい。
 神話や伝承を基にして、実在するモノに神話の力をリンクさせることによって異能の力を発動させるという考え方は、フーコーが『言葉と物』で検証した「類似」の概念でもある。

 十六世紀末までの西欧文化においては、類似というものが知を構築する役割を演じてきた。テクストの釈義や解釈の大半を方向付けていたのも類似なら、象徴のはたらきを組織化し、目に見える物、目に見えぬ物の認識を可能にし、それらを表象する技術の指針となっていたのもやはり類似である。世界はそれ自身の周りに巻きついていた。大地は空を映し、人の顔が星に反映し、草はその茎の中に人間に役だつ秘密を宿していた。絵画は空間の模倣であった。そして表象は――祝祭であるにせよ知であるにせよ――つねに何ものかの模写にほかならなかった。人生の劇場、あるいは世界の鏡であること、それがあらゆる言語の資格であり、言語が自らの身分を告げ、語る権利を定式化する際のやり方だったのである。

 こうした類似や相似を基礎とした知の在り方は十七世紀初頭には勢力を失ってゆく。「思考は類似関係の領域で活動するのをやめる。相似はもはや知の形式ではなく、むしろ錯誤の機会であり、混同の生じる不分明な地域の検討を怠るとき人が身をさらす危険」と看做される。代わって台頭するのが、記号と物の二元論。ある物の名前はその物に相似した何かで呼ばれる必然性をなくし、記号とは物を区別するものとなり、こうして世界は分析と結合の対象となって秩序づけられるものとなる。その秩序に類似や相似は関与しない。記号は物に似ていないことが当然とされる世界。これによって、物から隔離した記号としての言葉による思考が可能となった。つまり、「知はもはや、古い〈言葉〉を、それが隠されているかもしれぬ未知の場所から掘りおこすのではない。知はいまやひとつの言語を創り出さねばならないのであって、その言語は分析と組み合わせとを行う、真の計算言語であることが必要なのだ」。思考と認識は、記号の体系によって世界の秩序を編んでゆく。ある記号がある物と似ているか似ていないかは問題ではなくなる。時代は、錬金術からライプニッツニュートン記号論理学へと移ってゆくのである。
 こう考えると、各作中人物が体系を丸ごと形成する『円環少女』は十七世紀・十八世紀的な古典主義時代型(或いは、バロック型)、類似概念を基礎とした『とある魔術の禁書目録』の魔術発動条件は十六世紀ルネサンス型と言えるかもしれない。一概に魔術世界とはいっても、それぞれの記号の使用法の違いによって、基本としている知の在り方の相違に左右されるのだろう。
 更にもうひとつ。こうしたルネサンス型に支配された魔術世界だからこそ、その知の管理者名がIndexなんだろう。類似概念の薄らいだ世界においては、目録による魔術の発動は困難になる。十七世紀半ばには、書名と内容を一致させる根拠が失われるからだ。その場合には、一冊一冊をcodex化して管理せざるを得なくなる。『円環少女』の体系魔術はcodex化されていると言えよう(比喩的には)。
 しかし、十七世紀には失われたindex型世界は、フィクションにおける物語と現実の相互干渉の在り方としてはひとつの有効打を提示しているようにも感じられる。作中で描写される魔術発動の原理は、そのまま閉じられた本を現実に向かって「開く」ためのひとつの方法論になる。必要最低限の箱庭としての配置図(「偶像」)を作り上げてそれ以外の現実を捨象し、箱庭世界には現実に対応した類似形を「正しく」配列し直す。作中人物や小道具や舞台そのものが現実の雛型として配置されるだろう。そこから現実に向かって放たれる魔術として、物語は機能するだろう。このフィクション観は、パラケルスス言うところの「完全に類似していて、どちらが相手にその相似をもたらしたのか誰にも言うことができぬ」世界観と同質だ。


 話は変わって――。
 シリーズ中、最も気になるキャラクターは、やっぱり学園都市統括理事長であるアレイスターなる謎の人物かなぁ。アレイスター・クロウリーその人がモデル。で、この二十世紀に生きた実在の魔術師クロウリーについては別のところでも言及されてて、本編21巻現在、重要なキーとして謎が提示されたままになっている。7巻で登場する『法の書』というクロウリー(本名・エドワード=アレキサンダークロウリー)が書いたとされる魔道書がそれ。禁書目録にさえ解読できないという難解な書。と、これは後に取っておくとして。
 魔術サイドの少女インデックスが「管理」する禁書目録に保管された一〇万三〇〇〇冊の魔道書の原典はキリスト教(作中では「十字教」)関連ばかりではなく、世界各地の不思議文献が集められている。ここで空想の羽を広げて、一〇万三〇〇〇冊の魔道書の原典ってどんなのだろうと妄想してみる。
 いまのところ作中で明らかにされたタイトルは、『金枝篇』『Mの書』『ヘルメス文書』『秘奥の教義』『テトラビブロス』『抱朴子』『桃太郎』『金烏玉兎集』『創造の書』『ネクロノミコン』『死者の書』『エイボンの書』『暦石』『法の書』などなど。『金枝篇』は、フレイザーがイタリアのネミの森に伝わる風習と伝承を検証した民俗学の研究書。『ヘルメス文書』は三世紀のヘルメス・トリスメギストス(三倍偉大なヘルメス)が記したとされる錬金術聖典。『Mの書』はローゼンクロイツが東方の魔術師から授けられた自然魔術の奥義。『秘奥の教義』はブラヴァツキー夫人の『シークレット・ドクトリン』か。『テトラビブロス』は古代ローマの自然学者プトレマイオスの記した占星術の古典。『金烏玉兎集』は陰陽道秘伝の書。『創造の書』はユダヤカバラ聖典のひとつ『セフィロトの書』で、『ネクロノミコン』『エイボンの書』はクトゥルー神話より。
 以上を分類してみると、こうなる(サンプル数が少ないのであくまで妄想ですよ、あしからず)。
  ①作者未詳の魔道書。
  ②伝承を集めた魔道書。
  ③架空の物語内に登場する魔道書。
 それぞれの特徴としては、①ヘルメス・トリスメギストスやローゼンクロイツは実在を疑われている人物であり、『金烏玉兎集』や『セフィロトの書』『死者の書』は起源がはっきりしない。②『金枝篇』『抱朴子』『桃太郎』『暦石』は伝承を編纂したもの。③クトゥルーラブクラフトの作った神話である。扱いが難しいのは、『シークレット・ドクトリン』か。これは世界各地の聖典の引用・注釈の書で、ブラヴァツキー夫人が実在を主張する『ジャーンの書』なる聖典から主に由来しているという。ということはつまり、②伝承を集めた魔道書、に含まれるだろう。
 ここでちょっと「あれ?」と思う。
 魔道書とは「魔術師が記した魔術に関するテクスト」のはず。だとすれば、④とある魔術師によって記された魔道書、だってあるかもしれないぞ。
 近代魔術もアリだから、エリファス・レヴィでもグルジエフでもいい。ブラヴァツキー夫人がいていいのなら、シュタイナーの『アカシャ年代記より』でもいいわけで、いっそのことディックの『ヴァリス』なんかあったほうが面白かったりするだろう。けれど、既刊中タイトルだけを明かされたものにしてもそれらでなく、近代魔術師の著作として選ばれたのが『シークレット・ドクトリン』と『法の書』だけ。この選出に、ちょっとばかり興味を引かれる。前者が世界各地の聖典の寄せ集め(とされている)のに対し、後者はそうではない(その上、ルビ付きが特徴的な小説なのに『秘奥の教義』なんてありがちな書名に「シークレット・ドクトリン」とルビがないのを見ると、もしかすると別の魔道書という可能性だってある)。
 身近な例では、空海の『秘密曼荼羅十住心論』や聖徳太子の『未来記』(これは偽書だが)、または三浦梅園や平田篤胤辺りが例に出てもいいんじゃないのか。なにしろ主人公は日本人だから、インデックスが魔道書について説明するなら、まず日本の魔道書から説明するんじゃなかろうか。更に敷衍すれば、魔術の世界を語るにはピコ・デラ・ミランドラやスウェーデンボリなどは重要な「名前」だと思うし、それよりなにより、誰もが知ってるシェイクスピアを挙げないところに不自然さがないだろうか? 『テンペスト』が混じっていても違和感はないはずだ。
 さて、いったい何が言いたいかというと、仮に占星術の古典を自然科学の一種で扱いが違うとすれば、作中で原典とされる一〇万三〇〇〇冊とは「原則的に」明確な作者が不在の書物ではないのか、ということ。④は存在しないのではないか、ということ。言うまでもなく聖霊によって記されたとされる『旧約』もそうだし、『新約』だって作者不詳だ。一〇万三〇〇〇冊の一冊である『ヨハネの黙示録』(迎撃術式としてインデックスが駆使する「ペン」)のヨハネさんが誰かは結論が出ていない。
 で、疑問がまたひとつ。
 ……だったら、『法の書』だけがちょっとばっかし浮いていやしませんか?
 もちろん『法の書』もクロウリー独自の思想ではなく、エイワスという知性体からのメッセージをクロウリーが文書化したものとされている。でも、このエイワスという存在にはそもそも根拠がない。『ジャーンの書』にも根拠がないと言われればそれまでだが、『シークレット・ドクトリン』が原典として禁書目録に採用されたのなら、恐らく『ジャーンの書』はかつて存在し、今は失われたと見做されているはずだ。でなければ、禁書目録に加えられるべきは『シークレット・ドクトリン』ではなく、『ジャーンの書』であるべきだから(あ、もちろん小説内の話ですよ)。
 それでは、エイワスが実在するとなると、話はどうなる? ますます『法の書』の特異性が際立ってくることにならないだろうか。エイワスとクロウリーによって書かれた原典であるところの『法の書』。ここには明確な作者が存在する。つまり、分類④の魔道書。(作中に登場するもう一冊の作者が明らかな魔道書を考えてみよう。アウレオルス・イザードが記した『黄金錬成』は一〇万三〇〇〇冊に含まれてなかったのではなかったか?)
 そこで、明確な作者が判明している魔道書を例外扱いしてみると、この世界における魔術の立ち位置が、ほぼ完全に神話や伝承に基礎を置いていることになるだろう。神話モデルに関しては、クリステヴァがこんなことを言っている。

 送り手‐受け手の一対一対応が神話共同体では正当化できるわけは、そこでは共同体が両方の役割を引き受けており、このような共同体がいわば自らに差し向ける言述の発信者でもあれば受信者でもあるからである。――『テクストとしての小説』

 神の言葉は神そのものの口から語られることはない。だから教会であれ村落共同体であれ、共同体内の言葉として「伝承」された形式で発信される。それを聞く側も個人であると同時に共同体の一員である。しかし、だからと言って、ある任意の共同体が神話によって結び付けられているのではない。なぜなら、

 神話的共同体はその神話のなかに/によって存在するのであり、神話の前とか後に存在するのではない。こういうわけで、送り手‐受け手の対話が神話的物語の顕現のレヴェルで現在化されていない理由が理解できるのである。――前掲書

 誰が誰に対して語ったのかなど(実際には)どうでもいい語りとして、神話は構成される。すでにそこにあるものであり、一種の「世界の限界」を指し示す。この限界を認識しながら、なおかつ世界を拡大する試みが「類似」の概念――作中における「偶像の理論」である。
 しかし、こうした神話的共同体が崩壊してしまうと、送り手と受け手の間で交換可能な言述が生み落とされる。交換可能な言述とは、すなわち小説である。「主体=送り手は、小説の対話的構造を通して、主体=受け手と対話を営む」(クリステヴァ)。
 ここに神話的共同体に対しては異邦人である上条当麻の小説的な立ち位置がある。お説教を繰り出してパンチ一発でけりをつけてしまうのは、神話的共同体(あるいはそれに類したもの)をすべて「幻想」としてぶち壊すための、対話を目的としたものだろう。神話の中に潜り込んだ小説という奇妙な人物配置だからこそ、彼の存在は極めて特異なものとして映る。
 しかし、特異な存在は彼ひとりではない。更に奇妙に配置された作中人物がいる。
 それが、『人間』アレイスター。
 作中における『人間』アレイスターは(彼が「アレイスター・クロウリー」という特権的な魔術師であるならなおさら)、あたかも作者の如くに振る舞い、「プラン」という彼の物語に沿って「イレギュラー因子」である主人公たちをコントロールしようと企み、或いは新しい主人公を創り出そうとし、或いは、主人公となるべき作中人物とそうでない人物とを選別しようとする。ここで、小説の構造は多層化する。語る主体がどこにあるのか? 「語り」という魔術を発動するものはいったい誰なのか?
 神話に対して、小説の語りをクリステヴァは以下のように解釈している。

(小説の)語りの主体は語る行為そのものを通して、他者に話しかけるのであり、そして、この他者を照準にして、語りは構造化されるのである。であるから、語るという行為を、シニフィアンシニフィエの諸関係を超えて、さらに語りの主体と他者である受け手との間の対話として、研究することができよう。この受け手は読む行為の主体にほかならないのだから、彼は二重の方向――つまり、テクストとの関係ではシニフィアン、また〈語りの主体〉との関係ではシニフィエ――をもつ実体を代表していることになる。したがって、受け手は二元構成なのであり、この両項が相互間のコミュニケーションに加わることによって、一つのコード体系を成しているのである。語りの主体(S)もこの体系に引き入れられている(締め出されていると同時に含入されている)し、このことによって、彼自らも一つのコード、一個の非‐人格、一個の匿名存在(作者、言表行為の主体)と化し、一個の「彼」(作中人物、言表の主体)を通して媒介されるのである。――前掲書

 アレイスターが作者たらんとすれば、彼は「一個の匿名存在」であることを受け入れざるを得ない。或いは、「プラン」という物語を推し進める存在であるからこそ、誰よりも小説的な人物として、作中人物と化したときには、神話的共同体を内破する異物として際立ってくる。


 ちなみに、実在したアレイスター・クロウリーこそ不思議な人物で、魔術師でありながら小説を書いたりしている。教義を広めるために小説を利用した、と言えばなんとなく理に適っているような気分になるけど、そもそも教義を世間一般に広めようとする意志自体が魔術師にあるのだろうか? 時代の違いと言えばそれまでだけど、例えば薔薇十字団の教えは組織の構成員にさえ秘匿されるほど狭いものだ。
 魔術師という人種は本来カルトであって、世界に遍く自らの教えを広めようという気はあまりないんじゃないだろうか。魔術組織が秘密結社化してゆくのには、ひとつは迫害の歴史が影響しているのだろうけど、そもそもある任意の知識を持った相手でなければ理解不可能である、という認識が根底にあるんじゃないか。こうした考え方があるから、秘密結社となってゆく。
 これがいわゆる「宗教」との違いであって、魔術結社においては救済そのものは必ずしも目的ではない。小乗的な考えのほうが主であり、だからこそ奥底に選民思想が隠れている。だとすれば、小説という誰の目にも触れることが可能なメディア(近代においてはなおさら)を選択すること自体、矛盾していると言える。
 例えば、当時の心霊流行りに乗っかるように神智学会を設立したブラヴァツキー夫人は、結局のところ自前の宗教を作り上げたと言ってもいい。そのための『シークレット・ドクトリン』であり、だからこそ『ジャーンの書』という実在するかどうかも不明な怪しげな『原典』を持ち出して教義を整える必要が生じた。日本でいえば、大正時代に乱立した新宗教がそれに当たるだろうし、それこそ陰陽道の『簠簋内伝金烏玉兎集』から引っ張ってきた風水思想を基礎に据えた宗教組織はまさにそれ。教義自体の善悪の問題とは別に、掲げる看板は例外なく「救済」なのだ。
 クロウリーブラヴァツキー夫人の違いは明白で、クロウリーには「宗教」的な背景や意志があまり見られない。史伝を追ってみても、宗教的に成功しているとは言えない。もっと趣味的というか、目的がはっきりしないというか(どことなくデュシャンにも似たような遍歴だ)、でも、その辺りが魔術師の伝統に忠実なのだろうか。そう考えてくると、ますます小説という媒体を選択する意義が曖昧になってきて、こう言ってはなんだけど、小説という形はメッセージの伝達媒体としてはあまり優れた方法ではない。
 そもそも「読書」という行為は基本的に作者への冒涜であるし、当然ながら作者は受け手からのテクストへの冒涜を望むからこそ書くのであり、人類の歴史上それを最も有効的に利用してきたのが「小説」というメディアじゃないのかな。もちろんメッセージの伝達に関して「作者」が無頓着であるはずはないのだが、「作者」の意志と「読者」の解釈が100%一致するなんてことはあり得ない。そんなことを考えている作者がいるとすれば、それは小説家ではなく宗教家だろう。
 例えば「科学」と比較すれば明らかなように、「小説」には多様な読解が含意されるのであって、それは媒体として優れた点であり、同時に劣った点でもある。とはいえ、これもまた善悪の問題ではなく、それはそういうものなのだから、小説を読めない、という人の気持ちも自分なりには理解できる(つもりでいる)。
 小説を書く魔術師という存在に感じる違和感はそこにあって、魔術の知識は正しく伝えられなければ意味がないのであり、それは数学の公式が正しく伝わらなければ意味がないのと同じこと。間違って解釈された布置と配列はナンセンスだ。『法の書』解釈について、「汝の欲する所を為せ、それが汝の法とならん」というメッセージを前面に押し出し、「『法の書』は誰にも読めないんじゃない。本当は誰でも読めるけど、誰もが間違った解読法に誘導されてしまう魔道書なの」とインデックスが提示する結論は実によく腑に落ちる。解読不能の魔道書というテーゼ自体がとてもクロウリー的で、それはつまり「小説」的なのだ。
 そう言えば、クロウリーの小説『ムーンチャイルド』には、クロウリー自身をモデルにしたという二人の魔術師が主人公として登場する。この小説を読むとクロウリー自身の科学に対する関心が窺えて面白いのだけど、同時に作中の二人の魔術師は、クロウリー自らの魔術教義であるところの『法の書』を使って魔術を発動する。クロウリー自身の考える魔術は独自の体系魔術のようで、記号による結合魔術の印象が強い。相似に頼ることなく重なり合った異次元世界との間に通路を開くような魔術を駆使するあたりは、シリーズ中のAIM拡散力場(というか虚数学区か)へと通じるものがあるだろうか。
 ま、よもやま話である。
 あぁ、なんだかとりとめもなく脱線しまくった感があるが、とどのつまり、僕が言いたいことはひとつだけである。
 絹旗、超かわいい!!!

一瞬と時間:クリストファー・ノーラン監督『インセプション』雑感

 先月、森山大道さんとお話をさせて頂く機会があり、以来、写真というメディアの特殊性についてしばしば考える。演劇、映画、音楽、文学等のいわゆる「表現媒体」が、アリストテレス詩学に謂うところの「始まりがあって中間があって終わりがある」線形時間的な世界観の上に成立しているのに対し、写真だけが本来人間の知覚関心上に立ち現れることが不可能な「一瞬」を捉えることができる。一瞬とは、数学的にしか存在しない不可能な時間である。すべてが動き続ける世界において、一瞬なんてものは存在しない。
 そして、被写体はもちろん静止してはいない。風景だろうと静物だろうと何らかの動きが生じている。そこに自由意思があろうとなかろうと、世界から独立して存在しているものはない。大気は揺らぐし、太陽は傾くのだ。更に言えば、写真家本人だって静止していない。相対性理論以降、絶対的な時間や空間はそれこそ数学的な系としてしか存在できないのだから、写真家に動きがあれば、たとえ対象が完全静止していたとしてもやはり動いている。ともかく、写真はそうした決して静止することのない対象の動くままに、あり得ないはずの一瞬を捉える。言い換えれば、一瞬のうちに動きを表現する。森山さんの「アレ・ブレ・ボケ」という表現は「一瞬」の不可能性と可能性をひとつのものとして描出したものだし、車窓から流れる景色をフィルムに収めた路上シリーズは相対性理論の写真的実践と言えるだろうと思う(以上の意見は森山さんが語られたわけでなく、僕の勝手な見解です。念のため)。
 特異なメディアとしての写真が描き出すこうした「一瞬の動き」を小説にできないだろうか、とずっと考えていた。と言っても、もちろん妄想や回想を使って、というのではない。冒頭と結末を同じシーンにして内容を回想に委ねるのは、映画『サンセット大通り』を引くまでもなくよく見られる構成だ。時系列の移動は新味のあるアイデアではない上、いまやそれ自体においてテーマ性すら浮かび上がらない。また、一瞬のうちに繰り広げられる妄想にだって類例はたくさんある。それらは要するに、夢オチと変わりない。
 そもそも「一瞬」の表現とは、写真がそうであるように、人間の知覚する認識関心の外部に存在するものだ。時間軸上の前後は記述できても、その一点を語ることはできない。ましてや抽象的な点にすぎない何かを物語化することは困難だ。
 では、全く不可能な記述に関する思考実験をしているのかと言うと、そうではないのである。

インセプション』という映画が、今日から公開されている。クリストファー・ノーラン監督・脚本、ディカプリオと渡辺謙が出演している。珍しく公開初日に観に行った。




***以下、ネタばれを含みます。ご注意ください***




 映画『インセプション』は、他人と夢を共有したエージェントがその夢に侵入してその人の記憶から機密情報を抜き取る、という設定だけど、この設定自体は正直どうでもいい。記憶の「抜き取り」から記憶の「植え付け」(インセプション)へと話は展開してゆくのだけど、まぁこれも正直予測される展開だ。だからこれだけなら、ディックの小説を映像化して失敗した映画(どれとは言わないけど)みたいになってしまうだろうが、もちろんこれだけじゃない。なにしろ、ノーラン監督ですから。
 主眼は、特殊な時間論とその描き方(記述法)にある。
 記憶の植え付けは潜在意識の深いところで行うほうが効果的だという。そこでチームは対象の夢に侵入して、その夢の中で更なる夢へと侵入する。劇中では、睡眠状態にある人間の潜在意識を階層化して、これを夢の階層として表現してある。つまり、夢の中で見る夢の中で見る夢の中で……という入れ子構造になる。そして、より深い夢(潜在意識)に下りるにつれて、夢のアーキテクチャが不安定になってくる。不安定になると危険性が増す。目が覚めてもまだ夢の中、というネタはもはやミステリにならないけれど、逆転させるだけでとても興味深い設定になった。が、それだけならやっぱり真新しさはない。
 問題は、登場人物が階層を下りるにつれて時間の流れが変化することである。これは僕らが夢を見るときの体験から実感可能である。実際に人が夢を見ている時間はわずか数分なのに、夢の中での体感時間はそれを遥かに凌いでいるように感じる。知覚作用の速度が上がるから、相対的に時間を長く感じるらしい。夢の中の出来事がスローモーションで流れるのでないことは、こうした知覚と時間の相対性の影響だ。
 そこで、第一階層では「一瞬」なのに、第二階層では数分になり、第三階層では数十分になり、第四階層では数時間になる、という面白い現象が起こる。そして、この各階層は同じ人間の潜在意識内にあるから、上の階層で何かが起こると下の階層の世界そのものに影響する(上で浴槽に頭を突っ込まれると、下では洪水が起こるのだ)。更に、下の階層に下りるためには、夢へ侵入するためのオペレーターを一人、その階層に残しておかなければならない。このオペレーターはその階層にチームを連れ戻すための仕掛けを色々と執り行っている。彼らはチームで行動しているから、全員一緒に上の階層へ帰還しなければならない。この辺りの条件づけが見事で、だからこそ映画内の時間論が極めて有効に「物語的に」機能する。
 まとめると、こうなる。それぞれの夢の階層でそれぞれの登場人物が行動している。各階層はまったく異なる舞台であり、時間の流れも異なる。だから、ミッションをクリアするためのタイムリミット設定も異なる。けれど、その実、これらは同一の潜在意識世界であり、そこで流れている時間は同一なのだ。それらの出来事はすべて同時に起きているが、時間の流れが異なる。すなわち、数分の出来事と数十分の出来事と数時間の出来事が同時に起こっている。そして、それらは一瞬の出来事なのである。この場面の見せ方が素晴らしい。帰還の瞬間は感動して鳥肌が立った。

 一般的な物語記述においては、通時性という基本原則がある。始まりがあって中間があって終わりがある、という時間論だ。けれど、時間認識の異なる世界を同時に記述する場合には、共時性として描出される必要が生じる。この一瞬の物語を描くのに、ノーランは通時性と共時性を混淆して不思議な映像を見せてくれる。これは紛れもなく、妄想でも回想でもない、新しい時間映画の描き方だと思った(コリン・ウィルソンの『賢者の石』のタイムトラベルも同じようなアイデアだったかな、とおぼろげながらふと思う)。
 こうして見てくると、一瞬や瞬間というのは時間ではなく、無時間なのだ。無時間をどう描くかという問題は、記述の根幹にかかわってくる。
『意識と本質』(岩波文庫)のなかで、井筒俊彦はこう語っている。

 ……「元型」イマージュには、このように動き、変化して物語り進展するかわりに、全部が安定した一挙展開的構造体として現成するという、まったく別の側面がある。(中略)
 ここにも、動きがないわけではない。動きはたしかにある。というより、至るところに生々躍動する宇宙的存在エネルギーの沸騰がある。だが、「元型」イマージュが神話や物語として展開する場合とは違って、それは無時間的な動き、いわゆる「全体同時」的動きである。
 例えば胎蔵界マンダラでは、存在の太源である中心点から発出する創造的エネルギーが四方に広がって周辺部に達し、そこからまたひるがえって中心部に戻る。ゼロ(あるいは、一)と多との間の交互の存在振幅(=意識振幅)が、そこに見られる。しかしそれは、水面の波紋の動きのように、時を追って次々に移っていく動きではない。始めから、全体が同時に現成しているのだ。
 (中略)
 ……金剛界マンダラは、たんに密教修行者の意識深化過程の図示、あるいは意識深化を実現する目的で使われる瞑想の手段、なのではない。むしろ、第一次的には、金剛界マンダラも、胎蔵界マンダラと同じく、意識・存在の「元型」的構造図なのである。ただ、胎蔵界マンダラの場合とは、その構造化の原理を異にする。すなわち、金剛界マンダラは、事物の「元型」的「本質」構造を、深層意識の展開と還元の過程という動的な形に組み替えて形象化する。但し本来的には、すべてが始めから完全に現成しきってそこにあるこの「元型」空間では、過程とはいっても時間的過程ではない。構造的過程である。あるいはまた、すべてが時間的に移り変っていきながら、しかも移り変ったその場で、そのまま無時間化されていく、と言った方がいいかもしれない。いずれにしても、全体として見れば、そこに現成するものは一つの無時間的空間なのである。

 ベネディクト・アンダーソンが『想像の共同体』で分析したように、"meanwhile(この間)"が近代小説に必要な国家共同体的空間を生んだとすれば、物語記述者が同時性を突き詰めた果ての「一瞬」を意識し始めるのも当然のように感じる。これが物語否定(アンチ・ロマン)にさえ向かわなければ、同時性から共時性へ、更に通時性との連環構造を見出そうとするとき、「一瞬」こそが新しい物語を語り始めるのではないかと思っている。あ〜、近代の超克とかそういうことを言っているのではない。念のため。

フィクションとしての身体について:スティーブン・ソダーバーグ監督『ガールフレンド・エクスペリエンス』雑感

ガールフレンド・エクスペリエンス』を観る。ときどき出現する「物語らないソダーバーグ(または、真面目なソダーバーグ)映画」である。だからこの映画を観て、「ストーリーがないことを時間軸をずらす編集で誤魔化しただけ」なんて言っても始まらない。「語りたいことがなかったら映画撮るなよ」とか言っても意味ない。『セックスと嘘とビデオテープ』の頃から、ときどきソダーバーグはこんな映画を撮るのだし、むしろこういう映画のほうがソダーバーグっぽい気もする(『トラフィック』だって物語らしい物語はない)。僕はミュトス至上主義者じゃないから楽しめたよ。
 この映画は、ニューヨークの高級エスコート嬢の日常をドキュメンタリータッチで追ったものだ。決してドキュメンタリーではないし、フェイクドキュメンタリーと呼ぶにも虚構性が勝ちすぎてるから、フィクションはフィクションである。主演は有名なポルノ女優サーシャ・グレイ、というのが公開前に話題になった。
 主人公のエスコート嬢は「人格学」という如何にも胡散臭い本を信じて、仕事にも活用している。彼女の恋人が詰るように、人生を委ねるようにそんな本を信奉する様子はむしろコミカルだ。ソダーバーグの鬼才ぶりってのは、ポルノ女優演じる高級娼婦に「私は本の中に生きている」と言わせるところにあるのかもしれない。娼婦とは自己の身体をフル活用する職業のように思えるが、彼女のクライアントは必ずしもセックスを求めるのでなく、癒しを欲しがる。癒しとは現実に得られることのない虚構である。そして、虚構の代表格である「映画」は、この癒しを全面的に提供する欲望装置としてあった。「映画」では、虚構を虚構ではないと保証する対象として身体性は描かれる場合が多い。身体は常に「いまここにあるもの」とされてきたからだ。
 けれど、いまや映画はますます身体性から虚構性へ移りつつあるように思える。そもそも映画と身体性はあまり折り合いがよろしくないのではないか。ここでいう虚構性はポストモダニズムにおけるシミュラークルとは違う。映画の持つ虚構性と「真面目に」向き合う監督は、身体性に特化した職業人を別のレイヤーから捉えている節があるのだ。考えてみればこれは当然の話で、たとえば娼婦はセックスを職業としているのだから、セックス自体を客観視して受け入れなければならない。セックス(あるいは「ガールフレンド」という関係性)そのものを客観的に把握し、演じられるべき対象であると認識するとき、自己の身体は「その虚構」を紡ぎ出すための記号でしかなくなる。劇中で繰り広げられる固有名詞が頻出するモノローグも、自己の身体について、その身体から一定の距離を隔てて観察する自己の語りである(このモノローグをもって現代ニューヨークを描き出したなんて時代錯誤な言説には与しない)。物語が生まれる土壌はこの距離にあるとも言えるが、しかし、語るべきエスコート嬢には自らの物語を語るつもりは端からないのだ。それもまた虚構でしかないことを知っているからである。
 そうした彼女の恋人がジムトレーナーという仕事に従事している点も興味深い。彼もまた身体性を演じる職業人である。美しい肉体を創り出す職(ここでも客体化による虚構の創出は存在する。彼自身の肉体はモデルだ)にありながら、彼はトレーナーからジムのマネジメントへ移りたいと要求する。つまり、身体性からより距離を置こうとする。
 身体を描きながら、身体から離れてゆく。性の描出は身体(セックス)から物語(癒し)へと移行するだろう。そして、その物語はエスコート嬢のものではなく、ジムトレーナーのものではない。物語自体は虚構であり、クライアントのためのひとときの夢でしかない。ソダーバーグは物語らないことで、残酷にも現実を白日の下に晒す。だから欲望装置として鑑賞すると、梯子を外されたような感じに陥る。
 同じテーマで描かれた映画に、アロノフスキーの『レスラー』がある。『レスラー』のラストシーンはとても哀しい。この哀しさはたとえば『グラントリノ』のそれとは別物だ。『グラントリノ』が一貫して「老い」という身体性にこだわり続けるのに対し、『レスラー』は「老い」を描くように見せかけて、「老い」を含む彼の人生そのものを栄光という虚構の中に落とし込む。彼の人生は彼のものでさえなくなり、恐ろしいことには、彼はそこに自足を見出す。これはミッキー・ローク演じるレスラーが自らの虚構性を発見するまでの喪失の物語として描かれるから、語られる映画ではある。けれど、『ガールフレンド――』の人生が本の中にあるように、『レスラー』の人生がリングの中にしかなかったという結末は、老いや死さえが無意味化されてしまうほど追い込まれることで残酷さを増す。これらの映画は、「身体性」という語に含まれる嘘を暴きだしている。
 シミュレーショニズムへの傾倒が行きすぎたことで注目を一心に集めた「身体性」だが、これもまた神話化されてしまったようだ。自分の身体はいまここにあると言うのは容易い。けれど、それはあまりに時代錯誤な通俗観念ではなかろうか。身体をどのレイヤーで捉えるかという問題(たとえばマクロでもミクロでもない中間層という階層から語ること。フレーム問題も同じ問題系だ)は、今後、ますます深化してゆくだろう。それは複製概念とは全く違った捉え方で身体性を無効化してゆくだろう。身体は認識によって客体化されるが、複製化されはしない。「いま、ここ」の概念が変容するのであるから、この映画の「エクスペリエンス」というタイトルは素晴らしいと思う。

林檎は赤とは限らないわけで……

 ……一応、書いとこう。ま、備忘録として。
 先日、iPadを起動させるのにiTunesが必要だと知る。使用OSはWindowsならXP以上、macOSに限っては10.5以上だという。Windowsは二つヴァージョンが進んでいるが、macOS10.5は最新版というじゃないか。macユーザーはiPadを使用するために最新版のOSを購入しなければならないらしい。う〜ん、Appleとしては新OSに自信アリってことかもしれないけど、ちょっとなぁ……。
 それよりなにより、iPadiPod同様に母艦が必要というのはどうなんだろう。触れこみでは、iPadはPCに代わる新デバイスじゃなかったの? 結局、iPadを使うにはパソコンが必要ってことになるの? 違う起動方法があるのだろうか? せめてApple Storeで起動だけでもしてくれるならまだしも。まさかとは思うが、携帯電話との棲み分け? あちこちでiPadスマートフォンの進化形でなくノートパソコンのオルタナティブだと聞かされたのだが……。或いは、いまはまだ移行期という認識なのだろうか。
 相変わらずよく分からない会社だな、と思う。あくまでローカルにこだわる気だろうか。それとも逆に、世界をApple色に染めるつもり? 他社が母艦不要の携帯デバイスを開発したとき、市場がどう推移してゆくのか興味深い。もちろん発売時期によるだろうけど。任天堂辺りが乗り出さないかなぁ。

「しょうがない」を肯定する:石井裕也監督『川の底からこんにちは』雑感

「しょうがない」という言葉にはネガティブなイメージがあり、妥協の表明として機能する。人生は妥協の連続だから「しょうがない」ことだらけだ。でも、うっかり「しょうがない」を連発していると愚痴っぽい奴と思われて、損することもしばしば。だから、しょうがなく「しょうがない」とは口にしないようにせねばならない。
「中の下」という価値は、少し判断が難しい。それが5段階評価の2なのか9段階評価の4なのかで価値基準が大きく異なるのはさておき、自分で自分を「中の下だから」と言うとき、他人はその評価について「こいつは自分をその位置だと表明することで優越感に浸っている」と思われる危険がある(ニーチェ道徳の系譜』にある通り)。更には、「中の下」は論理的には「普通より下」だけど、少なくとも日本社会においては「普通」と同義ではなかろうか、とも思う。というのも、上中下の価値体系における中を3段階に分けて自己判断をする場合、中の中と言うより中の下と言うほうが心理的負担が軽くなるからだ。下手をすると、そこにまた微妙な優越感を抱いていると思われかねない。なにしろ「中の下」の下には「下」があるのだ。だから本当に「俺って中の下くらいだよなぁ」と感じていたとしても、うかつには口にできない。下手をすると、中の上や上の下よりも嫌味に受け取られそうだ。
 ここから本題――。
 渋谷ユーロスペースにて、『川の底からこんにちは』を観てきた。現在レイトショー公開中で、間もなく終了かな。危うく見逃すところだった。
 ニヒリズムをネガティブな意味に取る西洋文化に対して、東洋文化の背景では必ずしもそうではない。「中庸」を良しとするその理念は時に妥協と同じ意味のように誤認されるようだが、老荘思想とも絡みついて発展した中庸はそんな生易しいものではないだろう。ここにはニヒリズムの徹底化によるニヒリズムの超克があり、あるいはニヒリズムそのものを生きるという思想に繋がる。
 さて、劇中の満島ひかり演じる「中の下」の主人公は最初から終わりまで「しょうがない」と言い続けるのだが、前半の「しょうがない」と後半の「しょうがない」はまったく印象が異なる。が、意味が違ってしまうのではない。「しょうがない」はしょせん「しょうがない」だ。では、何が違っているのか?

 やや横道に逸れるが、西洋世界におけるニヒリズムの否定性は、選択という概念に重きを置く西洋世界の在り方を規定してもいる。
 たとえば『マトリックス』でも『ハリー・ポッター』でもなんでもいいのだが、物語における主人公の主体性の要は「何を選択するか」という選択権に委ねられる。これは伝統的な考え方であると同時に、ある一定の秩序を無条件に信頼できなくなった世界における個人にとっての最後の砦でもあるようだ。世界はメチャクチャで何が起こるか分からない。けれど、そこで何かを選択する権利が人間には残されている。それを希望と捉えるイデオロギー。こいつが相対化された世界を肯定する唯一の方法論の如く語られるけど、こうしたテーマは語り手が思考停止を起こしたように感じてがっかりする(但し、似たテーマでもレッドフォードの『大いなる陰謀』は一頭地抜けている。これは恐ろしい映画で、何かを決断するならば「決して間違ってはならない」と突きつける点がストイックだった)。
 そもそも、往々にして「選択」とは結果として表れるだけではなかろうか。自分が何を選択したかなんて選択した瞬間には分かってないことがほとんどだ。国政選挙における代表制のパラドックスを引く気はないけど、現代社会を生きる上で主体としての意志が自分の選択に反映されたと信じ込むには相応の努力が必要だ。本音ではこう言いたい。選択が主体の権利として与えられているのではなく、誰の意志で行われたのかも定かでない自己の行動責任を自分のものとして引き受けることこそが主体の存在理由なのだ、と。である場合、根底にあるのは紛れもない「しょうがない」である。これは自分が選んだ結果なのだからしょうがない、というわけだ(たとえば『ナイロビの蜂』は選択の権利よりこの責任帰属性に主体の価値を置く。現実に、個人の行動を決定する根幹は選択権ではなく責任感だろうと思う)。
 もちろん「しょうがないなんて言ってても何も変わらない」という意見は正しい。行動を起こさないことには何も始まらない、というのも正論だ。この映画はそんな正論をすべて引き受けたうえで、「しょうがない」の先でしか行動は起こらないと示す点が興味深い。
「しょうがない」と口にするからには、究極まで「しょうがなく」生きなければならない。「しょうがない」を溜めこんで溜めこんでどん詰まりにまで行き着いて初めて、本当の意味での「しょうがない」に気付くのだ。これが中庸ではないだろうか。しょうがない世界を、しょうがない人生を、まるごと嚥下したときにようやく主体性が出現する。「私なんかどうせ中の下なんだからやるしかないんだ」という強い意志。こうした意志は、自分が上等だと思い込んでいる人からは出てこない。下等だと卑下する人も同様だ。そうした人たちのニヒリズムは、現実逃避や現状否定の段階で滞留する。劇中に登場する田舎暮らしに憧れる東京の男や都会暮らしに憧れる田舎の女がそうであるように(とすると、この「中の下」という立ち位置は、単に語呂がいいだけでなく絶妙な条件にもなっているようだ)。
 自己実現や個の確立は世界に先立って存在するものではないし、自分という概念そのものからしてそうだろう。そうした意味においても、満島ひかりが「いつまでもしょうがないなんて言っててもしょうがないから頑張るしかない」とは絶対に言わないところが素晴らしい。「しょうがないから頑張るしかない」と彼女は叫ぶ。同様に、「他人と比べてもしょうがないじゃないか」とは絶対に言わない。彼女は一貫して自分が「中の下」であることを否定しない。しょうがない人生はしょうがないからこそ、あるときしょうがないことを呑み込んでひっくり返る。ひっくり返ってもしょうがないのはしょうがないままだから状況はなにひとつ変わりはしないけれど、彼女自身は絶対的なポジティブ性を獲得する。このポジティブ性が主体、あるいは主体に代わるなにものかだろう。これが前半と後半の「しょうがない」から受ける印象の違いとして立ち現れる。
 ご都合主義だ、映画だからね、という人もいるだろうけど、「しょうがないなんて言っててもしょうがない」なんて言われてもしょうがないと感じてしまうダメな自分としては、とても共感できる映画だった(冒頭で記した理由から、自分が「中の下」とは言わないけどね)。
 そう言えば、ラストシーンが昔の日本映画みたいだったけれど、何へのオマージュか思い浮かばなかった。全編とミスマッチな絵面だったし、どこかで見覚えがあるようにも思ったのだけど……。

現代的な普遍論争:フランセス・イェイツ『薔薇十字の覚醒』雑感

 AppleAdobeFlashを巡るニュースが騒がしい。ウェブの標準においてひとつの重要なファクターがオープン性なのだと改めて認識できる興味深い事例だ。
 ジョブス自身が言及しているように、AppleAdobeは長らく蜜月関係にあった二社である。ことの発端は、Appleが今後のiPhoneiPadのプラットフォームでのソフト開発キットにAdobe Flashを対応しない、と発表したことだ。Flashは閉鎖的で「時代に合わない」というのが、その理由だった。対してAdobeは自社のオープン性を強調してAppleの閉鎖性を連ね、ソースコードの選択はユーザーに委ねるべき、と反論する。もうしばらく平行線の論争が続くことだろう。
 他社はどうかと言えば、たとえばGoogleAndroidプラットフォームにFlashを採用してゆくと公表したが、その一方でGoogle傘下のYouTubeではFlashベースの動画プレイヤーを試験的にHTML5ベースに切り替えている最中である。GoogleAppleもMSも、今後次世代のソフト開発キットとして2013年にW3Cから公開されるHTML5が主流になると見ている点は同じらしい。その決め手のひとつとしては、HTML5にはWebページだけで動画や音声を再生する機能があり、Flashベースのプレーヤー等を別途インストールする必要がないという理由が挙げられるだろう。それによってFlash(或いは他種のブラウザプラグイン)をインストールすることで掛かるブラウザへの負担が排除される。これは、Flashがアニメーション作成ツールとして製作された後にレイアウト機能等が付加されていったのに対して、HTMLは文書作成および書式・レイアウト設定用ツールとして製作され、動画や音声に対応できる形にヴァージョンアップしていったという違いによるものだ。
 Appleが主張するように、Flashベースの動画プレイヤーに対応するプラットフォームでは、使用言語がFlashに限定されてしまう。現在ウェブ上で広範なシェアを誇り、かつブラウザ互換性のないツールなのに、その製品をAdobeが管理し、Adobe以外から入手することができない。その上、Flashで作成されたサイトを閲覧するには、Flashをインストールしなければならず、ブラウザに負荷がかかる。対して、HTML(またCSSJavaScript等)はもともとブラウザ互換性に優れた言語として製作されている。そして、専用のブラウザを必要としない。

 広い意味で捉えれば、これは言語の問題なのだ。それも、普遍言語の問題群に入るものだろう。ウェブ上におけるソフト開発キットやブラウザの問題(もっと言えばプラットフォームだってそうだ)は、もはや各企業の提供するサービスにとどまらず、ユーザーの認識関心を左右する言語体系のひとつになっている。ソフト開発キットに焦点を絞れば、ウェブ標準を策定するW3CがHTMLを更新し続け、それをプラットフォーム側が後押しし始め、しかも原理的にコピーレフトとして発展するインターネットの現状では、Adobeの主張を正論だと思う人は少ないだろう。Appleが正論かどうかは別としても、Flashの記述言語としての特化性が失われれば、より優れた(或いはPCや携帯端末への負荷が低い)言語への移行が起こるのは当然の流れとも言える。現にAppleに呼応する形でFlashからHTML5対応に切り替えようとしている文書共有サイトの表明では、「Flashはブラウザ内ブラウザのようなもので機能が重複している」と非難している。
「ブラウザ内ブラウザ」という表現が面白い。


 フランセス・イェイツに『薔薇十字の覚醒』(原題は『薔薇十字の啓蒙運動』)という本がある。
 後期ルネサンスの薔薇十字運動における秘密文書の形態も、ブラウザ内ブラウザのようなものだった。文書は活版印刷によって出版されているのだが、暗示やアレゴリーに満ちて内容が判然としない。これを解読するには、専用のアプリケーションを別途インストールしなければならない。象徴を読み解くための〈霊知〉が必要となるのだ。書く側も読む側も、同一の〈霊知〉のフィルターを通してテキストと接する。そこに或るネットワークが構築される。印刷術によってオープン化された知とは別種の知が存在するのだが、イェイツによれば、それは数学ということになる。ブラウザ内ブラウザの存在は、世界を密教化してゆく。
 これに異を唱えたのが、フランシス・ベーコンだった。啓蒙主義の近代はここから始まる。

 ベーコン学派と薔薇十字学派の見解にみられる別の大きな相違として、次の点をあげることができる。つまり、科学的問題における秘密性に対するベーコンの非難、あるいは錬金術過程を、理解しがたい象徴に隠そうとする錬金術師の古来からの伝統に対する彼の攻撃である。なるほど薔薇十字宣言も、ベーコンとおなじように、学者同士の知識の交換を奨励している。しかし、彼ら自身は、ローゼンクロイツの亡骸がそこで発見され、幾何学的象徴に満ちた洞窟の物語などの神秘化に身を秘めている。あるいはこうした象徴主義も、グループのメンバーの深遠な数学研究を隠しもっていて、進歩的方向に導くことになるのかもしれない・・・・・・。しかしたとえそうでも、こうした研究は広表されることなく、薔薇十字の洞窟に隠された数学的あるいは科学的秘密を、もっと知りたいという欲望をいたずらに高ぶらせる言語の中に秘められてしまうのだ。
 この雰囲気は、ベーコンの宣言のそれとは反対のものであり、またそもそもベーコンの著述に近代的な響きを与えているのは、まさに彼が魔術=神秘主義的韜晦技術を捨てたことにあるのだ。

 後期ルネサンスにおける薔薇十字運動は、見えざる友愛団という象徴的な組織が仮構されゆく中で、自前のプラットフォームを構築していった。彼らの間には魔術的錬金術的な知のネットワークが構成されたが、そこで稼働する記述言語はその特定されたプラットフォームでしか機能しないものだった。上でベーコンが批判しているのはそうした知の閉鎖性である。
 実は、この問題を更に敷衍してゆけば、「紙の本」にまで言及できる。どのくらい先の話かは分からないが、電子書籍が一般化すれば、電子テキストをプリントアウトして冊子化する作業などは、まさにブラウザ内ブラウザの様相を呈すだろう。
 昨今のAppleAdobeの論争は、言語自体がメディアであることが顕在化した世界に入っている時代性を示している。もちろん過渡期特有の現象ではあるだろう。だから、やがてメディアの標準が安定してくれば、自明となったメディアから言語は乖離し、グーテンベルクの銀河系の場合と同様、独立した自明の意味を確立する。
 尤も、そのときに定義される「言語」が文字である保証はないのだが……。