「しょうがない」を肯定する:石井裕也監督『川の底からこんにちは』雑感

「しょうがない」という言葉にはネガティブなイメージがあり、妥協の表明として機能する。人生は妥協の連続だから「しょうがない」ことだらけだ。でも、うっかり「しょうがない」を連発していると愚痴っぽい奴と思われて、損することもしばしば。だから、しょうがなく「しょうがない」とは口にしないようにせねばならない。
「中の下」という価値は、少し判断が難しい。それが5段階評価の2なのか9段階評価の4なのかで価値基準が大きく異なるのはさておき、自分で自分を「中の下だから」と言うとき、他人はその評価について「こいつは自分をその位置だと表明することで優越感に浸っている」と思われる危険がある(ニーチェ道徳の系譜』にある通り)。更には、「中の下」は論理的には「普通より下」だけど、少なくとも日本社会においては「普通」と同義ではなかろうか、とも思う。というのも、上中下の価値体系における中を3段階に分けて自己判断をする場合、中の中と言うより中の下と言うほうが心理的負担が軽くなるからだ。下手をすると、そこにまた微妙な優越感を抱いていると思われかねない。なにしろ「中の下」の下には「下」があるのだ。だから本当に「俺って中の下くらいだよなぁ」と感じていたとしても、うかつには口にできない。下手をすると、中の上や上の下よりも嫌味に受け取られそうだ。
 ここから本題――。
 渋谷ユーロスペースにて、『川の底からこんにちは』を観てきた。現在レイトショー公開中で、間もなく終了かな。危うく見逃すところだった。
 ニヒリズムをネガティブな意味に取る西洋文化に対して、東洋文化の背景では必ずしもそうではない。「中庸」を良しとするその理念は時に妥協と同じ意味のように誤認されるようだが、老荘思想とも絡みついて発展した中庸はそんな生易しいものではないだろう。ここにはニヒリズムの徹底化によるニヒリズムの超克があり、あるいはニヒリズムそのものを生きるという思想に繋がる。
 さて、劇中の満島ひかり演じる「中の下」の主人公は最初から終わりまで「しょうがない」と言い続けるのだが、前半の「しょうがない」と後半の「しょうがない」はまったく印象が異なる。が、意味が違ってしまうのではない。「しょうがない」はしょせん「しょうがない」だ。では、何が違っているのか?

 やや横道に逸れるが、西洋世界におけるニヒリズムの否定性は、選択という概念に重きを置く西洋世界の在り方を規定してもいる。
 たとえば『マトリックス』でも『ハリー・ポッター』でもなんでもいいのだが、物語における主人公の主体性の要は「何を選択するか」という選択権に委ねられる。これは伝統的な考え方であると同時に、ある一定の秩序を無条件に信頼できなくなった世界における個人にとっての最後の砦でもあるようだ。世界はメチャクチャで何が起こるか分からない。けれど、そこで何かを選択する権利が人間には残されている。それを希望と捉えるイデオロギー。こいつが相対化された世界を肯定する唯一の方法論の如く語られるけど、こうしたテーマは語り手が思考停止を起こしたように感じてがっかりする(但し、似たテーマでもレッドフォードの『大いなる陰謀』は一頭地抜けている。これは恐ろしい映画で、何かを決断するならば「決して間違ってはならない」と突きつける点がストイックだった)。
 そもそも、往々にして「選択」とは結果として表れるだけではなかろうか。自分が何を選択したかなんて選択した瞬間には分かってないことがほとんどだ。国政選挙における代表制のパラドックスを引く気はないけど、現代社会を生きる上で主体としての意志が自分の選択に反映されたと信じ込むには相応の努力が必要だ。本音ではこう言いたい。選択が主体の権利として与えられているのではなく、誰の意志で行われたのかも定かでない自己の行動責任を自分のものとして引き受けることこそが主体の存在理由なのだ、と。である場合、根底にあるのは紛れもない「しょうがない」である。これは自分が選んだ結果なのだからしょうがない、というわけだ(たとえば『ナイロビの蜂』は選択の権利よりこの責任帰属性に主体の価値を置く。現実に、個人の行動を決定する根幹は選択権ではなく責任感だろうと思う)。
 もちろん「しょうがないなんて言ってても何も変わらない」という意見は正しい。行動を起こさないことには何も始まらない、というのも正論だ。この映画はそんな正論をすべて引き受けたうえで、「しょうがない」の先でしか行動は起こらないと示す点が興味深い。
「しょうがない」と口にするからには、究極まで「しょうがなく」生きなければならない。「しょうがない」を溜めこんで溜めこんでどん詰まりにまで行き着いて初めて、本当の意味での「しょうがない」に気付くのだ。これが中庸ではないだろうか。しょうがない世界を、しょうがない人生を、まるごと嚥下したときにようやく主体性が出現する。「私なんかどうせ中の下なんだからやるしかないんだ」という強い意志。こうした意志は、自分が上等だと思い込んでいる人からは出てこない。下等だと卑下する人も同様だ。そうした人たちのニヒリズムは、現実逃避や現状否定の段階で滞留する。劇中に登場する田舎暮らしに憧れる東京の男や都会暮らしに憧れる田舎の女がそうであるように(とすると、この「中の下」という立ち位置は、単に語呂がいいだけでなく絶妙な条件にもなっているようだ)。
 自己実現や個の確立は世界に先立って存在するものではないし、自分という概念そのものからしてそうだろう。そうした意味においても、満島ひかりが「いつまでもしょうがないなんて言っててもしょうがないから頑張るしかない」とは絶対に言わないところが素晴らしい。「しょうがないから頑張るしかない」と彼女は叫ぶ。同様に、「他人と比べてもしょうがないじゃないか」とは絶対に言わない。彼女は一貫して自分が「中の下」であることを否定しない。しょうがない人生はしょうがないからこそ、あるときしょうがないことを呑み込んでひっくり返る。ひっくり返ってもしょうがないのはしょうがないままだから状況はなにひとつ変わりはしないけれど、彼女自身は絶対的なポジティブ性を獲得する。このポジティブ性が主体、あるいは主体に代わるなにものかだろう。これが前半と後半の「しょうがない」から受ける印象の違いとして立ち現れる。
 ご都合主義だ、映画だからね、という人もいるだろうけど、「しょうがないなんて言っててもしょうがない」なんて言われてもしょうがないと感じてしまうダメな自分としては、とても共感できる映画だった(冒頭で記した理由から、自分が「中の下」とは言わないけどね)。
 そう言えば、ラストシーンが昔の日本映画みたいだったけれど、何へのオマージュか思い浮かばなかった。全編とミスマッチな絵面だったし、どこかで見覚えがあるようにも思ったのだけど……。