現代的な普遍論争:フランセス・イェイツ『薔薇十字の覚醒』雑感

 AppleAdobeFlashを巡るニュースが騒がしい。ウェブの標準においてひとつの重要なファクターがオープン性なのだと改めて認識できる興味深い事例だ。
 ジョブス自身が言及しているように、AppleAdobeは長らく蜜月関係にあった二社である。ことの発端は、Appleが今後のiPhoneiPadのプラットフォームでのソフト開発キットにAdobe Flashを対応しない、と発表したことだ。Flashは閉鎖的で「時代に合わない」というのが、その理由だった。対してAdobeは自社のオープン性を強調してAppleの閉鎖性を連ね、ソースコードの選択はユーザーに委ねるべき、と反論する。もうしばらく平行線の論争が続くことだろう。
 他社はどうかと言えば、たとえばGoogleAndroidプラットフォームにFlashを採用してゆくと公表したが、その一方でGoogle傘下のYouTubeではFlashベースの動画プレイヤーを試験的にHTML5ベースに切り替えている最中である。GoogleAppleもMSも、今後次世代のソフト開発キットとして2013年にW3Cから公開されるHTML5が主流になると見ている点は同じらしい。その決め手のひとつとしては、HTML5にはWebページだけで動画や音声を再生する機能があり、Flashベースのプレーヤー等を別途インストールする必要がないという理由が挙げられるだろう。それによってFlash(或いは他種のブラウザプラグイン)をインストールすることで掛かるブラウザへの負担が排除される。これは、Flashがアニメーション作成ツールとして製作された後にレイアウト機能等が付加されていったのに対して、HTMLは文書作成および書式・レイアウト設定用ツールとして製作され、動画や音声に対応できる形にヴァージョンアップしていったという違いによるものだ。
 Appleが主張するように、Flashベースの動画プレイヤーに対応するプラットフォームでは、使用言語がFlashに限定されてしまう。現在ウェブ上で広範なシェアを誇り、かつブラウザ互換性のないツールなのに、その製品をAdobeが管理し、Adobe以外から入手することができない。その上、Flashで作成されたサイトを閲覧するには、Flashをインストールしなければならず、ブラウザに負荷がかかる。対して、HTML(またCSSJavaScript等)はもともとブラウザ互換性に優れた言語として製作されている。そして、専用のブラウザを必要としない。

 広い意味で捉えれば、これは言語の問題なのだ。それも、普遍言語の問題群に入るものだろう。ウェブ上におけるソフト開発キットやブラウザの問題(もっと言えばプラットフォームだってそうだ)は、もはや各企業の提供するサービスにとどまらず、ユーザーの認識関心を左右する言語体系のひとつになっている。ソフト開発キットに焦点を絞れば、ウェブ標準を策定するW3CがHTMLを更新し続け、それをプラットフォーム側が後押しし始め、しかも原理的にコピーレフトとして発展するインターネットの現状では、Adobeの主張を正論だと思う人は少ないだろう。Appleが正論かどうかは別としても、Flashの記述言語としての特化性が失われれば、より優れた(或いはPCや携帯端末への負荷が低い)言語への移行が起こるのは当然の流れとも言える。現にAppleに呼応する形でFlashからHTML5対応に切り替えようとしている文書共有サイトの表明では、「Flashはブラウザ内ブラウザのようなもので機能が重複している」と非難している。
「ブラウザ内ブラウザ」という表現が面白い。


 フランセス・イェイツに『薔薇十字の覚醒』(原題は『薔薇十字の啓蒙運動』)という本がある。
 後期ルネサンスの薔薇十字運動における秘密文書の形態も、ブラウザ内ブラウザのようなものだった。文書は活版印刷によって出版されているのだが、暗示やアレゴリーに満ちて内容が判然としない。これを解読するには、専用のアプリケーションを別途インストールしなければならない。象徴を読み解くための〈霊知〉が必要となるのだ。書く側も読む側も、同一の〈霊知〉のフィルターを通してテキストと接する。そこに或るネットワークが構築される。印刷術によってオープン化された知とは別種の知が存在するのだが、イェイツによれば、それは数学ということになる。ブラウザ内ブラウザの存在は、世界を密教化してゆく。
 これに異を唱えたのが、フランシス・ベーコンだった。啓蒙主義の近代はここから始まる。

 ベーコン学派と薔薇十字学派の見解にみられる別の大きな相違として、次の点をあげることができる。つまり、科学的問題における秘密性に対するベーコンの非難、あるいは錬金術過程を、理解しがたい象徴に隠そうとする錬金術師の古来からの伝統に対する彼の攻撃である。なるほど薔薇十字宣言も、ベーコンとおなじように、学者同士の知識の交換を奨励している。しかし、彼ら自身は、ローゼンクロイツの亡骸がそこで発見され、幾何学的象徴に満ちた洞窟の物語などの神秘化に身を秘めている。あるいはこうした象徴主義も、グループのメンバーの深遠な数学研究を隠しもっていて、進歩的方向に導くことになるのかもしれない・・・・・・。しかしたとえそうでも、こうした研究は広表されることなく、薔薇十字の洞窟に隠された数学的あるいは科学的秘密を、もっと知りたいという欲望をいたずらに高ぶらせる言語の中に秘められてしまうのだ。
 この雰囲気は、ベーコンの宣言のそれとは反対のものであり、またそもそもベーコンの著述に近代的な響きを与えているのは、まさに彼が魔術=神秘主義的韜晦技術を捨てたことにあるのだ。

 後期ルネサンスにおける薔薇十字運動は、見えざる友愛団という象徴的な組織が仮構されゆく中で、自前のプラットフォームを構築していった。彼らの間には魔術的錬金術的な知のネットワークが構成されたが、そこで稼働する記述言語はその特定されたプラットフォームでしか機能しないものだった。上でベーコンが批判しているのはそうした知の閉鎖性である。
 実は、この問題を更に敷衍してゆけば、「紙の本」にまで言及できる。どのくらい先の話かは分からないが、電子書籍が一般化すれば、電子テキストをプリントアウトして冊子化する作業などは、まさにブラウザ内ブラウザの様相を呈すだろう。
 昨今のAppleAdobeの論争は、言語自体がメディアであることが顕在化した世界に入っている時代性を示している。もちろん過渡期特有の現象ではあるだろう。だから、やがてメディアの標準が安定してくれば、自明となったメディアから言語は乖離し、グーテンベルクの銀河系の場合と同様、独立した自明の意味を確立する。
 尤も、そのときに定義される「言語」が文字である保証はないのだが……。