あ〜あ〜あ〜只今マイクのテスト中。

 子供の頃、ノートの1ページ目には必ずきれいな字を書いた。
 すぐに雑な字になって、やがて罫線にも従わなくなるけれど、それでも丁寧な文字で書き始めるのは、美しいノートを作り上げようと考えるからだ。
 というわけで、ブログの初めだからきれいな文字を書こうと思う。




 文字の発明が人間を堕落させた、という。
 プラトンの『パイドロス』でソクラテスが語り聞かせる挿話のひとつだ。

 あなたは文字の生みの親として愛情にほだされ、文字が実際に持っている効能と正反対のことを言われた。なぜなら、人々がこの文字というものを学ぶと、記憶力の訓練がなおざりにされるため、その人たちの魂のなかには、忘れっぽい性質が植えつけられることだろうから。(中略)事実、あなたが発明したのは、記憶の秘訣ではなくて、想起の秘訣なのだ。また他方、あなたがこれを学ぶ人たちに与える知恵というのは、知恵の外見であって、真実の知恵ではない。すなわち、彼らはあなたのおかげで、親しく教えを受けなくても物知りになるため、多くの場合ほんとうは何も知らないでいながら、見かけだけは非常な博識家であると思われるようになるだろうし、また知者となる代わりに知者であるという自惚れだけが発達するため、付き合いにくい人間となるだろう。

 ここで「あなた」と呼ばれるのはエジプトのトート(テウト)で、ギリシャ神話でいうヘルメスに当たる。呼びかける側、引用全体の声の主はエジプトに君臨しているタモス王。ギリシャ神話ではゼウスに当たる王様である。
 トートはタモス王に数々の発明品を披露し、文字に及ぶに至ってこう言った。「この文字というものを学べば、エジプト人たちの知恵は高まり、もの覚えは良くなるでしょう。私の発見したのは、記憶と知恵の秘訣なのですから」
 その返答が、タモス王による文字批判だった。

 上記引用文の後、今度はソクラテスによる文字批判が続く。「言葉というものは、ひとたび書き物にされると(中略)転々と巡り歩く。ぜひ話しかけなければならない人々にだけ話しかけ、そうでない人々には黙っているということができない」
 では、どのような言葉ならよいのか?
「物を知っている人が語る、生命をもち、魂を持った言葉のことですね。書かれた言葉は、これの影であるといってしかるべきでしょうか」とパイドロスが問い、ソクラテスは肯定する。というドラマをプラトンは文字を用いて書いたが、対話篇という形式で思想を残したのは、「文字」でなく「声」として受容させるためなのだろう。生命をもち、魂を持った言葉、ロゴスとしての音声言語として。

 どうやら、ここで語られているのは真理そのものを巡る議論ではないらしい。

 ソクラテスは一冊の本も残さなかった、始皇帝儒者を皆殺しにした上、儒書を残らず焼き払った。ドストエフスキーの『悪霊』は印刷機を巡って進展してゆく。『薔薇の名前』の犯行動機は――
 ――それらはすべて、メディアについての物語だ。
 活版印刷技術の発明がなければ、宗教改革の波は全ヨーロッパに広がることはなかった。その内戦の終結として誕生した近代国家もなく、ひいては現在のグローバリゼーションもなかった。

 人類史上、メディアは形を変えて、人間と社会を繋いできた。社会を構成する大きな要素であり、世界の真理には無関係だが、人間のエートスはメディアの種類に左右される。

 現に、印刷技術は近代において確固たる地位を築き、更に20世紀を通じて、プラトン以来西洋社会で根強く信奉されてきたロゴス中心主義が解体され、文字は声に従属するものではなくなった。
 グーテンベルク銀河系は、文字通り、「文字」文化の黄金時代を作り上げた。
 けれど、ロゴス中心主義は「息切れ」したと記し、その三千年の歴史に決定的な終止符を打ったデリダが「来るべき書物」として予見したのは、このグーテンベルク銀河系の終わりではなかったか。

 記憶や情報という概念も人間にとって絶対的真理ではなく、メディアの変遷によって容易く変化する。

 特異な文字の発達を見せてきた日本においても、たとえば仏教の伝法潅頂は無言で行われた。そこには声さえないが、無論、文字では伝えられない。空海最澄に『理趣釈経』を貸さなかったのも嫉妬や意地悪からではない(と思う)。
 その一方で、言葉を操る天才だった空海は、筆づくりにも熱心だったという。
 もちろん、筆は当時のメディア技術の最先端だった。



 そこで、言葉とは声と文字とメディアで一体なのだ、と考えてみる。