ドラえもんの音

 アニメ『ドラえもん』のタイトルシーンで流れるジングルを思い浮かべてほしい。画面の両端にドラえもんがいてひっくり返る。その際、「トゥルルル♪×××」という音楽が流れる(×××はタイトルである)。
 では、いま思い浮かべたジングルを口に出して奏でてみよう。
 ……イメージしている音と違う音が出るはずだ。
 頭の中ではしっかり「音」が浮かんでいるのに、口にした音はその音と違う。


 上は、あるミュージシャンから聞いた話だ。ドラえもんで使われる音楽は実は凝ったものなのだ、という流れだったと思う。そのときタイトルコールのBGMの話を聞いて、「……あ、ホントだ」と、びっくりした。
 鍵盤を使って検証したわけでもないから実際は分からないけど、と前置きして彼は言った。「もしかしたら、『ドラえもん』のジングルは、西洋音階からずれた音を使っているのかもしれない」雑談のなかの思いつきのような話題だったから、彼のこの推測が正しいのかどうかは分からない。ただの話のネタである。
 けれど、音階からずれた音だから口に出して歌えない、というアイデアはとても面白いと思った。

 僕らが日常的に親しんでいる音楽の音(和音)は五線譜上に並んだ音の合成であり、その連続したものがメロディである。この音は一般的に(と言っていいと思う)、西洋音階を使用している。
 西洋音階とは、1オクターブを12の音に分割し、そのうち7音を使用する音楽体系である。ピアノの鍵盤を思えば分かりやすい。オクターブ当たり(半音である黒鍵を含めて)12の鍵盤があるが、すべてを使用するのではない。どの音をキーにするかによって、使う7音は変化する。
 このとき、Aの音を440Hzとする、と定義される。音階とは音の高低差だから、周波数440Hzの音を基準にすれば他の音の周波数も自動的に定まることになる。更に、1オクターブ上のA音は2倍の880Hz、1オクターブ下のA音は1/2倍の220Hzである。A=440Hzが定義(というより定理)してあれば、すべての周波数は音階化される。人間の耳には聞こえない高波長や低波長も、概念的には五線譜上に記述することができるのだ。
 この「音」の定義は、1939年ロンドン会議で定められた国際標準ピッチに由来する。それ以前のA音は必ずしも440Hzではなかった。楽器の変遷によって最も適した音で演奏できるようにと、音の周波数の基準は変わってきたそうだ。実際、バッハの平均律はA=427Hzを基準に作曲されたという。
 ともあれ、基準になるA音が調律されれば、音の体系は間違いなく作動する。

 西洋音階という名称の通り、この音楽体系はヨーロッパで長い歴史を経ながら発展してきたものだ。世界史的に見れば、ヨーロッパ以外の民族音楽は――西洋音階ほど緻密に体系化されたかどうかは別にして――独自の音階を持っていた。多くの場合(西洋音階を基準にするなら)1オクターブを5音に分割した音階を使用する地域が多かったらしい。もちろんこの5音も、統一された音階ではなく、地域ごとにバラバラだった。
 たとえば日本の雅楽は(現在の演奏は国際標準ピッチを採用しているそうだが)独自の「音」を使用していたはずだ(バッハの時代と現在の「音」の違いを想起すればよい)。使用する楽器に適した周波数を自然選択するからだ。西洋音階の緻密な体系化の要因には、鍵盤楽器の発明によるところが大きいと思われる。なかにはオクターブにつき20音をとる民族音楽も存在した。音の違いは楽器の違いに由来し、当然、独自の旋法を発見する。これは5音の音階でも同様だ。国際標準ピッチの選定によって、それらの音はひとまず統一された。「音」の統一によって西洋音階体系は一般化された。日本でも7音から2音を引いた5音をとる「ヨナ抜き音階」などの体系も発展した(日本人には7音よりも5音の曲のほうが心地よく聞こえるそうだ)。
 こうしたグローバリゼーションの是非は問わない。それはまた別の問題である。

 さて、ここで『ドラえもん』のタイトルコールで使用される音楽が西洋音階から外れた音で作ってあると仮定してみよう。
 言うまでもなく、音階はあくまでも音楽世界における決まり事であって、自然現象を定義するわけではない。だから、実際にはオクターブ当たり12個の半音以外の「音」はいくらでも存在する。CとC♯の間にある音は、周波数を測定すれば識別できるだろうが、その「音」を音楽的に記述する方法が西洋音階にはない。
 次に、音感という概念がある。ある音を基準にすれば(鍵盤のどれかを叩いて聞いてみれば)それ以外の音がどの音であるか判るというものだ。これは音階における音の高低差が一定であることに由来している。
 更に、基準音がなくてもその音がなんの音なのか識別できる人を、「絶対音感がある」という。調律した楽器が手元になくても、音を聞くだけで「これはCの音だ」「これはF」と言い当てられる。興味深いことに、なかには共感覚として認識する人もいるそうだ。音を聞くと色が見えて、周波数の微妙な変化によって見えている色が濃くなったり薄くなったりしてゆくという。
 ここで疑問が生じる。音感とは、西洋音階における音の高低差に基づく概念ではないのか。だとすれば、西洋音階を知らない人には、絶対音感は備わらないのではないか。最初に基準となる音がどんな音であるのかを記憶しなければ、どの音なのか言い当てることはできない。
 しかし、先の共感覚の例は別の可能性を示唆している。色と音と音階の関係には、明らかな飛躍があるのだ。だから、音楽体系を知らなくても、色と音の関係だけで音自体を定義することは可能だろう。「この音は青いです」と言えば、その人にはその音が色として把握されているのだから。
 とするなら、世間に気付かれていない絶対音感保持者も存在するだろう。色彩感覚に優れた人なら、絵を描くのかもしれない。絵の具を塗りたくった抽象画が画家の聴いている音を表現している可能性は十分にある。その場合、その画家は音階を知らない、ということは十分にあり得る。
 音の識別と音階の間には、本来、何の関係もないと言えるのかもしれない。
 では、音階とは何なのか。「いまの音は薄い青です」と言われても、それはその人固有の言語であって、他者と音楽的なコミュニケーションを図ることはできない。音楽的会話においては、その「薄い青」の薄さ加減が一体どの音に対応しているのか、という基準が必要になるからだ。
 このとき、音(A=440Hz)とは、言語体系に似ていると言えないだろうか。
 絶対音感という例は、音階体系に音を帰属させずに受容できるということではないのか。音に敏感な人は、本来、音階の外にいるのかもしれない。けれど、音階なる系が存在することを学んだとき、その自由な音の世界から遠ざかり、12個の音の近似値として捉えることに慣れてくる。
 そして、専門家でなくても、音楽は親しみ深いものだ。実際、僕らは音楽の「音」に慣れている。その音は、たとえば西洋を知る以前の日本人が音楽として聞いていた音とは別物だ。バッハの聴いていた音は、いまコンサートホールで演奏されるバッハの平均律とは別の音だ。「音」はある任意の文化共同体における体系としての音階によって統御されている。
 以上を踏まえて考えると、僕らが「音」と呼ぶ周波数は、ひどく限定されたものに思えてくる。
 つまり、音楽における音が耳に心地よいと感じるのは、ヒトが先天的、遺伝学的、生物学的に備えている感覚ではなく、その音がこの音であると現に規定された世界において、その音のなかで生きているから感じるだけなのだ。まして天界の音楽や美のイデアや普遍性とは一切関わりのない、恣意的な記述体系だということになる。
 音階が一種の言語(ラング)だから、その環境に生きる人がそれ以外の音楽に出会うと混乱するのだ。
 いま、『ドラえもん』のジングルが、仮に西洋音階の「音」から外れているとするならば(実際にそうであるかどうかは問題ではない。そのような音自体は無限に存在するのだから)、僕らはその音楽を歌うことのできない環境を生きている。それは記述法則の外部にある音なのである。


                    



 西洋音楽が流行し、かつて奏でられていた雅楽の音階が廃れたのは、前者が生物学的な観点から見たヒトの感覚機能へ訴えかける能力に勝っていたからではなく、劣っていたからでもない。それは単なる政治的な原因であって、どちらの音階が優れているのかは問題外だ(繰り返しになるがその政治的是非を問うのでもない)。
 重要なのは、いま一般的に使用される音階がそれである、という事実だけだ。
 同じことは、言語記述でも言えないだろうか。
 言葉での記述もまた同じように近似値を取る。ここにある何か・ある状況をそっくりそのまま記述しようとすれば、膨大な量の言葉を使用せざるを得ず、そうしたところでなお「そっくりそのまま」に語り尽くすことはできない。言語によって省略し、単純化した状態として提出される。おおざっぱに言ってしまえば、言葉の機能は近似値の求め方を教えてくれるだけだ(という言説も近似値でしかない(という言説も近似値でしかない(という言説も……)))。
 作者名の問題も同じ観点から読み解けるかもしれない。
 本当なら「作品はだれが語ろうと構わない」はずなのに、作品自体を作者に帰属させるのは、作者名への言及によって煩雑かつ膨大な情報量の記述を省略するためだ。だから正確でないのは当然で、ここでは正確さよりも単純さ、情報量の圧縮、時間の畳み込みが優先される。本が冊子形体として発展し、表紙と裏表紙によって綴じられているのは偶然ではない。それは情報を閉じ込める。書かれた内容ではなく「本」そのものを音階の上に配置できるようにしてしまう。もはや何が書かれているのかは問題ではない。当然、音階上の「音」と書かれた内容の間には埋めることのできない不連続性があり、この不連続性は不連続であることそれ自体を忘れられる。しかし、こうした簡素化と省略は、人間の感覚認識としてはごく当たり前の現象でしかないのだ。専門分野における専門用語の意義は省略だけだ、とM・セールがどこかで書いていた(ような気がする)。
 では、美意識というひどく抽象的で分かりにくい概念についてはどうだろうか。たとえば、日本人の感覚として「散る花の美しさ」というものがある。果敢ないものへの同情や共感があり、それを支えているのが美である、と。
 桜の花が散るのを見て美しい、あわれ、と思うのはどうしてだろうか。花の散る様子と淋しさとの間にア・プリオリな関係があるのだろうか? 自然現象とそれを受容する人間の感覚との間の関係も恣意的なものである可能性はないだろうか。
 そこにあるのは、共感の場という得体のしれないネットワークではない。超時空的に介在するプラトン世界でもない。更に言えば、長い長い歴史というアーカイブに蓄積した民族的記憶が発現したわけでもなさそうだ。西洋音階が日本人の耳に馴染み始めた歴史を考えてみればいい。美しいものは普遍なのだ、という考え方は、実は正しくない。正しくないという言葉が言いすぎなら、基礎づけができてない、と言ってもいい。
 美という観念は、ある文化共同体内にだけ通用する特殊な習慣と、それを習慣づけるエートスに統御される。
 集合的無意識という概念もひどく分かりにくい。個人の感覚に限って言えば、物心つくかつく前かの原風景以上には起源を遡ることはできないはずだ。何を美しいと思い、何を快いと思うかの基準は、遺伝的に与えられたものではなく、環境に起因している。生物学的に証明できるのは感覚器官の説明であって、感覚による美的判断は別領域の問題系だろう。
 確かに、民族的エートス(これを集団的無意識と同定できるだろうか)はそうした個人の原風景に影響を与え、個人の習慣や判断基準を規定するだろう。が、それだけだ。幼少期に与えられる原初的記憶は厳として存在するし、個人の身体に記憶される。しかし、そこからわざわざ民族的あるいは国民的エートスを逆規定して、伝統への回帰を目指そうとしても、その試みでは近似を求める以上のことはできない。エートスに個人的感覚を合致させようとしても(そうしたときのエートス自体が恣意的なものであるという条件を除いたとしても)不可能である。なぜなら、順序が逆だからだ。エートスが個人的感覚に影響を与えるのであって、個人的感覚からエートスを規定することはできない。
 いったい「花が散るのは美しい」という情緒はどのようにして生まれるのだろう。花といえば桜でなく梅だった時代もあるが、いつしか花は桜を指すようになり、花は散るもの、というイメージが定着した。桜の散る風景が繰り返し歌われるのは、万葉集からJ‐POPまでいくらでも例がある。このイメージが定着するまでには、歴史が必要だっただろう。そして歴史的に見たとき、それは先天的に与えられていたものではなく、普遍的な感覚でもない。ある任意の文化共同体が築き上げてきた、いわば物語である。
 そこでは、散る花のアレゴリーとして様々な文芸が表出しただろう。そうしたアレゴリーが十分に蓄積されてようやく、イメージが文化共同体に定着する。宣長が源氏注釈でもののあわれを提議するのもこの地点である。だとしたら、文芸が桜のイメージを固着させたのだろうか。最たるものが歌である。そう考えれば、流行と不易の絡み合いが見える気がする。
 しかし、ここにひとつ問題が生じる。仮にそうだとしても、それは何の意味も持たなくなるということだ。なぜならば、今現在、それらの本は綴じられて、ただ感覚上の音階に配置されているにすぎないからだ。内容はいまや問題ではない。たとえ源氏も宣長も知らなくても、散る桜は美しいという感覚は一般的なものとして固着している。だから、それを普遍と見紛うことにもなる。
 だとすれば、その景色を「美しいもの」として眺められる根拠は、その綴じられた花の「音」に引きずられるからなのだろうか。そうではないはずだ、という根拠のない反駁が感覚的に脳裏に浮かぶが、けれども「美しい」という記述自体が恣意的な音階上に乗せられているのではないと、はたして断言できるだろうか。現に、「快い音」は快いとされる音階上に配置された和音であり、それは日本古来の音ではないのだが……。
 人はそうした習慣、あるいは教育によって身に付けた、基準となる様々な系のなかに生きているのかもしれない。その環境を統御しているのはある種の記述体系、「音階的体系」とでも呼べるものだろう。


                    



 こうした「音階的体系」が確立すれば、新しい文化状況を生み出す基盤にもなる。
 引用や二次創作が可能なのは、しっかりとした音階が基礎づけられているからだ。綴じられた本(ある波長)が近似する音(恣意的な記号)として音階に配置されているからこそ、情報の圧縮化・単純化を可能にし、作者名等に作品を代表させる省略を可能にする。
 ところで、それに抗うような二つの出来事が2009年に発生した。
 ――『1Q84』と「エンドレスエイト」。
 昨夏、アニメ『涼宮ハルヒの憂鬱』二期の放送で、原作では短編エピソードである「エンドレスエイト」を延々8週に亘って繰り返して物議をかもした、というか非難囂々沸き立った、という「事件」があった。何を考えてそんな無茶をしたのか実際のところは知らないが、ここに見られる反時代的な構造は少し興味深い。
「音階的体系」と先に記した社会の枠組みのなかでは、記述は効果的な省略が可能な方法を手に入れている(任意の周波数を近似値である「音」に帰属させる)。それは歴史的に発展してきた技術であり、当然、現代社会はその基盤の上に成立している。
 ところが、(製作者の意図はさておいて)放送された事実だけを眺めると、アニメ「エンドレスエイト」はテクストに圧縮されていた時間を、文字通り解凍してしまった。約二ヵ月間という現実の時間をかけて膨大な情報量(描き直した作画による反復)を展開したのだから。
 これを以前考えてみたリメイク映画に寄せて考察することはできない。なぜなら、「エンドレスエイト」では起源を忘れることができないし、それを意図してもいないからだ。作中人物には記憶がないと主張してみても、リメイクの本義は作品内構造ではなく、対観客における文化消費の形態にあった。この点からも、現代メディアとしては極めて異質な構造だと言わざるを得ない。しかし、ここではアニメ「エンドレスエイト」が圧縮された情報を展開しているという見たまんまの構造だけを確認して、先へ進む(何度も繰り返しになるが、その是非は問わない)。
 さて、昨年、空前のベストセラーになった小説がある。これが社会現象かどうかは触れない。
 ちょっと触れる。どうしてこんなに売れたのか、という問いをあちこちで耳にしたけど、代表的な答えのひとつは「作者名」に帰せられるというものだ。これは記述の圧縮/省略が、社会的経済的に作用した結果である(以降の展開のため、あえて付言した)。
 何の話かといえば、もちろん『1Q84』である。
 この本を読んでいて最も気にかかったのは、とにかく引用が長いことだった。これは前作『海辺のカフカ』でも若干感じたのだけど、今回のそれは危機的状況を招きかねない冗長さだった。どうしても不自然な引用としか映らないのだ。
 作中で語られるテーマは重層的だが、そのひとつは「物語(=歴史)の改竄に対するプロテスト」ということになるだろう。オーウェルの小説を下敷きにしたタイトルからもそう読める(しかし、肝心の『1984』からの引用は素っ気ない)。
 引用が気になる場面は、『サハリン島』と平家物語の二か所である。退屈を誘われるほど長く、作品世界の結構を破壊しかねないほどに冗長だ。
 ひとつ押さえておかなければならない点は、この引用がテーマを語っているのですらないことだ。
 そこでテーマはひとまず脇に置いて、では人物の性格付け、が目的だと考えるとどうか。たとえば、ふかえりによる平家からの引用場面が示すのは、彼女の記憶力を示したかったのだと考えてみよう。しかし、仮にそうだとすると、実際に引用文を書き連ねる必要はなくなる。この場合は当然、省略が可能だからだ。「ふかえりは滔々と平家物語を暗唱した」で十分である。詩的響きを大切にしたいという思惑なら、せいぜい四行を記して、「ふかえりは滔々と暗唱を続けた」でよい。なぜかと言えば、読者はいともたやすく原典に当たることができるからだ。その意味でも引用文自体に意味はない。決して入手困難な原典ではないのだ(引用元がデレク・ハートフィールドなら納得できる)。長々とした無意味な引用は、情報の保存形式から言っても全く現在的ではないし、1984年的でもない。スコラ的とさえ映りかねない。
 とすれば、ここで示されるのは、ふかえりの記憶力ではなく記憶のあり方なのだろう。
 そこで、この不自然に冗長で小説世界の結構を壊しかねない危険な賭けは、「音階」の破壊(あるいは破壊された音階としてのふかえり)を示しているのではないか、と考えてみる。
 音階は五線譜で示される音以外の音を近似値に置く。緻密に構築された音楽の公理系ではそれでも成立するのだが、小説(または言語記述の公理系)では、この近似値問題すなわち類似性(アレゴリー)の問題は、安易に扱えば、小説の内容自体を変容させてしまう(作者名に作品を代表させる危険性もそのひとつ)。物語と物語から派生する恣意的な記号性との間にある乖離は、どうしても埋めることができないからだ(PvsNP問題に似ている)。
 ゆえに、平家やチェーホフを長々と引用することで示唆されるのは、この引用自体が無意味であり、テーマとは無関係だとする意思表示である(テーマと無関係でなければ、引用を介してテーマを語ることができない)。もしもこうした引用が安易に(省略的に)使用されれば類似性の罠に陥ることになり、物語の改竄を誘発してしまう。ここに至って、冗長かつ無意味な引用は、テーマと合致する。
(少なくとも)作中人物のふかえりにとって、それらの言葉は、音階上に配置された綴じられた「本(=物語/歴史)」ではない。それらの言葉はあるがままにふかえりの身体として存在し、だからこそ、その位置を証明することができない。ドラえもんのジングルと同様、「その公理系」では記述され得ないものとしての記述なのである(西洋音階の音の間にある任意の周波数は、西洋音階という公理系では証明することはできない。が、その音が存在することは真である)。その場合、省略や単純化を避けようとするなら、長々と引用するしかなくなる。もちろん、それが手法として効果的かどうかは別問題だ。それでも、それが恣意的な引用であることに変わりないからだ。つまり、この引用は、不可能な記述として記述されている。
 そうした意味では、とても現代的なのかもしれない。『ねじまき鳥』で「不正確なメタファー」について語った作者が、「正確な引用文」を記述するというのも面白い。意味論から統辞論へ、ということなのだろうか?
 この引用が語りかけてくるのは、「君にはCに聴こえるかもしれないけど、その音はCではないのだ」という宣言である。但し、Cが存在する音階で音を聞く以上、それがCではないことを証明することはできない。
 証明できないということは、記述できないということだ。確かに、CではないCの音はどこにでも存在する。それをCだと言いきる存在がビッグブラザーなのかリトルピープルなのかは知らないけれど。