映画とYouTubeについて:ジャン=ピエール・ジュネ監督『ミックマック』雑感

 恵比寿ガーデンシネマで『ミックマック』を観る。もしかしてこれ映画館で見るの倒錯なのかとつい思ってしまった、ジュネ版スパイ大作戦。『アメリ』のときにも思ったけど、なんというか、ジュネってキッチュであることを恐れないなぁ。マルク・キャロがいないと印象がまるで違う映画になるってのもあるけど。というわけで、『デリカテッセン』や『ロストチルドレン』を期待してはいけない(なのに、毎回それを期待してしまう)。もちろん映像は凝っているし、話のテンポもいい。でも、いくらか薄味。ま、コーエン兄弟もよくこういうの作るもんな。で、以下あらすじ。
 父親を地雷で亡くした少年が三十年後、ビデオ店で働いている。店番をしながらビデオを見ていると外の通りで銃撃戦が始まり、野次馬根性を出して表に出たところ、ギャング同士の抗争(としか言えないキッチュさ)の流れ弾を額に食らって昏倒する。
 ここで主人公が見ているビデオ『三つ数えろ』(ホークス)のエンドタイトルから『ミックマック』のタイトルクレジットへ移る作りが面白い。主人公が銃撃を受けて倒れる場面とテレビ画面のエンドタイトルが繋がり、終わりから始まる物語の構造を強調している。まるで映画というメディアの死を宣告しているようだった。「ビデオ屋」店員の主人公はどうやらシネフィルらしいし、主人公の代りに雇われた女の子が見ているのはテレビアニメである。
 その後、職を失い、家も失った主人公は変人の集まる家に連れて行かれて、家族になる。この家の外観や屋内はすごくきれいで、こういうバロック風な映像を作るのがジュネはすごくうまい。画面の切り替えのテンポもよく、登場人物の紹介も鮮やか。そんな変人揃いの「家族」の廃品利用ビジネスの手伝いをするうちに、父を殺した地雷のメーカーと自分を撃った弾丸のメーカーが通りを挟んで自社ビルを構えていることを知る。そこで主人公は「家族」の協力を得て、両者の間で暗躍しながら潰しあいを画策する。
 まァ要するに『用心棒』なのだが、この手のドラマトゥルギーホメロスシェイクスピアによくある古典的なものだから、ストーリーに新鮮さがないという非難は当を得ないんだろうな、おそらく。向かい合わせに自社ビルを構えるライバル企業というのも、範囲を限定するためのギミックで、特にご都合主義とは思わなかった。ただ中盤で大爆発が起こるんだけど、あれは人が死ぬよ。
「家族」たちは映画的なフリークスで、作戦遂行中にそれぞれが特技を生かすことになる。
 その中に「レミントン」と呼ばれる小説家の男性がいる。家の中ではいつもタイプライターを打っていて、話すときには無駄にレトリックを駆使する。機関銃のように喋る、という奴。ちなみに、レミントン製タイプライターは、1874年に火器メーカーでもあったレミントン&サン社のミシン部門から発売された。

 文書を保存するメカニズムや音を蓄えるメカニズムは、アメリ南北戦争の副産物なのである。エディソンは戦争のときまだ若い電信員だったが、モールス信号の作動速度を人力以上に高めようとする試みのついでに、彼のフォノグラフを開発した。武器生産者であったレミントンはとにかく「内戦景気の去った後、商売が次第に減り、生産能力に空きがでた」ために、1874年9月、ショールズのモデルの大量生産を引き受けたのである。
 タイプライターはディスクールの機関銃となった。鍵を叩くことはいたずらにアンシュラーク(タッチ=射撃姿勢)と称されるのではない。それは、拳銃や機関銃における弾倉の回転や映画におけるフィルムのコマ送りのように、自動化された、不連続な動きで作動する。――『グラモフォン・フィルム・タイプライター』(下)キットラーちくま学芸文庫

 ここで彼らのフリークス性を考えるとき、そこには意志の欠損(感情の欠損ではない)が担保されており、特化した能力の使い道について彼らは自ら考慮しようとしないのが特徴的だ。(劇中人物の)レミントンはライバル企業の間に入って双方が恨みを抱き合うための下準備を拵えるけれど、そのためのセリフを考えるのは主人公である。彼はタイピストのように割り振られたセリフを話すだけだ(無駄なレトリックを加えて呆れられながら。しかし、このレトリックは「自動的に」口にされるだけで事態を混乱させることはない)。数学娘は、現象を目視するだけで距離や角度を見極められる。この能力も、軍事においては最重要なセクションに相当するはずだが、ここでも何を測量するかを判断するのは主人公だ。他にも、人間大砲のギネス記録に執心している男や怪力の持ち主がいる。廃品から何でも作り上げる発明家がいる。そんな彼らは自分の能力を商品化しようとはしない。おそらく考えたこともないのだ。こうして一方で商品化されない「武器」として積極的に強調されながら、主人公の復讐劇には「家族」として協力する彼らが、自らをどのように規定されたいのか、はっきりしない。いわば人間性と道具性の間での揺らぎのようなものがまるでなく、だったらどうしてこういう設定なのだろう、という疑問がたびたび浮かんでくる。武器製造会社との分かりやすい映画的対比だとすると、言葉遊びの面白さ以上にはならない。けれど、たとえば『マルドゥック・スクランブル』で語られるような「道具や武器としての自分」という在り方への内省がないのは、むしろ彼らが十全に人間だからなのかもしれない。往々にして、人間は自分が人間であるという前提への懐疑をオミットして生きているものだ。
 この「家族」のなかでは、軟体人間の女性が最もフリーキーだろうが、最も人間的個性を与えられている。恋愛要因という位置づけだからで、そもそもこの話に恋愛要素は必要か、という疑問も浮かぶけど。「武器」に性差は求められていないからだ(タイプライターもまたそうであることが、キットラーの前掲書で論及されている)。武器性からの脱却というドラマがあるのならテーマとも合致するが、彼女は初めから人間らしい人間として描かれている。

 それから、言葉の問題が随所に出てくる。謎の言語や謎の身振りでナンセンスなコミュニケーションがとられたりする。これも一種のフリークス性への言及だと思うけど、残念ながら面白みも新鮮味もあまり感じない。銃撃のような身振りを相手に投げかけ、相手が受け止めようとするとそうじゃない、という。意味を為さない言葉もまた人間性を剥奪する武器性への非難なのだろうか?

 というように、全体的になにか「ある」ように見えて、手の届かないもどかしさがある映画だった。もしかするとドラマトゥルギーが強すぎてストーリーに引っ張られるから、肝心のディテールが印象に残らないのかもしれない。見ているうちは愉しいし、見終わると一定のカタルシスはあるのだけど、なぜだか薄っぺらい感じがする。いや、面白いのは面白いよ。面白かったはず。クライマックスの構成もよくできていて、まるでこの映画自体がフィクションであり、セットの中の出来事であるという言及のようにも感じられる。
 だから『大いなる眠り "The Big Sleep"』(『三つ数えろ』の原題)なのだ、としたら、映画そのものが冒頭のビデオが終わるまでに、銃撃を受けた主人公が見た夢だった、という解釈もできるだろう。本当は『三つ数えろ』のエンドクレジットが出たところで主人公の人生は終わっていて(あるいは弾丸摘出手術を受けたことでコーマ状態=「大いなる眠り」にあると)、そこから始まる物語はすべて夢、もしくは虚構なのですよ、だからこの映画のストーリーは出来合いの古典に則ってるんです、と。けど、それは別段面白くもない読み方だよなぁ(『パンズ・ラビリンス』を観てしまったら、その手の映画にはもっと上を期待してしまう、という観客の身勝手な思惑も影響するのだけど)。
 そう読むくらいなら、「もはやホークス調の(或いはボガート的な)ハリウッド神話は死滅しきって、その後に生まれる映画は(特にハードボイルドをやるのなら)キッチュでジャンクたらざるを得ない、という犯行声明と受け取ったほうが趣がある? とはいえ、まァ、そんなこといまさら言われなくてもという向きもあるし(ゴダールがデビュー作でやってることだし)、今の子供は『ランボー』さえも知らないのでは? とも言いたくなるけど。
 で、そうしたポスト映画あるいはハイアート消滅後の時代の「茶化し」として、ラストにYouTubeを登場させたとすると、……いやいや現実に似たようなこと起こってますから。日本で。
 ――と、ここまでが枕。







 これまでの映画ならいろいろあって証拠物件を入手した主人公たちは、新聞社やテレビ局へ匿名で郵送したり会社の前に置いたりしたはずで、古典的(または古典風)な映画だったら輪転機の回る映像にかぶせて巨悪が暴かれる旨の見出し入り紙面が踊ることだろう。しかし、今回の主人公たちは証拠動画をYouTubeにアップロードする。それをユーザーがたまたま発見して口コミで広がり、敵役が逮捕という流れだ。これも尖閣ビデオの一件がなかったら、なんだか安易なラストだな、と思ったかもしれない。現実が映画の見方に影響を与えた好例とでも言っていいのかな。
 数日前の産経新聞の記事に、似た趣旨の記載があった。内部告発やリークは大手メディアに対して為されるのが通例だったのに、尖閣ビデオYouTubeにアップロードされた、と。今回の件が内部告発に当たるかどうかは別としても、もしもテレビ局に持ち込まれていたとしたら、マスコミ各社は「犯人探し」をどのように論じただろうか? それが違法行為だとしても、ニュースソースの秘匿というジャーナリズムの原則との間でどのように折り合いをつけただろうか? 尖閣ビデオを入手しても報道を控える、とまではさすがに思わない。ビデオを一般公開すべきという論調は強かったし、国民の関心も高かったのだから。
 では、どうして43歳の海上保安官はマスメディアでなくYouTubeに投稿したのだろうか? そのほうがお手軽だったから? 外部に持ち出すより自分ひとりで処理したほうが安全と考えたから? この辺りの事情をマスメディアがどう捉えているのかには関心がある。
 今回のケースでは、もちろん投稿者は名乗り出るべきなのだろうと思うし、現に名乗り出た。そして名乗り出たことによって、事件の主眼がはっきりと見えてきたと思う。今後は法廷で争われ、その眼目は「中国人船長釈放に端を発した政府の対応の正当性」に関わってくるだろう。投稿されたビデオが機密として扱い得るかどうかを巡って公判の維持が難しい可能性がある、という報道もすでにある。これが機密に当たるかどうかの問題こそ、直接に今回の政府の対応の是非に繋がるだろう。仮に機密に当たらないという司法判断が為されれば、政府は不当に「国民の知る権利」を抑圧したのだから、事は情報管理を巡っての所管大臣更迭どころではない。当然デリケートな外交問題でもあるし、APEC直前という時期の問題もあったかもしれないが、それが法に照らして適切な判断だったのかはこれから問われることになる。
 日中関係に配慮するのは検察や裁判所の役割ではないのだし、国益(云うまでもなく、国体や国民道徳の話ではない)に照らした判断となれば、それはまた別のところで行われるだろう。
 なによりも司法の独立を保つためにも、今度こそ、「粛々と法に則って」解決して欲しい。


 なお、『ミックマック』は恋愛映画の常道に則ってハッピーエンドを迎えるのだが、この続きがあるとしても主人公は名乗り出ることはないだろうし、名乗り出る必要もない(主人公たちはホームレスという社会的弱者だし、あまり推奨できない方法で証言を手に入れている)。そこに甘さを感じるのは、今の自分が尖閣ビデオの流出という事態を見ているからかもしれないけど。ともあれ、テロ組織に武器を売却していると自白する武器製造会社社長の友人、という設定のサルコジ大統領までは被害が及びそうにない(まァフランスは市民運動が活発なようだから、引きずり降ろされるかもしれない)。
 それよりも、ここの辺りでテーマがあやふやになるのが難点で、この映画は武器製造自体を非難しているのか、テロ組織にも武器を売却することを非難しているのか、分からなくなるのだ。というのも、投稿動画を見た人は武器製造そのものではなく、テロ組織への売却にショックを受けるだろう。けれど、その動画を撮影している主人公たちは、国益云々ではなく無差別に人を殺傷する武器そのものを非難しているはずなのだ。世論がどう転ぼうが構わない、復讐の達成だけに眼目があるコメディだよと言われればそれまでだが、だからこそ、この映画ではYouTubeというネットメディアは単なる「茶化し」の道具として組み入れただけかな、と思えてしまう。
 フィクションにおける「茶化し」ではないメディアとして、すでに投稿動画サイトは機能している。そこで働く欲望は劇映画に期待する欲望とはまた少し違うのだろうか。ヒッチコックが言うような窃視症的な映像「だけ」を楽しむなら、ジュネの映画は最高に楽しいとも言えるのだけど。
 現実には薄っぺらではない確かな手触りがあるのだ、とはさすがに主張しない。





追記[11.13]
 WikiLeaksを題材にした映画もすでに勘案されてるのかな、とふと思った。となるとジュリアン・アサンジ役はエドワード・ノートンか? 監督はフィンチャーかレッドフォードか、いや、マイケル・ムーアによるドキュメンタリーって線もあるのか。
 いまのところ賛否両論のWikiLeaksだけど、ハリウッドで映画化されたら一気に世論が傾くだろうか、どうだろうか? そりゃ物語化された現実が現実を物語化するのはお決まりのパターンだし、現実と虚構の境目が見えないのも今に始まったことではないけど、個人的には、WikiLeaksの示すインターネットを使った告発システムって時代の回答のように感じるから(解答とは言わないけど)、そもそも本当に「物語化」する意味があるのだろうか、とも考える。
 フィクション内でも携帯電話が普及したように、そう遠くない未来には映画内の告発者は当たり前のようにWikiLeaksにアクセスするようになってるかもしれない。すると今度は、WikiLeaksが悪者として描かれてるかもしれない。だったら、WikiLeaksこそ「道具性」として捉えるべきじゃないのかな。
 アサンジの行為も理念も素晴らしいとは思うが、彼自身を虚構化/カリスマ化するのはさすがに危険じゃないか、と思ったりする。それではWikiLeaksの持つ社会的重要性まで覆いかねないし、彼らが主張し得る公共性の理念に対してもあらぬ誤謬を与えかねない。個人をカリスマ化するのは宣伝効果としては有効かもしれないが、「情報を制する者は世界を制する」世の中で、巨大な権力を握る可能性のあるメディアを個人に集約できるはずもない。ハリ・セルダンでもあるまいし。
 きっと権力は「誰か」が両手で抱えるには重すぎるものになってしまったんだろう。政府を監視するメディアの役割はこの重すぎる権力の分散でもある。内部告発を受け止めるメディアの存在は社会にとって不可欠だ。とにかく今はそれを必要としている人や社会があるんだから、その存在を否定はできない。仮にWikiLeaksが重すぎる権力を握ったときには、それを監視する別の機構が働くだろう(それが今だとも全く思わない)。
 仮定に仮定を重ねた埒もない意見だが、だから映画化のタイミングもまた今じゃないんだろうな、という結論である。映画みたいな現実を安易に物語化したって、一時の快楽しか生まない。一時の快楽が悪いなんてぜんぜん思わないけど、時にはそれと引き換えに多くを失うことだってある。

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