観測者問題:フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク『善き人のためのソナタ』雑考

 観測者が現象の一部に組み込まれたとき、システムは複雑系になる。


 80年代の東ベルリンで体制側の監視者と監視される芸術家たちとの奇妙な交流を描いた映画である。テーマからすれば、監視者の変節が始まったのは、被監視対象である劇作家が自殺した友人を想って弾くピアノソナタを盗聴したところ、ということかもしれない。「ベートーベンを本気で聴いた者には革命は不可能だ」という意味のレーニンの言葉が引用される。監視者はソナタを本気で聴いて涙を流すのだが、この曲が「善き人のためのソナタ」である。
 では、なぜ監視者はベートーベンを本気で聴いてしまったのか?

 まるでアフォリズムのように、エピソードは断章的に語られる。権力を笠に着て欲望を満たそうとする大臣。出世主義者である上官。体制に疑問を抱く生徒たち。監視者の所属する国家保安省を悪し様に言う無邪気な子供。また、劇作家の恋人である女優との接触もある。
 しかし、きっかけはもっと些細なことだった。本筋からすればどうでもいいようなことで、恐らく監視者本人もその出来事を覚えていないだろう。
 大臣が女優を劇作家の許に送り届けたとき、監視者は劇作家を呼び出して、通りの向かいの車から降りる女優の姿を目撃させる(浮気現場を目撃させ、しかもその相手は車の豪華さから特定できる)。これは監視者が干渉しなければ、起こらなかった出来事である。つまり、このとき初めて監視者は現象に干渉する。
 以降、観測は不可能になるのだ。

 女優に対して恋心を抱いているにしろ、この時点で彼をそんな行動に突き動かしたのは、小さな悪意と好奇心である(「どうなるか見物だぞ」)。それでも、彼が彼の意志で現象に介入したことで、彼は彼という存在を、彼自身が監視している系の中に組み込んでしまう。預言を知ったオイディプスが預言のために呪縛を受けるのと同じように、彼は彼の存在という呪縛によって監視する側に回ることができなくなる。監視者として振る舞おうとすれば、彼の存在は引き裂かれてしまう。
 そうした存在の不確かさのうちにあるからこそ、ベートーベンのソナタを本気で聴いてしまうのだ。

 対照的に、出世主義の上官が語る「牢獄における芸術家の行動類型」についての理論がある。囚人をパターンに分類して、どれに当てはまるか判別し、扱いを変えてゆくというものだ。ここで語られているのは、囚人に干渉せずに服従を促す方法だ。初期値(パターン判別)を定めるだけでよいのだから、系に介入することはない。観測者の意志など問題にならない。
 しかし、主人公はそうした態度をとれなくなった。監視者が人間であり、人間であろうとする以上、絶対的な観測はあり得ない。

 同じく共産圏を生きたクンデラの諸作もまた、監視体制下における個人の無力さや不条理を語りながら、系の内部で苦しむ人間の悲喜劇を浮き彫りにする。こうした作品に出合うたび、社会を単純化することの無意味さを痛感する。


 複雑系とは人がそこに生きていることの証なのだろう。