全能の監視者について

 まず――
マニエリスムが誠実とは、いったいどういう意味だ?」
 と、二つ前の記事の文責帰属を持つ主体なるものに問いたい。つまり、4月25日の僕に対して。
 話の前提として「それはお前本人だろ」という他者の声をひとまず棚上げする。これは、今の「私」から過去の「私」への問いなのだ。だからここで「あァ、それよくわからないんだ」と言って記事に手を入れて訂正編集するのは易しいが、誠実さを欠く行為だろう。かと言って、それについてはこうこうこういう意味なんだ、と誠実に答えるのはいまここでキーボードを打っている「私」であって、過去の「私」ではない。果たして、過去の「私」と今の「私」の間にある連続性を無条件に信頼できる根拠はどこにあるのか。あの時はこう思ったけど、今はこう思っている。そして、あの時思っていたことをはっきり覚えてはいない。という状態であるとしたら、「私」はどこまで「私」に対して責任が持てるのだろうか。
 何が言いたいのかと言うと、前回の記事にあるゲーテの格言の正当性を篩に掛けてみたいのである。

 いかにして人は自己を知りうるか。観察によってでは決してない。行為によってだ。汝の義務を果たすにつとめよ。そうすれば汝の何ものなるかが直ちに明らかとなろう。――が、汝の義務とは何か。その日が要求することだ。

 過去の自分に問いを投げても、過去の自分は答えを返すことはできない。過去の自分になったつもりでいる今の自分がいるだけだ。今の自分が「あれ?」と思った言葉を問いただす相手は、残念ながらどこにもいない。

 では、大森荘蔵はひとまず脇において、「私」というものを仮構してみよう。更に、書くという行為を考えてみる。それはつまり、頭の中にもう一人の「私」を飼っているということになる。観察者となるだろうか。しかし、これは実は非常に不公平な言い方で、見方を変えれば、この頭の中のもう一人の「私」が身体性と合致していると絶賛錯覚中の「私」を飼っているとも言えるわけだ。更に敷衍して考察してみれば、これは何も「書くこと」に限定される事例ではなく、身体性と合致していると錯覚中の「私」の身体における「行為」全般をもう一人の「私」が観察していることになる。この観察によって私の「書く」行為が担保される。とすれば、観察者が書くという行為を行為していることになる。書いているのは、実は現に行為している「私」ではなく、行為している「私」を監視しているもう一人の「私」である。でなければ、「私」は「私」の記述が不可能である。
 とすると、「私」の頭の中にいるもう一人の「私」は「私」にとって全能の監視者である、という仮説が成立するのではないか。
 しかし、事はそう単純ではない。なぜなら、困ったことに「私」の二重性は無限に後退連鎖が可能なので、「私」を飼っている「私」がいるとすれば、「私」の頭の中の「私」を飼っている「私」がいてもおかしくないし、その「私」を飼っている「私」を飼っている「私」を……と永遠に繰り返す羽目になってしまう。こうなると、「私」を監視している全能の監視者たる「私」はいったい誰なのかという問題はそのまま、監視されている行為主体としての「私」とはいったい誰なのかという問題に一般化される。行為者が誰なのか、見極めがつかなくなるのだ。
 更に困ったことには、この後退連鎖する無限の「私」の連なり方の問題である。仮に「私」たち全体が多項式時間の範囲で観測可能であるならばひとつの連続した統一体としてそれなりの安定性を獲得するかもしれないが、この連鎖が(たとえば)指数時間的な連なりであったなら、もはや観測も計測も困難となるだろう。それらを無理に繋げて一つの統一体を仮構したときに描かれる構図は、きっとグロテスクな蛇状曲線になるはずだ。身体性と合致していると錯覚中の「私」がそもそもどの段階の何番目(と数えられる根拠もないけれど)の「私」であるかは置いといて、これら無限の「私」たちをひとまとめにした時の「私」はひどく不安定でいつ崩れてもおかしくない砂の城のようなものだ。

 レトリックはこのくらいにして、論点をはっきりさせよう。問題は、責任の帰属性にある。主体の責任をいったいだれが担うのか。カトリックであろうとカルヴァン派であろうと、強力な神が存在するなら主体の担い手は神である。彼は否応なしに最後の審判の日に振り分けられる。ニーチェはこの信仰の欺瞞を暴いて神を追放したが、空位となった神の座に座ろうとはしなかった。なぜかと言えば、全能の監視者たる神が死んだとき、「人間」も同時に死んだからである。ここでいう「人間」は個人主義的人間、自由な人間、すなわち、主体である。そこで、最後の人間と超人という予言を残すにとどめた。
 さしあたって神は存在しない。だから過去の行為の責任はいまの自分が負わなければならない、というのが社会的な契約である。では、社会性を括弧に入れたときにはどうか。今の「私」が過去の「私」の責任を訴える場合には、原告被告は共に「私」だ。だからいまの「私」が負うべき負債だと言われても、おそらく今の「私」は釈然としない。これは社会契約的な話ではない、念のため。この場合は、裁判官も「私」である。倫理的観点からすれば、被害者も「私」だ。被害者と原告の「私」は近しい親和性を持っているだろう。そして重要なことは、今この法廷には原告、被害者、検事、裁判官がいて、被告はいないことだ。被告だけは過去の「私」だから、現在の法廷に出廷できない。最終的に「私」たちは「じゃあ「私」に責任が帰属するってことで」と言うしかないだろう。だが、これも社会契約的な妥協であって、真理ではない。
 こうした事態が出来するそもそもの原因は自意識の肥大にある。「私」なるものが全能の監視者から逃れ出て、「私」自身が「私」の全能の監視者になろうと試みるときに浮き上がる矛盾なのだ。行為者の「私」が現在の「私」を考えるだけでも無限の「私」が発生する。過去の「私」の行為の最中にも、無限の「私」が発生しては消えてゆく。「私」としてはもっと確固たる「私」があった方がいいと思わないでもないのに、それを確証するための根拠がどこにも存在しない。「私」が「私」を考えるとき「私」は極めて不安定な状態に陥り、「私」が認識している(と信じている)世界は常に揺らぎ続ける。認識論が絶対性を確立できないのは、世界が「私」と他者との間で相対化されるからではなく、認識する「私」が確固たる「私」統一体を形成できないからだ。そこで「我思う、故に我なし」という諧謔が生まれる。これは超越論的自我の話ではなく、主観世界での危機的出来事である。
 マニエリスムは、こうした「私」の立ち位置が揺らぎっぱなしの状況に出現する。歪な「私」が認識する世界は、歪な世界であり続けるしかない。自意識に憑かれた個人が世界の中に個として屹立しようとして直面する不可能性、矛盾性がマニエリスム的状況なのだ。すでに二十世紀前半に湧き上がった近代のマニエリスムにおいて、『特性のない男』(ムージル)のウルリッヒは、主体の責任帰属性に懐疑を抱いている。

 そろそろ最初の質問に答えよう。今の「私」からの過去の「私」への質問だ。
 僕がマニエリスムを誠実だと思う根拠は、それが主体をシステムに明け渡す集合知に比べて、まだしも主体への憧憬に対して忠実であるだろうと考えるからだ。言うまでもなく、誠実さは合理性や善良さや正当性とは何の関係もない。そもそもマニエリストは「問題人間」だとホッケは言っている。けれど、少なくとも、誠実さは「私」が「私」に対して持つことのできる責任に関わる事柄だろう。より誠実に答えようとすれば、「そうは言っても二つ前の記事を書いた「私」がどういうつもりだったのかは知らない。「私」はそこまでの責任を負えない」と、今の「私」は裁判官たる「私」に向かって陳述するだろう。
 当然ながら、ここに「他者」が介在してくれば話は一変する。「私」たちの討議など、他の人には知ったこっちゃないんだから。他者の存在を認識した瞬間に、「私」たちは(それがどんな歪な形であろうとも)無条件に統一せざるを得ない。でも、あなただってあなたの中で「あなた」たちと、「私」と同じような討議を繰り返しているはずなのだ。私がしゃしゃり出て、「あなたはどうして昨日あんなことを言ったんですか」と訴えかけるまでは。
 とすれば、「私」が「私」の責任主体であり続けるのは、他人の認識という「私」にとっては干渉不能な対象の在ることを知っているからだ。言うまでもなく、他人は「私」にとって全能の監視者ではない。けれど、他者の認識という鏡に照り返されたときに歪な「私」としてあるこの主体は、ある一定の権力をもって、「私」に対して主体の責任帰属を要求し続けるだろう。もしかすると、この主体の権力は本質的にはもはや「私」とはなんの関係もない何かかもしれない。「何ものであるか」とゲーテが言うときのそれは、義務を遂行する「私」とは別物の(さしあたって)「私」が「私」と認めてしまった「何ものか」かもしれない。このような認識の鏡の照り返しによって生じる「私」の変容もまた、ひどくマニエリスム的な歪みを抱えている。

迷宮としての世界(上)――マニエリスム美術 (岩波文庫)

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