見えている②

 以前、国立新美術館に行ったと書きましたが、話が出来事の半分でした。ハプスブルク展の観覧者の多さに疲れて展示室を出た後、他の企画展示を観に行きました。この美術館には常設展示がない代わりに、期間限定の企画展示がいくつか開催されていました。
 そのうち三つのスペースで開かれていたのは、書の展示会です。入場無料なので、入ってみました。
 書という芸術形式は日本人には馴染み深いものですが、世界的にみれば、独特の形式です。表意文字である漢字が基底にあり、漢字から派生した仮名文字があり、それらを組み合わせて作品として成立させます。こうした文字表記をそのまま引き写した画像は、たとえば西洋文化ではデザインと呼ばれるのでしょう。しかし、漢字文化圏における「書」は単なるデザインにとどまりません。制作における複製概念も異なって考えられるでしょう。

「文字」はひとつの形式です。イメージによって好き勝手に形を作り変えることは許されません。「日本的なスノビズム」が関わるのかどうかは知りませんが、現に日本語を母語とする者なら、外部からの解釈とは異なる解釈を持っているでしょう。
 形式の反復は複製概念ではなく、一回性の理念です。その瞬間をとどめるために、反復があるのです。「書」に関して言えば、その一枚に込められた精神性は、そこに至るまでに制作された全ての書に及びます。ときには、そこに至るまでに「生きてきた」全てが籠められもするでしょう。
 しかし、それだけなら洋の東西を問わず、あらゆる芸術家に共通することです。
 ここに、臨書という興味深いテーマがあります。
 署名の下に「臨」と、一文字記されています。お手本を写したという意味です。「書に臨む」というときの「書」はお手本のことです。同時に、この作品のことでもあります。また、それは「私」でもあるのでしょう。それらが一体化しているのであり、筆を振るう身体と「私」の一体化でもあります。「見えている」風景(=お手本)を記述しているのです。私が見ているのではなく、書くことと「私」は同じものになっています。でなければ、三者はひとつになりません。
 そもそもの前提として、誰が書いているのかは、もはや問題ではありません。書いているのはすなわち私であるのですから、私が書いた、という言葉は意味をなさないのです。






 昨年、王羲之の「蘭亭序」が初来日した展覧会が両国の江戸博で開催されました。王羲之マニアだった唐の太宗皇帝は国中から王羲之の真蹟を集めた末、墓の中まで持って行きました。その一枚は、「蘭亭序」です。現在、王羲之の真蹟は一枚も残っていません。書聖と詠われ、神様のように崇められる王羲之ですが、その真蹟は一枚も存在しないのです。
 江戸博に初来日した「蘭亭序」は、馮承素によると伝えられる搨書(模写品)でした。搨書とは、真蹟の上に紙をのせて輪郭の線を正確に写し取り、輪郭の中を墨で埋めてゆく(双鉤塡墨)という複製技術を使って作られた複製品です。馮承素は太宗に命じられて「蘭亭序」の精巧な複製品を作ったと言われています。また、太宗は唐初の三大家(虞世南、欧陽詢、褚遂良)らに王羲之を臨書させてもいます。これによって書の価値は飛躍的に高まってゆきます。
 後に、清の乾隆帝が蘭亭関係の作品を八本の石柱に刻させました(これを帖に仕立てたものが「蘭亭八柱帖」です)。そこに「蘭亭序」が三作挙げられているそうです。伝虞世南の模写、伝褚遂良の模写、伝馮承素の模写です。ここから馮摸作は八柱第三本と呼ばれています。
 さて、ここで言えることは次の二つです。

1 複製品(搨書)は真蹟ではないが本物である。
2 臨書の主体は手本の側にはない。

 優れた複製品の主体は、真蹟にあるということです。写したのが虞世南であれ馮承素であれ、書は王羲之の名で残存しています。後代の書家は「蘭亭序」の臨書に模写を使うでしょう。それはすなわち王羲之を手本にするということです。しかし、これは考えてみれば当然で、たとえば現代の書道家だって、真蹟を脇に置いて臨書したりはできないからです。当然、写真を手本に臨書するでしょう。残存している蘇軾にしろ王鐸にしろ誰にしろ国宝級の代物を借り出すことは困難ですから。
 このとき、写真は真蹟ではないけれど、やはり本物なのです。
 とはいえ、絵画だったら考えられないことです。フェルメール展と題していながら「真珠の耳飾りの少女」の写真が飾られていたら「金を返せ」という話になるでしょう。もちろん「蘭亭序」の写真が掛かっていたら同じことになるでしょうが、では「真珠の耳飾りの少女」の精巧な模写ならいいかと言えば、そんなことはありません。メーヘレンはフェルメールの贋作家として名高いですが、贋作認定された彼の絵は、二度とフェルメール作とは呼ばれません。

 そうすると、臨書という形式が本物に先行して考えられているのが書だと言えないでしょうか。

 王羲之には真蹟は残されてませんが、優れた模写(並びに模写の模写)と数多くの臨書が存在します。臨書は、王羲之作ではありません。なにも歴史的な大家に限った話ではなく、素人だろうと子供だろうと王羲之を手本に書いた作品は、その人の書になるのです。
 ひとつには、それが「文字」だからだと言えるかもしれません。「文字」の本質は意味伝達です。空間的時間的に意味を保存して他者に伝えるための技術です。だからこそ、『パイドロス』におけるソクラテスの危惧も生じるのです。
 そこには、「(少なくともある一定の)共同体で共有される」という条件が付帯します。共有されない文字は文字ではありません。読めない文字は文字ではなくて、ただのデザインであり、イメージを持たない落書きです。
 すると、「文字」には原理的に個性は必要ではないと結論されます。共有されることが前提条件ですから、個別の文字は無意味です。だとしたら、個性が必要ではない「文字」を芸術の域にまで高めるという考え方自体がパラドックスを含んでいます。文字文化が浸透しなければ不可能な形式であり、その意味で音声中心主義の文化圏では決して派生してこない芸術形式でしょう。
 書は「文字」であるから読むことができます。書体が変化したとはいえ、書体ごとに決まり事があります。その決まり事があるから上手下手があり、決まり事の上で崩していきます。書はどこまで行っても、やはり文字なのです。原理上、複製可能であり、共有された形が先にあるものです(漢字の最も崩れた例が、仮名文字でしょう。考えてみれば、仮名文字の発想の源泉にも中国での漢字の崩し(草書体)にヒントを得て思いついたのかもしれません。王羲之の時代は四世紀前半、太宗の時代は七世紀前半です。万葉集の成立が七世紀後半から八世紀にかけてですから、仮名文字が成立する頃には草書も日本に浸透していたでしょう)
 そこには意味が発生します。中国の詩人も日本の歌人も能書家が多かったのは、「文字」に残したからです。「文字」は官吏の必要条件でもありましたから、役人もまた能書家でした。大家と呼ばれる書家はみな官吏ですし、そうでなければ宗教者です。文字を書く行為はメッセージの伝達であり、つまり、「文字」とはメディアだということです。

 にもかかわらず、「書」が特異なのは複製不可能である点です。

 文字は複製文化です。しかし、文字文化が芸術に昇華されるとき、複製性が剥奪されています。王羲之を臨書する人はその人の書を制作しているのです。一枚、一枚、また一枚と書き続けてゆき、けれど、その反復は複製品を作っているのではありません。一枚ごとに一つの作品を制作しているのです。
 では、そうして同じ所作を繰り返すことに、いったいどんな意味があるのでしょう?
 たとえば、茶室における決まり事は厳密に定められています。腕の上げ方、茶杓の振るい方、茶碗の置き方、茶の飲み方、動作の一つ一つに決まった型があって、その通りに事は進んでゆきます。これは役を演じているわけではないのです。演劇として捉えるのでは、本質を見誤っているだろうと思います。そうした諸芸の根本概念は、動作や所作や行為そのものが自分であることが必然であるという態度を養うことにあるのではないでしょうか(或いは「演劇」の本義がそれであるとすれば、演劇性という解釈にも嵌まります)。
 禅の作務にしても同じです。庭を掃くときは庭を掃くことが己となるようにせよ、と教えます。座ることがすなわち己であるように座れ、と教えます。これが基本なのです。形式が問題なのではなく、形式を反復することによって存在の在り方を最初に知らしめるというだけのことです。だから、形式の反復=美だという単純なものではないのです。その捉え方は完成された(と誤認している)作品を見て、或いは制作過程に目を向けて、判断しただけの片手落ちの代物です。
 行為と「私」は同じものですが、それは初等教育でしかないのです。そこから臨書が藝の域に発展するまでには、長い道のりが必要とされるでしょう。形式の反復が美であるのなら、ただその過程の美しさがあるだけで、作り上げられた作品は複製品でしかありません。ひとつの動作、ひとつの所作、ひとつの行為がそれぞれ自分であり、だからこそ、その一枚は複製品ではないたった一枚の私の作品になるのでしょう。作り上げた一枚が「私」と同じものになるのです。つまり、そこに私が生きているのです。

制作者としてでなく観客として、この基本概念を理解するのは難しいことではありません。書の展示会場に足を踏み入れてみれば誰にでも分かることです。



 


 国立新美術館の展示室に入っていきます。
 周囲には無数の「文字」が並んでいます。文字ですからそれぞれに意味ある文章が書いてあります。千字文も文章です。中国の大家の臨書もあれば高野切の臨書もありますし、近代詩もあれば、一文字だけ大きく書いてある作品もあります。ヒットソングの歌詞もあり、アルファベットを崩して組み合わせたものもあります。一つ一つの作品には、一つ一つの意味が込められているのです。
 けれど、フロアに立ち尽くしてふと周囲に目を向けると、解釈よりも先に「見えている」風景が広がっているのです。白地の紙に黒墨で描かれた文字が視野の全体、いや、視界の外まで広がっています。無限遡行してゆく迷宮に閉じ込められたようなものです。
 鑑賞の態度として正しいものではありませんが、まず「文字」に囲まれたその風景に圧倒されるのです。これは絵画では味わえない感覚です。色彩は目を惹いてしまうから、どうしても解釈を求められているように感じます。同様に、図書館や書店でも感じません。書物は情報を剥き出しにしていませんし、それに本が原理的な意味で複製だということを事前に知っているからです。
 対して、無数の「書」に囲まれたときに味わうのは、意味の不在です。もちろん意味は存在します。しかしそれ以前の状況に引き戻され、おそらくは情報の圧倒的な量がとっさに個別の意味を観測する機会を奪ってしまうのでしょう。そこに文字が書かれていることは分かりますが、見えている文字は何の意味も語りかけてはきません。そこにあるのは、静かな時間です(お客さんは少なかったですが、それとは関係なく)。それは風景として、そこにあるだけなのです。
 そうしてそれが「書」であるという意味が浮かび上がる前の、ただ見えているという状況、見えているという場があり、自然とそこに居る「私」が認識されてきます。意味はその後に現れてくるのです。

 近しい例としては、映像表現としてバーチャルな状況を描き出すときに、主人公の周囲を無数の文字や数式が流れてゆく、というものがあります。このとき、主人公はただ戸惑うだけです。その文字や数式が描き出す意味に戸惑うのではなく、それらが意味を成さないことに戸惑うのです。その意味が分かるか分からないかは問題ではありません。何に戸惑っているのかさえ、分かっていません。そこに彼が存在することを彼が知るのは、その後なのです。
 それはきわめて自然な、当たり前の状況です。なぜなら、私たちは誰も「見ている」わけではありませんから。
 ただ「見えている」だけなのです。




 


「蘭亭序」は王羲之が蘭亭での宴席で即興で書いた草稿だと言われています。酔いが回って上手くいかないから何度も書き直してみたけれど、結局最初に書いた一枚が最も出来がよかったと伝えられています。王羲之が稀代の詩人であったかどうかは別としても、太宗皇帝が王羲之を好んだ理由は「書かれた内容」がよかったからではないと思ったりもするのです。何が書かれているのかなどは些細な問題で、無数の王羲之の書に囲まれて一人、その見えている風景に忘我の境地を味わう。父と共に隋を滅ぼし、兄を殺して二代皇帝の玉座についた皇帝らしからぬ静謐な佇まいですが、書の展示に行くたびにそんなことを夢想してしまうのです。
 書という芸術形式を現在のように発展させたのは、紛れもなく王羲之の真蹟を葬り去ったこの皇帝なのですから。