下書きを、並べてみる。

 ずいぶん長らくブログを放置している。twitterを始めてから手をつけなくなった現状を鑑みるに、所詮140文字で収まるようなことしか考えてなかったのかな、と厭な思いに駆られる。メディアによって使い分けを、と思っていたはずなのに、実行に移すのは難しいなぁ。
 で、ひさしぶりに管理画面に入ってみると、思いのほか「下書き」が残っているのに驚いた。いったい何を書こうとしたのか不明な記事も多々あるが(むしろなぜ保存しようとしたのか不明なんだけど)、そのなかから「私」だとか「主体」だとかに触れている記事を選んで表に出してみる。時期にズレがあり、違う内容を書こうとして挫折している断片だけど、繋ぎ合わせてみたら、案外、一貫したお話になったりしないものかなぁ。






2009.12.25
 作者とは誰か?
「見えている」風景は意味以前の状況であり、言ってみれば、統辞論的な世界である。視覚風景の中での行為には、ア・ポステリオリに「解釈」が加えられることになり、そこに意味論的な世界が生成する。大乗仏教の謂う「縁起」や「依他起生」は解釈・注釈としての生成概念だろう。現象学の謂うノエマノエシスも同様に、意味論としての現前である。
 では、このとき解釈を加える主体なるものが実際に存在するのだろうか?





2010.01.09
「Rは、それ自身の要素でないような、すべての集合の集合」としたとき、「では、RはR自身の要素なのか?」
 イエスと答えてもノーと答えても、命題に矛盾する。
 私の認識する世界が世界のすべてである、とする認識論は、ラッセルのパラドックスに似ている。「私は、私自身の要素でないような、すべての集合の集合」と言うとき、「私」は「私」自身の要素なのか?
 世界を生成しているのは「私」ではない。少なくとも、「私」が「私」と考えているような「私」ではない。





2010.05.07
 小説を書く魔術師という存在自体がイギリス近代のわけのわからなさを明かしている。ずいぶん俗化して胡散臭さ倍増なのですが? と思ってしまう。アレイスター・クロウリーのことである。
 けれども、よくよく思えば言葉と魔術が結びつくという観点は日本でも空海を嚆矢として実例があるのだし、真言は言ってみれば魔法語を詠唱しているのだし、結印だって詠唱破棄なのだけど――。
 しかし、ちょっと無理がある。『三教指帰』は小説みたいなものだろと言われても、あれは仏教布教のための教えの書であって広い意味で捉えても魔術書じゃない。
 王立協会やライプニッツの普遍言語が受肉化した文化なのだろうか。自分のことを語りたがる魔術師というのもどうなのだろう、と思わぬでもないが、その辺が文化の違いと言うべきか。それともそんなに変わらないのかな?
 それが小説にまで敷衍されるのは珍しい。





2009.12.28
 人麻呂の「われ」を詠みこんだ歌。詠む「われ」の位相はどこにあるのか。

   あらたえの ふぢえが浦に鱸釣る海人とか見らむ。旅行くわれを。(巻三、二五二)

 歌には詠み人の主語は入らない。詠んでいるのが当人だということは自明だからだ。その歌の中に当人を詠みこむとき、彼は情景の中に入り込んでいる。
 叙景詩が出来上がるのは奈良朝に入ってからだと折口は言う。(「歌の話」)






2011.06.11
 ……う〜ん。この記事、そのうち削除するんじゃないかな。