他愛ない思いつき。:ミシェル・フーコー『作者とは何か?』雑感

 作者名は固有名詞のように言説の内部から言説を産出した外部にいる現実の個人に向かうのではなく、いわばテクスト群の境界を走り、テクスト群を輪郭づけて浮き上がらせ、その稜線を辿って、その存在様態を堅持する、或いは少なくともその存在様態を性格づけるという考え方に。

 ……搨書やら双鉤塡墨法やらを念頭に浮かべて読んだら、捻じれ具合が面白い。もちろんここから読み取れる『作者名』は馮承素ではなくて王羲之なんだけど、その同じ本の後段に進んでゆくと――

 (《言説性の創始者たち》は)たんに彼ら自身の作品、彼ら自身の書物の作者であるにとどまらないという独特なところがあります。彼らはそれ以上のなにものか、つまり他のテクスト群の形成可能性及び形成規則を産出してしまったのです。
 (中略)
 こうした言説性の内部では避けがたい必然として《始原への回帰》という要請に出会うことになる……(中略)……この回帰はテクストの中に現前するものへと呼びかける、より正確に言えば、人はテクスト自体に、素裸のテクストに立ち戻るのであり、といって同時にまた、テクストの中に空洞として、不在として、欠落として記されているものへと立ち戻るのです。

 クラインの壺みたいなテクストだな(笑)
 以上、『作者とは何か?』(ミシェル・フーコー)からの恣意的な引用でした。