クリーマが持ち歩く『モデル読者』とは?:アンナ・ツィマ『シブヤで目覚めて』雑考

 ウンベルト・エーコ『物語における読者』、原題 ”Lector in fabula” は英訳すると「おとぎ話の読者」となって意味が通らないから、英語版タイトルは ”The Role of the Reader”(読者の役割) になったと、エーコ『小説の森散策』冒頭に書かれている。

 

 アンナ・ツィマ『シブヤで目覚めて』(阿部賢一 須藤輝彦訳)を読んだ。

 日本文学を研究するチェコの大学生、ヤナの物語だ。あるきっかけで出会った大正時代の謎の作家、川下清丸の研究に熱中している。そんなヤナは日本が大好き。十七歳のとき念願かなって日本へ旅行に行ったが、それ以来、渋谷から出られなくなった。プラハで川下清丸を研究するヤナと、渋谷を出られないヤナ。ヤナはふたりに分裂して、お互いにお互いの存在を知らない。

 プラハのヤナといっしょに無名作家の研究を行うのが、同じカレル大学の日本学専攻のクリーマだ。変わり者のクリーマは、『モデル読者』という本を持ち歩いている。

 この本がエーコの 『物語における読者』ではないかなと思ってみたが、どうだろうか。エーコはイタリア語(ラテン系言語)の原題をそのまま英訳にすると意味が違ってくると言うから、チェコ語版も英語版に近いタイトルになるのではなかろうか。

 ともかく、「モデル読者」は『物語における読者』でエーコが提唱した、テクスト論の用語である。

 いずれにせよ、クリーマは、経験的な読みを排した「モデル読者」としてテクスト創作の協同作業者たらんと試みるわけで、その時点でのヤナの読み方とも必然的に違ってくるだろう。

 

 

 

 

以下、ネタバレします。未読の方は進まないでください。

 

 

 

 

 

 

 エーコは、テクストの読みとは、モデル作者とモデル読者によって協同で行われる遊戯だと言う。モデル読者と対比されるのが、経験的読者である。

 

 ひとつの物語のモデル読者は経験的読者ではありません。経験的読者とは、テクストを読んでいるときのわたしたちであり、わたしやあなたがたのことであり、つまりだれもが経験的読者なのです。(中略)

 たとえばみなさんがふかい哀しみにとらわれているさなかに滑稽な映画を見る羽目になったとしましょう。なかなか愉しむことなどできないのはお分かりでしょう。それどころか数年経って、もう一度同じ映画に出会うことになったときも、相変わらず微笑むことさえできないかもしれません。(中略)経験的観客として、その作品を間違った方法で「読んでいる」わけです。ですがいったいなにと比べて「間違っている」のでしょうか? 監督が思い描いていた観客のタイプ、つまり気持ちよく微笑んだり、直接には自分を巻き込むことのない話を追いかける準備のできている観客と比べてなのです。このタイプの観客(書物なら読者)をわたしはモデル読者とよんでいます。テクストが協同作業者として想定し、創りだそうとするのは、このタイプの読者なのです。(『小説の森散策』より)

 

 ヤナとクリーマは日本の私小説作家を研究対象としているが、私小説は事実を書くとは限らない。川下清丸のテクストとしては、小説と随筆が一編ずつ提示されている。

 全く無名の作家だから、当初、ヤナもクリーマも川下清丸なる作者が実在するのか、それが他の作家のペンネームでないかなどを、特定できない。では、どの段階で、作者の存在は保証されるのだろうか。

 結論から言えば、小説「恋文」だけではどこまでいっても実在する作者の正体を明らかにすることはできない。どれだけ「恋文」が作者の私的な事柄を語っているように見えても、それが本当に起きたことかどうかを、その小説から特定することはできない。

 そこで周辺取材を重ね、たしかに作家は存在したらしいと裏付けを取りつつ、ヤナは、クリーマが翻訳した随筆「揺れる想い出」を読む。そして、「恋文」で語られた内容が、「揺れる想い出」でも語られていることを発見するのだ。より作者に近い形式である随筆によって、小説の内容が事実である可能性が高まってくる。

 

 このとき、エーコが論及する語りの入れ子構造と同じように、川下清丸を探すヤナたち読者の前で、川下が書いたふたつのテクスト「恋文」と「揺れる想い出」は機能し始める。

「恋文」の主人公の名前は川下清丸ではなかった。「揺れる想い出」は川下清丸の語りとして書かれた。このふたつの異なるテクストの内容が一致したとき、「恋文」は「揺れる想い出」に内包されたテクストとして初めて「作者」を語りだす。エーコの論で言えば、「恋文」の語りは語り手のものだが、「揺れる想い出」に内包された時点で、語っているのは川下清丸というモデル作者になる。

 

f:id:ioasQ:20210430005137j:plain

『小説の森散策』より

 

 しかし、これはあくまでモデル作者の声であり、川下清丸の声ではない。随筆が小説よりも作者に近いテクストであっても、テクストはテクストなのだ。そこで事実を語っているという保証は当然ない。

 それでは、どのようにテクストを超えて、現実の川下清丸に接触することができるのだろうか。それは、テクストを読んでいるヤナたちにはできないことだった。

 このテクストの壁を突き破るのが、渋谷のヤナである。ここが、この小説のユニークさだ。渋谷のヤナは幽霊のような存在で、現実の人々からは存在を認識されていない。その不思議な存在感は、テクスト(川下清丸の曖昧な実在性)と似ている。

 渋谷のヤナは、川越の墓地で川下の妻、上田夫人と会う。上田夫人は川下清丸のテクストにしかいなかった人物である。その人物が現前化してヤナの前に現れる。だが、これは本質的には逆なのだ。テクストである上田夫人と同じ位相に、渋谷のヤナがいるということだ。

 川越の墓地で、青山の老人ホームで、渋谷のヤナは上田夫人と会う。だが、そのヤナはヤナではない。上田夫人はヤナのことを「上田清子」の幽霊だと認識している。川下清丸がかつて書いた「恋文」、あるいは、作中では語られない『川を越える』という小説の登場人物「上田清子」だ。ここでヤナ自身が「恋文」の登場人物になり代わることによって、ヤナは、テクストを内破する異物となった。

 結果、ヤナはテクスト内から原稿を持ち帰ることに成功する。それこそ川下清丸の実在を証明できる、無名作家についての論文を書くことができるだけの重要資料である。

 上田夫人は最後まで、ヤナを清子だと信じて疑うことがない。上田夫人はテクスト内部にとどまり、ヤナはテクストの外に出て小説は終わる。

 ヤナのその後は?

 

『シブヤで目覚めて』の章立ては十部だ。プラハと渋谷で章が分かれて、全十部。

 だが作中に、極めて象徴的に「十一」が二ヶ所で出現する。プラハのヤナが、図書館で鍵のかかった本棚を見つける。十一番の戸棚。鍵がなくて開けることができずにいたが、やがて戸棚を開けたとき、そこに入っていたのはヤナにとって重要なものだった。

 もう一ヶ所が、青山の老人ホームの上田夫人の部屋、十一号室。渋谷のヤナが「清子」として夫人と会った部屋である。

 このふたつの「十一」で、プラハと渋谷のヤナはそれぞれ贈り物を受け取った。

 ということは、小説『シブヤで目覚めて』全十部の間に「第十一部」が語られている、あるいは、語られ始めている。ヤナはテクストという閉塞から脱出する方法をたしかに受け取り、受け取ったそれらを使うことによって、その後の展開をすでに与えられている。図書館で見つけた贈り物。老人ホームでの贈り物。それらは彼女が彼女の未来に向かって進み出すための、晴れやかな暗示ではないだろうか。

 

シブヤで目覚めて

シブヤで目覚めて

 
物語における読者 新版

物語における読者 新版