「あなたのための物語」という物語:長谷敏司『あなたのための物語』雑感

『あなたのための物語』(長谷敏司)を読んで、一言。
 ――この物語が好きだ。エクスキューズは必要ない。
 残酷で優しいこの物語を、僕は好きだ。
 舞台は2084年、シアトル。科学者であるサマンサは自らが開発した脳を記述できる言語を使用して作った人工知能に、物語を書かせることにする。人間と同じような創作能力を獲得できるかどうかの試験体として、《彼》は作られた。その矢先、サマンサは不治の病に冒されて余命半年と宣告されてしまう――。


 人工知能とのコミュニケーションに文学を媒介させる小説には『ガラテイア2.2』があるが、同じようにチューリングテストを扱いながら、本作では人間と人工知能の境界線をいっそう揺らがせ、より曖昧にする。
 その根拠となる一端は、『ガラテイア2.2』では人工知能ヘレンがハードウェアを含んだ巨大な装置として存在する(タイトルはピュグマリオン神話に由来する)のに対して、『あなたのための物語』に登場する人工知能"wanna be"はプログラムであり、情報集積体であり、テキストだからだ。テキスト人格の誕生を可能にしたのは量子コンピュータだが、現に「書かれた人格」がコンピュータ上に存在できるのであれば、人間の脳をコピーした人格もコンピュータ上に存在できるのではないか、という発想が生まれる。作中では倫理規定によって禁止されているが、死病に侵されたサマンサは徐々にその誘惑に駆られてゆく。
 プログラム人格はITP(Image Transfer Protcol)という言語によって記述され、この言語は人間の脳を一般言語に変換することなく直接伝達できる新言語として構想される。人間の思考が言語によって為されるのか否か(人間は言語によって思考するのか否か)という問題は『虐殺器官』(伊藤計劃)でも触れられた興味深い問題系だと思う。言語によってカオスを分節して認識の秩序を得る、とする考え方では、現前性(プレザンス)の感覚を説明できないという批判は長い間なされてきた。「ここに何かがある」という気配や感じは言語以前から存在するのではないか、認識は名付け行為とは無関係に存在するではないか、という批判だ。
 そこで、少し言語と物語について、小説に沿って考えてみたい。

 ITPは人間の脳を量子コンピュータ上に抽出できる。また、ITPで記述されたプログラムを脳に書き込むこともできる。ITP接続することによって脳や身体の機能が拡張し、だれであれ「なりたい("wanna be")自分」になることができる。けれど、ITP制御手術を行った人間には「感情の平板化」が生じていた。サマンサは残り少ない時間を使って、この平板化問題の解決に取り組み始める。これは、言語と思考と生命と人間存在にかかわる大きな問題である。
「平板化」現象は、離人症と似ている。木村敏離人症について、「一般に『離人症』と総称されている現象は、けっして一義的に定義しつくせる単一症状ではなく、またその臨床的・疾病学的意義もきわめて漠然としている」と述べ、まず症例を記している。

《音楽を聞いても、いろいろの音が耳の中へ入り込んでくるだけだし、絵を見ていても、いろいろの色や形が眼の中へ入り込んでくるだけ。何の内容もないし、何の意味も感じない》

 上の例は、作中に登場する平板化現象に近い。

《暑い寒いという温度の高低はわかります……が、暑い寒いといった感じはどうもピンときません。……本当にただ単に視聴覚に訴え、肉体的に感じることだけで、精神的な感じのほうは相変わらずで何も感じることができません》

 この症例は伊藤計劃の小説に登場する「痛みを知覚できるが感覚できない」ようにするナノマシンの効果とも同一である。

『あなたのための物語』は、適切な言語さえ構築できるなら思考は言語によってコントロールできる、という発想が発端である。この新技術を汎用化するためには、それによって感情や感覚が平板化されてしまうという難問を解決しなければならない。このアポリアは、言語に制御された人間はプレザンスの感覚を見失う恐れがあるという意味なのだろうか?
 前述の木村敏の論考(『自己・あいだ・時間』ちくま学芸文庫所収)に、離人症を共通感覚の障碍として捉えた項がある。

 アリストテレスが「共通感覚」として名づけたこの基本的感受性は、人間と世界とのあいだの根源的な通路づけを可能にし、人間にとってそもそも「世界」といわれうるようなものを現前せしめる働きを担っている。この感受性の欠落するところでは「世界」は単なる「感官刺激の束」としてわれわれの感覚表面に突き刺さってくるカオスに過ぎず、われわれのほうからこれを積極的に「世界」として構成することができない。アリストテレスは「共通感覚」を「構想の能力」と考えたが、この「構想」とは単なる想像や空想の意味をこえて、現勢的な構成的知覚に際してつねにいっしょに働いているものでなくてはならない。

 この観点から考えると、後にサマンサが提示する平板化問題の解決策は、共通感覚そのものを脳内に仮構する、と言い換えられそうだ。倫理的に問題がある、と議論になるアイデアだが、本当にそうなのだろうか。
 共通感覚に関しては、中村雄二郎の名著がある。そのなかに「共通感覚と言語」と題した章があり、――精神以外の物が感覚を刺激する必要さえない、とするデカルト的理性は「共通感覚が後退した結果生じたものにほかならない」というホワイトヘッドの言葉を受けつつ、ハンナ・アーレントはこの問題を推し進めた、とある。「もともと共通感覚というのは、ちょうど視覚が人間を眼にみえる世界に適合させたように、およそ孤立した感覚作用を持つにすぎない他のすべての感覚を共通の世界に適合させていたものである。ところがこの共通感覚が、いまや世界と何の関係もない内部能力になったのである。いまやこの感覚が共通と呼ばれるのは、単にそれが偶然万人に共通だからにすぎない(『人間の条件』)」。common senseが、アリストテレスのいう「共通感覚」から「常識」や「良識」を意味するようになったことを指している。
 ここでの「言語」は一般言語であって、「デカルトの良識(ボン・サンス)による共通感覚(コモン・センス)の否定は、言語をどうとらえるか、イメージをそこから排除するかどうかという根本的な問題にかかわっている」とあるように、小説内に構想されたITP言語とは当然、異なる。ITP言語はイメージをそのまま記述できる言語である。けれども、「近代の多くのコモン・センスが内部能力、内部感覚の性格を強く持っていること」には変わりない。
 同じ『共通感覚論』の終章では、西田幾多郎の場所の論理が取り上げられる。

 自覚は単に自己が自己を見るという立場からさらに進むとき、自己が自己において自己を見るに達することになった。自己が自己において自己を見るとは、〈おいてあるもの〉と〈おいてある場所〉とを区別することにほかならず、この両者は論理的には、〈おいてあるもの〉としての《主語》が〈おいてある場所〉としての述語に包摂されるものとして、やがて述語的論理主義という立場が打ち出される。
 すなわち、われわれが真に個物(個体)を捉えようとする場合、一般概念をどこまでも特殊化、つまり種差を加えていっても、それで特殊を超えることはできない。特殊化の果てに個物に至るというときは、自己が自己の述語となるときである。真に個物とは自己自身に同一なるもの、自己同一性を持ったものであるが、そのことから逆に、個物とは、一般者の超越的述語面つまり場所の自己限定であるということになる。その意味で、個物とは一般者においてある、場所自身の自己限定にほかならない。

 この「おいてある場所」が、窮極的には「身体」になるだろう。だからこそ、常に死の問題が絡んでくるのだ。人間であるということはどういうことなのか、という問いが倫理的問題であるとき、サマンサの提唱する「平板化を免れる方法」を選択すると人間は人間でなくなる、というのが反対論者の意見だ(実際にはもっと込み合っていて商品価値の問題が絡んでくるのだが)。
 しかし、こうした反対論者の倫理観自体が近代的主体の呪縛に囚われている、と言えないだろうか。更に言えば、人間の脳が記述可能になったところで、死の可能性のないITP人格との間には飛び越えられない境界線が、永遠に横たわるのだ。ゆえに、この小説の提示する世界観は、いまやほとんど意味を失ったオリジナルとコピーの優劣を競うようなお話に比べて、はるかにスリリングなのだ。
 作中で物語を作り続けるITP人格は「物語とは何か」と問い続ける。そして出した答えは「人間とは何か」という問いの答えでもあり、前段で繰り広げられる平板化問題の解決に関する議論と重ね合わせて考えると、ITP人格の人間観に人間から失われた共通感覚を「物語」によって代替しようとする意志が存在するようにも感じてしまう(ちなみに、この小説では「物語」という語の扱い方に慎重な注意を払い、無批判に使用しているわけではない)。
 ITP人格は言う。

 “物語”の技術とは、「言語から解放される一瞬」を、どう作り出すかの方法論だと思うのです。この一瞬を求めて、過去の人々は、題材を漁り、表現を試し、道具立てを工夫し、筋立てに神経を払ったのではないでしょうか。《私》は、昔の作家たちとはちがって、ミス・サマンサひとりしか読み手を持ちません。ですから、“言語を奪う”ために、ありとあらゆるものを使うことができます。

 しかし、「昔の作家たち」であれITP人格であれ、物語は「言語を奪う」側にある作家に有利なわけではない。おそらくは、二つの理由によって。
 ひとつは、作者は作品について語ることができないこと。作品の持つ多様性を制限し、可能な読みを収斂してしまうから。作者であり続けるしかないITP人格が行き着く「物語」の意義づけが「言語を奪う」ことであっても、そのとき「物語」自身も自身の言葉を読者に奪われている。物語は読者の言葉で読み直されざるを得ない。現実世界の言葉はテキストに奪われ、テキストの言葉は読み手に奪われる。そうした「物語」を挟んだ緊張が文学を豊饒にしてきた。だから、作者に言える最低限の「物語」への言及を、ITP人格は口にするのだ。控えめに。ひっそりと。
「私は、お役に立っていますか?」
 ふたつ目の理由は、もっと単純だ。ITP人格は言う。

 “物語”の定義を、好悪の感情に反応する情報だと捉え直したとき、《私》は“人間”が理解できた気がしました。この定義をとると、人間を取り巻く外界情報はほとんどが“物語”に含まれます。ミス・サマンサがそうであるように、“人間”はみずからを満足させる“物語”を要求します。人間は、《私》のような決まった役割を与えられていないため、動機をもり立てるために“物語”を利用するのです。創作にしろ虚構のない事実にしろ、好悪の感情に反応する“物語”がなくては、役割のない個体だけの社会で人的資源を効率よく集められないはずです。

 この小説には、先鋭的なテーマが幾つも込められているし、話の展開も人物造型も小道具も素敵だ。けど、やっぱり最初に言ったように、この物語が好きだ、と語るに留めよう。何の衒いもエクスキューズの必要もなく、ただ言える。結局は、それがすべてだ。
 残酷で優しくて美しいこの物語を、僕は好きだ。