善き人:フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク監督『善き人のためのソナタ』雑感

 善行は、救いをうるための手段としてはどこまでも無力なものだが――選ばれた者もやはり被造物であり続け、その行うところはすべて神の要求から無限に隔たっているからだ――選びを見分ける印しとしては必要不可欠なものだ。救いを購いとるためのではなく、救いについての不安を除くための技術的手段なのだ。こうした意味で、善行が時にはいきなり「救いのために必要」だとされたり、あるいは「救いの取得」が善行に結び付けられたりする。

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』より、カルヴィニズムの根本教義といえる「予定説」について書かれた箇所。選ばれた者は自分が選ばれたことを知らない。捨てられた者は自分が捨てられたことを知らない。たとえ救われていたとしても、救われているという自覚を持つことはできない。だから、「善行は救いをうるための手段としてはどこまでも無力」になる。それでも、「カルヴァン派の信徒は自分で自分の救いを――正確には救いの確信を――『造り出す』」

 しかも、それはカトリックのように個々の功績(善行)を徐々に積み上げることによってではあり得ず、どんな時にも、選ばれているか捨てられているか、という二者択一の前に立つ組織的な自己審査によって作り出すのだ。

 ふと、映画『善き人のためのソナタ』の監視者を思い出す。
 盗聴によって生活のすべてを知られているのに、劇作家は最後まで自分は盗聴されていないと確信していた。
 善き人、とは誰のことだろう。もちろん、監視者は善行を積もうとしたのではない。けれど、常に観察者だった立場の彼は偶然聴こえてきたソナタのせいで、彼自身を観察している何者かの存在を想起してしまったのではないだろうか。観察から行為に移ってゆく彼の意識に上ったのは、逃れられないその視線だったのではないのか。

 いかにして人は自己を知りうるか。観察によってでは決してない。行為によってだ。汝の義務を果たすにつとめよ。そうすれば汝の何ものなるかが直ちに明らかとなろう。――が、汝の義務とは何か。その日が要求することだ。

 ウェーバーゲーテの格言を注釈として載せて、本質的に同じ意味を持つ、と記した。
 神のように振る舞っていた監視者を突き動かしたのは、なんだったのだろうか。善と神との間に何らかの本質的関係があるのかどうかは知らない。どちらが先でどちらが後かも知らない。ただ、「善き人」のように行為した監視者はただの人間だった。救われているのか捨てられているのか判断できない、最後まで不確定な立場にいるただの人間。
 エンドロール直前に腕をグイッと引っ掴んで「どうしてあんなことをしたのですか」と本人に尋ねてみると、案外、「その日が要求する義務を果たしただけだ」と言うかもしれない。きっと神を持ち出しはしないだろう。


 さて、この論の難点は、処世術としては全く役に立たないところである。2010年4月27日現在の時点では、全能の監視者なんてものを想定できないからだ。
 幸いなことに。