昔、北綾瀬に住んでいたとき違う橋を渡りたいと思って荒川河川敷を2、3キロ歩いた末、巨大な柵に行く手を阻まれて断念したことがありました。:中村光『荒川アンダーザブリッジ』雑感

 唐突ですが、フィクションの雛型の中ではなんだかんだ言っても《ボーイ・ミーツ・ガール》型が最強だと思うのです。ん、最強は表現が変だな。「基本にして万能」が正しいかもです。
 問. ボーイ・ミーツ・ガール型って何? 
 答. 男の子が女の子と出会う話です。バリエーションとして逆でもいいし、異性でなくてもいいし、複数化もアリです。但し重要なのは、「出会うはずのなかった二人が出会ってしまう」ところです。これが基本で、外してはダメです。元々出会うはずがないのだから、不思議空間で出会ったりします。
 中村光は、この型を縦横無尽に使いこなす稀有な人です。この人、ヤバいっす。いまさらでしょうけど。……お察しの通り、シャフトの色遣いとキャストの無駄遣い(無駄じゃねえ! 豪華と言え!)にヤラれて『荒川アンダーザブリッジ』(既刊十巻)を大人買いしたのです。いっそうヤラれてしまったわけです。ページを捲るたびに急展開ってどういうこと?(原理的には急展開というよりオチってことだろうけれども、事実、話の筋がここで展開するわけで)
 ヒット商品なんかで良く耳にする「この設定で面白くないはずがない」というのは本当は間違った見解で、本の腰巻か映画のチラシくらいにしか使えない(と僕は思っています)。もしくは、後出しジャンケンです。無茶な設定こそ得てして企画倒れになりやすく、「っかしいな、買うとき絶対面白いと思ったのに」という感想の原因もここにあります。発想の勝利が通用するのはせいぜい三話までで、面白くても途中から設定が関係なくなってたりしてる場合も多いです。それはもはやボーイ・ミーツ・ガール型ではありません。完全に持て余してしまったのです。
 対して中村光の凄さは、もしかしたら誰かは思いついたかもしれないけど、それどう考えても地雷じゃね、いやそこ突き進むの違くね、と誰も掘り下げようとしないところをガンガン掘りまくるところです。こういう設定って、たとえば寝不足が続いた或る夜に突然変なスイッチ入って「ヤベっ、これ超面白くね?」と衝動的に思いつくアレです。目覚めた瞬間の「今の夢どんなんだっけ、すげえ面白いはずなのに」やいわゆる「真夜中のラブレター」にも似てます。うわ、神様きた!? とハイテンションにハマって書き進めるのだけど、一週間くらい書いてると想像してた面白さが一向に現れないことに気づいてへこむ。気付くのはだいたい深夜です。そのダメージはユダ級です。
 けれども、『荒川』も『聖☆おにいさん』もこういう危険水域超えてる設定を使って力技で笑わせに行くのです。勇者です。だから、設定が面白いかどうかはもちろん重要ですけど、むしろ、この設定でここまで面白くできるほうが驚異です。これが企画倒れにならないのは奇跡だと思います。
 ――だって、出オチじゃん!
 なのに、巻を追うごとに笑いが増え(リクの「いとおかし」にツボる。分かってるのに。来るの分かってるのに!)、いつしかストーリーの骨格がしっかり出来てて、ほろっときそうなシーンさえあったりする。これで泣いたら負けだと思ってます。きっとリクもそう思ってます。
 たぶんマンガ自体がボーイ・ミーツ・ガールの本質をがっしり掴んでいるんだろうな、と思いました。「出会うはずのない二人が出会う」のは、「日常が非日常に出会う」ことです。言葉にすると陳腐だけど、これを形にするのは本当に難しい。面白い作品は、非日常の舞台で日常が勝ったものです。あり得ない話をあり得るように感じさせる(いや、あり得ないんですけどね)ためには、荒川の河川敷を不思議空間にするだけでなく、この不思議空間で当たり前の日常が繰り広げられなければなりません。ありていに言えばディテールの作り込みでしょうが、生活はホームレスの日常であってはならず、ホームレスが一般人と同じだから面白い。緑色や金星人が当たり前のように隣にいることが面白い。当たり前のようにいるから、読み進むうちに出オチを忘れてしまうのです。
聖☆おにいさん』だって「ブッダが手塚先生の『ブッダ』を読んだらどう思うか」とか「イエスがクリスマスに出くわしたらどう思うか」くらいのアイデアは出てきそうに思えるけど、これを延々繰り返せるのが凄いです。普通は途中でネタが尽きます。取材どうこうで埋まらない、センスの問題ですから。
 つまるところ、ボーイ・ミーツ・ガールとは「出会うはずのない二人が出会うだけ」の話なのです(※「だけ」が大事です)。シンプルゆえに万能で、シンプルゆえに使いこなすのが難しい。この型が学園モノと勘違いされるのは、➀ポジティブに捉えれば学校というシステム自体が社会における不思議空間だからということもあるでしょうけど(社会学プロパーの人ならこれだけで新書が一冊書けるのでしょう)、➁あえてネガティブに言えば、学園モノならネタの消化にイベントを盛り込めるからかな。けれど、本質はそこにないのです。更に言えば学園イベントは種類の異なる非日常ポイントだから(学校の持つ不思議空間性が差異化されて舞台が日常化してしまう)、本来多用するものではないと個人的には思うのです。じゃないと、せっかくの独自設定を殺してしまうじゃないですか。
 ちなみに、『荒川』最強は橋の上の小学生たちだと思いました。
 てか、十巻の引きが半端ない。続きが気になりすぎるよ!!