日本語では「高い家」です。:荒川弘『鋼の錬金術師』雑考

 フィリップス・アウレオルス・テオフラストゥス・ボムバストゥス・フォン・ホーエンハイム
 ――通称、《パラケルスス》。
 16世紀を生きた北方出身の医者は、30歳そこそこでバーゼル大学の教授になったとき、慣習を破ってドイツ語で講義した。世は宗教改革で荒れている。歯に衣着せぬテオフラストゥスの言動は市の保守層の怒りを買う。翌年、彼は大学と街から逃げるようにして諸国放浪の旅に出る。パラケルススの数々の伝説はここから始まる。
 ここで、ドイツ語での大学講義という点は興味深い。カトリックの権威が揺らいでいたとはいえ、ラテン語は長らく学問の言語だったものだ。15世紀の哲学者クザーヌスをルネサンス精神の中心において考察したカッシーラーの名著にあるように――

 中世ラテン語からの解離、そして自律的な学問的表現形式としての「俗語」の漸次的な構築と整備は、科学的思考とその方法上の基本理念を自由に発展させるための欠くべからざる前提条件であった。ここにもまた、言語はただ思想に付き随うだけのものではなく、むしろ言語自身が思想形成の本質的契機の一つであるという、フンボルトの根本直観の真理と深さは証示される。スコラ的ラテン語と近代イタリア語の差異も、単なる「響きと文字の違い」ではない。そこには一つの「世界観の相違」が表現されている。
 ――『個と宇宙―ルネサンス精神史―』(名古屋大学出版会)

 クザーヌスの時代(クアトロチェント)にはなお厳しく統制されていた中世ラテン語による知の支配は、パラケルススバーゼル大学にいた頃になるとかなり衰えていた。
 けれど、その一方でパラケルススという名は「ホーエンハイム」をラテン語化して彼自ら名乗ったものだという。放浪者ゆえに共通語としてのラテン語を用いただけかもしれないが、別の意図もあったかもしれない。たとえば、魔術言語は正しく使われねばならない。なぜならば、異なる言語には「単なる響きと文字の違いではなく、世界観の相違が表現されている」からだ。
 パラケルススホーエンハイムという二つの名前は、二つのルネサンスを垣間見させてくれる。


 にしても、こんなにかっこよく描かれるパラケルススもそうないんじゃないか、と『鋼の錬金術師』を見て思う。
 作者は人物造型する際にパラケルススを二つのキャラクターに分けたのだろう。と、勝手に思ってる(ルネサンスの多面性とは関係ないが、パラケルススの《不一致な一致》が原因かもしれない)。分けたことでストーリーに厚みが生じた。ちなみに分かれたのは、ホーエンハイムと「お父様」とに、ではない。

 まず伝説の第一は、彼(パラケルスス)がつねに身辺から離さなかった剣である。彼の肖像画を見ると、必ず剣を握ったところが描かれている。……(中略)……伝説の第二は、彼がインポテンツではなかったか、という説である。パラケルススの生涯で注目すべき異常な点は、女性関係がまったく見当たらないことで、そのため、彼の医学上の反対者や敵たちは、彼を去勢された男とか、男色家とか呼んで馬鹿にしたのである。
 ――『妖人奇人館』澁澤龍彦河出文庫)より