What the ? :『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』雑感

 電子書籍元年?2年?の話題もだんだん凋んでる感じだけど、タブレットの性能云々からプラットフォームとコンテンツの関わり(プラットフォーム側と出版社の折衝など)へと一般的興味が移ったのは、ひとつの段階的兆候ではあるのかな、と思う。まぁ一消費者としては、紙でも電子でも書かれた内容は同じなんだから選択肢は増えたほうがいいなと単純に思っている。稀覯本蒐集にはまるで興味のない自分だけど、それでも紙の本が消えるとも思ってないわけで。
 ともあれ、現状、日本語コンテンツが少ないからブックリーダー買ってもメリットないかなとは考えていた。そんなとき、某所で洋書フェアが開かれてて、未読だった"Extremely Loud & Incredibly Close"のペーパーバックがかなり安く売られているのを見つけて、購入。これが電子書籍のマスマーケット化が進展しない状況に対する個人的なメリットかも、と考える。なにしろ日本は翻訳天国なので、いままで洋書にほとんど目が向かなかったのだけど、これだけ電子書籍が騒がれてると、英語の小説くらいは原文で読むようにしようかなという気になったもんで。電子書籍という形を有効に使えるようポジティブな方向へシフトチェンジ。ペーパーバックを買っておいて妙な言い草だけど(どうでもいいことだけど、英語でのphysical booksって呼び方はなんか面白い)。
 というわけで、個人的な行動も状況に左右される。とても個人的な行為である読書においてさえ、そうなのである。


 今年の夏に翻訳書が出版されて表紙が印象的な(買ったのはペンギン版だから表紙に手はないが)『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』(ジョナサン・サフラン・フォア)は、2001年のアメリ同時多発テロ(※後述)で最愛の父親を失った少年オスカーの物語である。しかし、描かれているのは普遍的な光景だ。舞台はテロから二年後のニューヨーク。オスカーは父の死を受け入れられず、内省的な毎日を送っている。ママはロンという男と仲良くして、パパのために泣いてもいない。僕はいつもパパのことを考えているのに。あの日、パパがどんなふうに死んだのかを。僕にはママにもお祖母ちゃんにも言えない秘密があったから。









 ……心を掴んで離さない小説だった、明らかに。小説を読んで泣いたのは本当に久しぶりだった。で、「泣ける小説」なんて言うと、最近ではかなり胡散臭く聞こえるわけだが、泣くという行為自体は単純でも、その構造はけっこう複雑で、感情に流されている裏にはそうではない自分も存在しているんじゃないかな。泣いている部分があり、そうでない部分がある。自分の中の泣かない部分は別の何かに心を掴まれていて、その何かという対象を明瞭に名指すことができないのは、ひどくもどかしい。そして、泣くときにはそうしたはっきりとはしない何かまでまとめて感情に流してしまうから、単純に見える。本当は、小説を読んでいるときに流れる涙も、人が死んで悲しいとか別れが悲しいとかいう理由からではないのかもしれない。そういう意味では、泣くという行為は、生きることにも似ている。生きることは複雑で、自分がどこに立っているのかいつでもはっきりと分からない。何かが起こってもそれが自分の人生にとってなにを意味しているのか、あるいは意味があるのかさえ、分からない。ただそれが起こったときに、そこにいる自分に気付くだけだ。あるいは、感情の渦に押し流されているのに、押し流された自分だけを自分だと感じているように。でも、本当にそこに自分はいるのだろうか?
 そんな明らかにできない対象をオスカーは問おうとして、問いにできない。「問えない」のではなく、問いにできない。オスカーは客観的な判断を自分に求める少しませた九歳の子供で、いつでも論理的な説明を求めている。もちろん、問う理由は答えを知るためだ。それまでずっとパパにそうしてきたように。パパがどのように死んだのか、本当に自分を愛していたのか、最後に何を言いたかったのか。
 でも、オスカーには自分の問いたい対象がぼんやりとしていて分からない。だから問いを問いにできない。ただ反射的に、それとも感情に流されるように口にするだけ。"What the?" なにそれ? 問いの対象が存在しない。それともたくさんありすぎる。
 対象をはっきりさせることはできるのだろうか?
 父親の死後、やがてオスカーは手紙を書き始める。これも宛先という対象の明確化。彼は手紙を送り、時に相手から返事が来る。最初は嬉しかったホーキングからの返答も、送られてくるのは決まり文句の返事だと分かる。何度も同じ文面の返事しか来ない。決まり文句の返答には、対象がない。自分も相手もそこにはいない。彼が空っぽの棺への服喪に意味を与えられないのと同じく。
 オスカーが生き生きとした行動を開始するのは、ある夜、父親が持っていた謎の鍵を発見してからだ。対象がはっきりすれば、意味のある問いができる。ニューヨーク中を歩き回って謎の手掛かりを探して回る。いろんな階層のニューヨーカーと会って話をする(彼らのエピソードも面白い!)。いろんな人が彼の話を聞き、彼は相手の話を聞く。……そして答えに辿りついたとき、彼はどう思うだろう?
 対象をはっきりさせることはできるのだろうか?




 安部公房が英訳された『砂の女』について、梗概冒頭に出てくる言葉が「仁木順平」という名前なのが興味深い、というようなことをどこかで言っていた覚えがある。『砂の女』の作中、最後の「失踪に関する届出の催促」と判決書にしか男の名前は出てこないからだ。これについて安部公房が、アメリカ人というのは名前がないと不安なんでしょうな、というような感想を(どんな表現だったかうろ覚えだけど)述べていた。
 それを思い出したのは、作中にMomとGrandmaの名前が出てこなかったからだ。ママはまだしも、グランマの名前が出てこないのは構成から考えて意図的だろうと思える。対象の明示が名前によって為されるのなら、ここで表わされている対象は、祖母(別のところではyour mother)という関係性だけである。彼女の生きる意味は、オスカーを愛することだけ。明瞭だ。彼女の夫が去ってからすでに四十年を経ている。彼女は多くを失い、いままた息子を失った。彼女にはオスカーしかいない。オスカーもそれを知っている。彼女はその人生をオスカーに捧げている。彼女が生きられなかった人生のために、である。
 彼女は彼女自身を語りながらも、彼女自身をほとんど描出しない。それは彼女自身をモデルとした彫像を夫の手で作られることへの渇望にも通じるのかもしれない。それでも彼女は彼女を求めているから。彼女の声が描出する彼女の目に関する自虐は、彼女を彼女に結びつける唯一の通路だったのかもしれない。けれど、これもおそらくは彼女の姉との比較が前提にある。やがて、彼女は人生を意味づけるためにたくさんのルールを作ってルール通りに生きようとする。対象の固定化だ。そうすることによって、彼女の周りにはたくさんのsomethingが生まれる。でも、彼女自身はやはりない。
 もっとはっきりと自己を失った登場人物として、祖父は造形されている。彼が最後に発した言葉は"I"だった。そして、それもなくしてしまった。彼には名前がある。けれど、その名前はないも同然。
 世の中では、対象は(それが「自分」であれ)常にぼんやりとしている。なにを問いたいのかすら、本当には分からない。見ることも聞くことも嗅ぐことも味わうことも触ることもできないダークマターのように。それでいて、人生はそんなぼんやりとした対象に左右されている。物語が必要なのもそのためなのだろうか。物語は自分の人生のために必要とされるのか。確かに、それはひとつの救済なのかもしれない。なぜなら、事実はいつでもぼんやりとして望むとおりの形をしていないから。
 でも、そう記された「あの手紙」が示唆しているのは祖父の意見ではないかな、と思う。

 ……空っぽの棺には、いったい何を詰めればよいのか。


 誰もが人生を求めている。たぶん自分の人生を。たった一度だけでも。たった数秒間でも。
 その気持ちに共感できるから、心を掴まれるし、涙も零れるのだろう。この小説は死ではなく、生について描いているのだから。










※以下は、ごくごく個人的な意見である。意見と言っても、世間への非難ではまったくないし、主張というにも熱意が足りない。だから理解を求めない、単なる言い訳のようなもの。どうして「同時多発テロ」と書いて「9.11」と書かなかったかについての。


 僕は、3.11という言葉があまり好きではない。とても無機質な記号的な響きがするし、それは多分に「さんてんいちいち」または「さんいちいち」という音に起因しているのかもしれない。同じような対象化であっても、アメリカ人が同時多発テロを呼ぶときは"September eleven"か"nine eleven"じゃないだろうか(だから同様に、「きゅういちいち」や「きゅうてんいちいち」にも何か居心地の悪さを覚える)。と言っても、僕はその居心地の悪さについて明瞭に描き出すことができない。「さんてんじゅういち」ならいいのかと言われると、それでも居心地は悪い。自分でもどうしてそうなのか説明し尽くせるとは思えない。ただどこか居心地が悪いので、あまり使いたくはないのだ。それは海外のニュースが報じる"Fukushima"に対する居心地の悪さにも似ている。まして日本で「フクシマ」とカタカナで書かれることに。ヒロシマというカタカナへの違和感と同じ。どうして東日本大震災ではいけないのだろうか。どうして福島第一原発事故ではいけないのだろうか、とどうしても考えてしまう。もしも分析のために対象化が必要なのであれば、それで十分ではないだろうか。無機的な響きで対象を固定化するとき、起こった出来事自体を何かの中に埋めているような気がしてしまう。
 この小説では、作中、テロ事件を9.11と呼ぶことはなかった(見落としてたらすみません)。もし作者に他の理由があってそうしたのだとしても(それでもたとえば原爆の描き方を見ても、作者はあえて記号化を避けていると感じる。ヒロシマではなく、広島を描写しようとしているのだから。更にその場面には執拗にキノコ雲について問うインタビュアーとそれを見なかったと否定する母親が出てくる。キノコ雲は原爆の記号化だ。それも、遠くから見た記号だ)、僕はその事実を好ましいと思った。