『DAU.ナターシャ』(イリヤ・フルジャノフスキー監督)を観た。奇抜というかなんというか、異常な撮影方法が話題となった映画である。
かつてのソ連を再現するために当時の町を実際に作り、そのセット内で何百人もの参加者を、二年間も当時の風習に従って生活させて(文字通り歴史シミュレーションだ)、撮影を行ったという。「史上最も狂った映画制作」とも言われた、とんでもなく大掛かりな映画なのだ。
こうした映画が完成しただけで驚きである。ギリアム『ドン・キホーテ』やホドロフスキー『DUNE』は頓挫したわけだし、フィクションでさえ『脳内ニューヨーク』(カウフマン)の映画内映画は未完だった。この『DAU.』プロジェクトは七百時間のフッテージを撮りため、映画として十作を予定しているそうだ。『ナターシャ』が第一弾で、第二弾『DAU.Degeneration』は『ナターシャ』とともに映画祭に出品されたということで、ぜひ日本でも公開してほしいものです。なにせ『ナターシャ』では、ほとんど町並みが映らなかったから。
以下、ネタバレしています。念の為。
全体主義社会の非人間的な権力の実相を暴き出す映画『DAU.ナターシャ』だが、スクリーンにはひたすら人間、というか、人間の感情や情動を映し続ける。撮影監督がハネケ映画(『ファニーゲーム』もそう)を撮ったユルゲン・ユルゲスだったことも観たかった理由のひとつで、たしかに賑やかな場面でさえ不穏、不安が漂って目を離せなかった。ただしハネケの場合と違い、こちらは全部を映しだす。
主人公ナターシャは研究所の町の食堂で働き、同僚のウェイトレスに若いオーリャがいる。四十代半ばのナターシャは、既婚の昔の恋人をいまも愛している。その男にDVを受けていたようだが、それでも一方的に愛情を抱き続けている。
一方で、ナターシャはオーリャに無理に酒を飲ませたり、頭ごなしに説教したりと、強制する態度をしばしば見せる。ナターシャの他者との関係の結び方は歪だが、自覚がある様子はない。
冒頭で、ナターシャはオーリャに食堂の床を拭くように指示するが、オーリャが「明日やる」と断ったことに激昂して、ふたりはケンカになる。
ラストで、ナターシャはまたオーリャに食堂の床を拭くように指示し、やはりオーリャが従わない。
冒頭とラストのやり取りが同じで、終わらない悪夢といった様相でもあるが、二通りの解釈ができるのではないかと思った。一応、これがこの記事の主題である。
1、毎回オーリャが床拭きを明日に延ばしてナターシャがイラ立つ。
2、ラストシーンの続きが冒頭のシーンである。
解釈1
ナターシャは依存することでしか他者と関係を結べない。そのせいで情緒不安定に映る行動をたびたび起こす。決定的な姿は、KGBによる拷問の後のやりとりで明らかにされる。尋問官はナターシャを肉体的にも心理的にも拷問する。その後で、彼はナターシャに優しく接して協力を強制する。それに対して、ナターシャは尋問官に取り入るような態度で応答する。
このナターシャの言動は打算によるものではなく、恐怖の対象であるはずの尋問官に依存しようとする不気味さが描かれる(暴力を振るう恋人に未だ依存していることと重なる)。全体主義社会というものが、そうした自発的な依存によって永続したという恐怖がまざまざと描かれている。
こうした権力へ依存する市民と、彼らの弱者への攻撃性(ナターシャがオーリャに示すような)は、いまの日本でもよく見られる。ナターシャは善人ではないが、どこにでもいる人間なのだ。抗えない(と彼が考える)強者に依存する人は、彼自身が弱者とみなした相手を自らに依存させようと無自覚に残酷な行動を取る。それが人間性の喪失だと気付かない。そうする以外の人間関係を結べなくさせることが、全体主義社会の恐ろしさでもあるのだろう。
解釈2
ナターシャにはすでに尋問官=全体主義国家への恐怖が刻み込まれ、些細なきっかけで心の均衡が破れて感情の制御が効かなくなっている。常に抑圧下にあるなら、ナターシャの精神状態が不安定なのも当然だろう。
食堂を閉めた後で、ナターシャがオーリャにムリヤリ酒を呑ませ、しばらくは仲よく飲んでいたが、やがてケンカになる。ナターシャは散々ひどいことを言いながら、オーリャを引き留めようともする。だが、オーリャは帰ってゆく。その夜に、ナターシャは椅子やテーブルをひっくり返して暴れたり、泣いたり、妙に冷静になったり、明らかな情緒不安定さを見せる。そしてその際、「上官が明日来たら大変なことになる」というようなセリフを口走る。この「上官」とは、ナターシャが連行された先で尋問官が名乗る呼び名(「覚えられないなら上官でいい」)だ。すると、ナターシャが食堂で八つ当たりしたこの夜は、拷問された後だと考えられないだろうか。
なぜ、そんな演出があり得るのか。
ナターシャの感情の発露が意味不明であればあるだけ、観客は剝き出しの感情そのものに圧倒されるだろう。ナターシャがオーリャを詰ったり、食堂の椅子を壊したり、逆にオーリャに優しくしたり、ひとり怯えるように泣き出したり、そうした行動に理由がないほうが不気味であり、ただ感情だけが生々しく迫ってくる。それは人間そのものの生々しさでもある。なまじ理由を見出すと、ナターシャの感情に因果関係をこじつけて納得してしまうのだ。
この映画はひたすら人間を映している。風景や背景でなにか語ることさえしていない。非人間的な社会は合理性を根拠とする。その抑圧下にある人間は、理由の分からない感情の奔出として描かれるのではないか。だから、もしも映画内時間がシャッフルされたとしても、最後の最後まで隠しておくことには大きな意味があると考えたいのだ。
とは言え、全体主義を描くというテーマから、ナターシャの剝き出しな感情は依存として捉えるほうが、まず正しい解釈だろう(八つ当たりの夜の後、ナターシャの後をKGBらしき男が尾行していたし)。解釈1である。