映画のタイトルを考える。

 『七瀬ふたたび』の映画が製作されるという。ちょっと前にニュースで見た。実写版「ときかけ」の製作発表もあったから、筒井ブーム再来といった感じだ。
 この小説は以前に、そして最近にもテレビドラマ化された経緯があるそうだ。「意外なことに映画化は初」という記事だったけど、極めて言語イメージの強い原作なだけに果たして映像向きなのだろうか。それとも、そこが映像関係者の興味をそそるのだろうか。
 数度の映像化を経た名作がこのたび映画になるというので、タイトルを考えてみた。

     新・七瀬ふたたび
     七瀬ふたたびリターンズ
     七瀬ふたたびみたび
     帰ってきた七瀬ふたたび

 ……この小説のタイトル、実は奥が深いのだな。
 まぁ一番しっくりくるのは、『七瀬ふたたび The Final』かな。ぜひとも決定版と位置付けられるくらいの傑作に仕上げてほしいものです。観に行くかどうかは公開時の懐具合次第だけど……。


 超能力というと、透視能力に興味がある。
 この能力を身につけるのは大抵男と相場が決まっていて、若い女を全裸にひんむいてあらぬ妄想を掻き立てるという、脇役以上の重要性を割り振られないのだけれども、実は透視能力とは最もパラドックスを含んだ超能力ではないかな、と思ったりする。
「七瀬」の場合でいえば、主人公の七瀬は強力な精神感応能力者で、その超能力は歳を重ねるごとに強くなってゆく。この小説の凄いところは、七瀬(他の超能力者たちもだが)が自分の能力を必ずしも快く思っていない、という点にある。異能の力を身につけたばかりに日常生活が困難に陥ってしまう。「人間+α」が「人間−α」と表裏一体なのだ。実際、七瀬たちは他人に能力を知られないよう細心の注意を払って生きている。だからこそ、歳を重ねるごとに強くなる超能力という設定はご都合主義に陥らない。むしろ彼女たちは自分の能力を呪いのように感じ続けているからだ。
 そこで、透視能力である。
 身体の成熟ないし意識の発達に比例して透視能力が増大してゆくとするならば、ある段階から「どこまで透視するか」という能力のコントロールが重大なカギになるだろう。つまり、「あの壁一枚の先まで」とか「全裸まで」とかを意識的に制御しながら能力を使用しているのだろう、と思われるのだ。けれども、ここで際限なく強くなってゆく透視能力なるものが存在するとすれば、いつかは力を制御しきれなくなるときだって来るかもしれない。
 そして、七瀬の言う「掛け金」を掛けることができなくなってしまったら?
 能力が強くなりすぎて、あらゆる物質を透視できる能力を身につけたとき、彼には何も見えなくなってしまう。見ることに特化しているゆえに何も見えなくなってしまう。或いは、「掛け金」が外れっぱなしの透視能力者には言語世界を超越した「真理」が見えるのだろうか。或いは、未だ言語に分節されていない「カオス」が見えるのだろうか。
 ここまで! という限界を定めることができないという状況は、本来は人間にとって恐ろしいことなのかもしれない。


 ……今後、七瀬は何度帰ってくるだろうか?